本木昌造が長崎で築き上げた長崎新塾活版製造所の全事業を平野富二に託したのは、いつ、平野のどこに、目をつけたからでしようか。
時は元治元年9月、長崎製鉄所のヴィクトリア号(長崎丸1号)が強風と波浪に船体をきしませ、八丈小島の沖合を漂流していました。その船長が本木昌造、機関士が平野富二でした。貴重な蒸気船と50余名の乗組員の命を預かる2人が危機脱出にどれほど協力しあったかわかりません。
船が海の藻屑になってしまう直前にかろうじて全員が島民の助けで八丈本島に上陸することができて、迎えの船が来るまで130日間、ふたりは不安がる乗組員を束ねて、八丈で共同生活を送ることになったのです。
囚人船しか船便のない絶海の孤島の生活のなかでふたりがお互いをとことん知ることができたことはいうまでもありません。とくに本木は22歳年下の平野の思慮深さ、行動力、人をまとめる能力に舌を巻きました。「この男は使える」その時、本木は確信したのです。本木が活版製造事業を平野に託す8年前のことでした。