四十番観自在寺から次の龍光寺までは、六十一キロもある。豊後水道沿いの国道を歩く。ひっきりなしのクルマの騒音に気持ちが落ち着かない。四国の道の矢印があったので、右の小道に入る。途中小さな番外の札所があったり、お地蔵さんが並ぶ道を歩いた。山道だったこともあり、かなり遠回りだったのかもしれない。国道に戻ってみると、まだ景色は先ほどとさほど変わっていなかった。
青い海に浮かぶ小島。水飛沫が白く美しい。それを見ているだけで元気が出てくるようだった。海が見え隠れする道を歩く。相変わらず車の多さにうんざりするが、5時過ぎ頃、バス停で休憩していると、たまたまそこに車が迎えに来るという方と話し始めた頃に、乗用車が到着。津島までクルマのお接待を受けた。山道を歩いた分車で今日の道程を進ませていただいたような格好になった。
津島は、国道沿いに川が流れ、橋を渡って街に入る。お寺の建物が目に入った。しかしどう見ても禅宗のお寺のように思えた。普段であれば、庇をと言って玄関を叩くところではあったが、このときは何故か橋を渡ったところにあった新橋旅館に泊まってみたくなって、境内を覗いただけで踵を返した。
新橋旅館は木造二階建ての古い旅館で、こざっぱりした落ち着いた雰囲気の宿だった。真珠の養殖の街だけあって、古風な落ち着きのある街並み。川と国道の先に見える夕暮れ時の海も美しい。景色を眺めながら、ゆっくり日記を認める。
ここまで、沢山の方たちのお接待や善根宿のお陰で、何の苦労もなく至っていることを思った。ただ自己の心を見つめ、歩くときには一歩一歩何も考えないことを心がけてきた。しかし、ここ数日、札所などで出会う、他の歩き遍路さんたちの様子や話しかけられての会話に違和感をおぼえ心乱している自分を不甲斐なく思い、お経に身が入らないこともあったことなどを反省した。
翌朝、家に電話をした。元気そうな声に安心する。気持ちよく宿を後にして、橋を渡る。バスの走る国道をひたすら北に向け歩く。宇和島の街に入るところで、中務茂兵衛(なかつかさもへい)という明治の人が建てた道標があった。少し茶色になった四角の石に、手形と龍光寺と記してあった。茂兵衛は江戸時代の終わりごろに山口県大島に生まれ、十九歳の時に四国遍路を思い立ち、大正十一年に七十八歳で遍路途中に亡くなるまで、二百八十回も四国を巡ったという。
その間に四国全域に沢山の道標を建立し、施主が広い範囲に見られることからも、かなり有名で生き仏と慕われていたとも言われている。大きなものでは六尺、平均四尺の高さで遠くからもよく分かる道標である。茂兵衛の辞世の句が遺されている。
「生まれきて 残れるものとて 石ばかり 我が身は消えし 昔なりけり」今の世にこうして顕彰されることを先読みしていたかのような句を書き残した。
沢山の賑やかな飲食店などが目にさわる宇和島の街並みを過ぎると、国道とも別れ東に道を取る。四十一番稲荷山龍光寺は、三間のお稲荷さんの下に位置する。古い集落の間の道を進むと山門ならぬ鳥居が目に入った。昔弘法大師がこの地に至ると、白髪の老人が現れ、我れ仏法を守護せん、と告げて姿を消したことから、ここが霊地と知り寺を造った。その老人の尊像を刻み、稲荷明神として祀ったという。
お稲荷さんは、稲を象徴する神、もとは五穀豊穣の神であったが、今では開運や商売の神となっている。ここでも、明治になり廃仏の煽りを受けた。江戸時代までは現在の境内の上に位置する社殿が本堂だったという。現在では狭い土地に本堂が造られ十一面観音を祀っている。気の毒なほどに狭小な境内。それでも、落ち着いた静寂の中にあり、ゆっくりと理趣経を唱える。石段をまたいで反対側に大師堂があった。
龍光寺を後にして、次の仏木寺に急ぐ。三・七キロの距離。近いと思ったのが間違いだった。田んぼの畦道の脇を歩き、小高い山をいくつも横に見ながら、もう着いただろうと思うと、神社だった。アスファルトの整備された道を進むと、右側に大きな楼門が見えてきた。石段を上がると茅葺きの堂々とした鐘撞き堂が目に入る。そこを左手に進むと境内に出た。奥に本堂と大師堂が並んでいた。
寺伝では、弘法大師が唐の国から還った翌年、大同二年(807)頃にこの地にいたり、牛を引く老人に牛に乗るように言われ乗ったところ、楠の木の前に案内された、するとその楠の木には唐の国から有縁の土地に至れと投げた宝珠が掛かっていたという。さっそく大師はここでその楠の木で大日如来を彫り、その宝珠を眉間に納め白毫にしたという。
鎌倉時代には、大覚寺統の後嵯峨天皇の皇子で、最初の宮将軍となる宗尊親王(鎌倉幕府第六代将軍)の護持仏になったと言われる御像である。宗尊親王は十歳の時征夷大将軍になり、その十四年後に謀反の疑いで京都に追放され、三十一歳の時出家、三十三歳で崩御。時代に翻弄された一生であった。また、仏木寺の大師堂の大師像は、鎌倉末期の正和四年開眼との胎内銘がある御像として有名である。現存する大師像の中でも最古の胎内銘だという。
整備された境内の落ち着いた雰囲気の中、お勤めを終えて時計を見る。四時半を指していたが、さらに先を歩いた。北に進む。夕刻が迫ってきたが、木々に覆われた山道が続ていた。突然視界が開けたと思うと、車道の左側から長い崖を下る道が続いていた。はるか下の方には車道に繋がっている様子が見える。一段一段気をつけながら下る。草鞋が段にひっかかる。日が落ちるのが気になりながら歩く。
ようやく崖を下ると車道が、明石寺のある卯之町に向けて延々続いていた。気がつくと、もう八時になろうとしていた。一気に疲れが全身に広がる。卯之町の商店街に入り最初に見つけた宿に草鞋を脱いだ。
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青い海に浮かぶ小島。水飛沫が白く美しい。それを見ているだけで元気が出てくるようだった。海が見え隠れする道を歩く。相変わらず車の多さにうんざりするが、5時過ぎ頃、バス停で休憩していると、たまたまそこに車が迎えに来るという方と話し始めた頃に、乗用車が到着。津島までクルマのお接待を受けた。山道を歩いた分車で今日の道程を進ませていただいたような格好になった。
津島は、国道沿いに川が流れ、橋を渡って街に入る。お寺の建物が目に入った。しかしどう見ても禅宗のお寺のように思えた。普段であれば、庇をと言って玄関を叩くところではあったが、このときは何故か橋を渡ったところにあった新橋旅館に泊まってみたくなって、境内を覗いただけで踵を返した。
新橋旅館は木造二階建ての古い旅館で、こざっぱりした落ち着いた雰囲気の宿だった。真珠の養殖の街だけあって、古風な落ち着きのある街並み。川と国道の先に見える夕暮れ時の海も美しい。景色を眺めながら、ゆっくり日記を認める。
ここまで、沢山の方たちのお接待や善根宿のお陰で、何の苦労もなく至っていることを思った。ただ自己の心を見つめ、歩くときには一歩一歩何も考えないことを心がけてきた。しかし、ここ数日、札所などで出会う、他の歩き遍路さんたちの様子や話しかけられての会話に違和感をおぼえ心乱している自分を不甲斐なく思い、お経に身が入らないこともあったことなどを反省した。
翌朝、家に電話をした。元気そうな声に安心する。気持ちよく宿を後にして、橋を渡る。バスの走る国道をひたすら北に向け歩く。宇和島の街に入るところで、中務茂兵衛(なかつかさもへい)という明治の人が建てた道標があった。少し茶色になった四角の石に、手形と龍光寺と記してあった。茂兵衛は江戸時代の終わりごろに山口県大島に生まれ、十九歳の時に四国遍路を思い立ち、大正十一年に七十八歳で遍路途中に亡くなるまで、二百八十回も四国を巡ったという。
その間に四国全域に沢山の道標を建立し、施主が広い範囲に見られることからも、かなり有名で生き仏と慕われていたとも言われている。大きなものでは六尺、平均四尺の高さで遠くからもよく分かる道標である。茂兵衛の辞世の句が遺されている。
「生まれきて 残れるものとて 石ばかり 我が身は消えし 昔なりけり」今の世にこうして顕彰されることを先読みしていたかのような句を書き残した。
沢山の賑やかな飲食店などが目にさわる宇和島の街並みを過ぎると、国道とも別れ東に道を取る。四十一番稲荷山龍光寺は、三間のお稲荷さんの下に位置する。古い集落の間の道を進むと山門ならぬ鳥居が目に入った。昔弘法大師がこの地に至ると、白髪の老人が現れ、我れ仏法を守護せん、と告げて姿を消したことから、ここが霊地と知り寺を造った。その老人の尊像を刻み、稲荷明神として祀ったという。
お稲荷さんは、稲を象徴する神、もとは五穀豊穣の神であったが、今では開運や商売の神となっている。ここでも、明治になり廃仏の煽りを受けた。江戸時代までは現在の境内の上に位置する社殿が本堂だったという。現在では狭い土地に本堂が造られ十一面観音を祀っている。気の毒なほどに狭小な境内。それでも、落ち着いた静寂の中にあり、ゆっくりと理趣経を唱える。石段をまたいで反対側に大師堂があった。
龍光寺を後にして、次の仏木寺に急ぐ。三・七キロの距離。近いと思ったのが間違いだった。田んぼの畦道の脇を歩き、小高い山をいくつも横に見ながら、もう着いただろうと思うと、神社だった。アスファルトの整備された道を進むと、右側に大きな楼門が見えてきた。石段を上がると茅葺きの堂々とした鐘撞き堂が目に入る。そこを左手に進むと境内に出た。奥に本堂と大師堂が並んでいた。
寺伝では、弘法大師が唐の国から還った翌年、大同二年(807)頃にこの地にいたり、牛を引く老人に牛に乗るように言われ乗ったところ、楠の木の前に案内された、するとその楠の木には唐の国から有縁の土地に至れと投げた宝珠が掛かっていたという。さっそく大師はここでその楠の木で大日如来を彫り、その宝珠を眉間に納め白毫にしたという。
鎌倉時代には、大覚寺統の後嵯峨天皇の皇子で、最初の宮将軍となる宗尊親王(鎌倉幕府第六代将軍)の護持仏になったと言われる御像である。宗尊親王は十歳の時征夷大将軍になり、その十四年後に謀反の疑いで京都に追放され、三十一歳の時出家、三十三歳で崩御。時代に翻弄された一生であった。また、仏木寺の大師堂の大師像は、鎌倉末期の正和四年開眼との胎内銘がある御像として有名である。現存する大師像の中でも最古の胎内銘だという。
整備された境内の落ち着いた雰囲気の中、お勤めを終えて時計を見る。四時半を指していたが、さらに先を歩いた。北に進む。夕刻が迫ってきたが、木々に覆われた山道が続ていた。突然視界が開けたと思うと、車道の左側から長い崖を下る道が続いていた。はるか下の方には車道に繋がっている様子が見える。一段一段気をつけながら下る。草鞋が段にひっかかる。日が落ちるのが気になりながら歩く。
ようやく崖を下ると車道が、明石寺のある卯之町に向けて延々続いていた。気がつくと、もう八時になろうとしていた。一気に疲れが全身に広がる。卯之町の商店街に入り最初に見つけた宿に草鞋を脱いだ。
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