活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

平野富二を印刷に結びつけた八丈島漂流

2010-10-23 16:03:09 | 活版印刷のふるさと紀行


 本木昌造が長崎で築き上げた長崎新塾活版製造所の全事業を平野富二に託したのは、いつ、平野のどこに、目をつけたからでしようか。
 
 時は元治元年9月、長崎製鉄所のヴィクトリア号(長崎丸1号)が強風と波浪に船体をきしませ、八丈小島の沖合を漂流していました。その船長が本木昌造、機関士が平野富二でした。貴重な蒸気船と50余名の乗組員の命を預かる2人が危機脱出にどれほど協力しあったかわかりません。

 船が海の藻屑になってしまう直前にかろうじて全員が島民の助けで八丈本島に上陸することができて、迎えの船が来るまで130日間、ふたりは不安がる乗組員を束ねて、八丈で共同生活を送ることになったのです。

 囚人船しか船便のない絶海の孤島の生活のなかでふたりがお互いをとことん知ることができたことはいうまでもありません。とくに本木は22歳年下の平野の思慮深さ、行動力、人をまとめる能力に舌を巻きました。「この男は使える」その時、本木は確信したのです。本木が活版製造事業を平野に託す8年前のことでした。
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平野富二と本木昌造

2010-10-23 11:16:59 | 活版印刷のふるさと紀行
 エライ人が銅像になるのか、銅像になっているからエライのか。いずれにしても洋の東西を問わずエライ人を顕彰するには何をおいても銅像が相場のようです。
 本木昌造もあっちこっちに銅像がありますから当然エライのです。大阪の四天王寺で陣笠、陣羽織に大小をたばさんだ像に接したときは多少、田吾作めいた好々爺をイメージしましたが、この戦災で焼失したというブロンズは写真で見る限りさすがにエラそうです。

 平野富二の生涯がこの本木昌造によって決められたことは否めません。
桐生裕三さんに『活字よ、』-本木昌造の生涯-という力作があります(印刷学会出版部)。
 オランダ通詞の昌造が丸山遊郭に遊ぶところからはじまって、正月の凧揚げの日に子供の時から好きだったおようという娘が小さな男の子を連れて凧を見ているところにぶつかる光景に続きます。その子が富次郎という名で、幼いときの平野富二を連想させますが、これはあくまで小説。



 実際に平野富二が本木に出会った最初は12歳からの「隠密方御用番」ら長崎製鉄所の機関手見習いを藩から仰せつかって、彼が製鉄所に行くようになったときだったでしょう。文久元年のことです。

 長崎海軍伝習所が急に閉鎖されたために、伝習所の役割を引き継いだ長崎製鉄所が蒸気船のエンジニアを養成することになり、その要員に選ばれたのです。その時、本木昌造はその長崎製鉄所の御用掛りでしたから、これが二人を結びつける運命的出会いでした。
  
                       
                       
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