明治5年7月11日、富二は新妻こまと横浜に向かう蒸気船の甲板からだんだん遠くなる長崎の岬を見ていました。いよいよです。前年、下調べでのちの大蔵省印刷局にあたる「太政官左院活字課」、横浜毎日新聞社、東京蔵田活版所、日就社などに2千円ほど活字を売り込んだ手ごたえから富二は活字販売についての不安はありませんでした。むしろ、上京してからの暮らしを案じているらしいこまの気を引き立たせるのに気を遣わねばなりませんでした。
岬が見えなくなると、2人で船室に降りて行って同行の八名の社員たちといっしょになり、富二は横浜や東京について面白おかしく話するのでした。神戸に二泊して横浜に着いたのは5日目でした。このとき横浜までの船は記録によると、外国船籍の「飛脚船」と呼ばれている当時いちばん早い船足とされる船でした。
横浜から東京まではまだ鉄道が開通前でしたから、横浜・東京間もおそらく船を使ったとおもわれます。五号と二号の活字と字母、鋳型、活字の鋳込み機械3台、なかなか
の大荷物でした。
神田佐久間町に掲げた看板は「長崎新塾出張活版製造所」でした。営業は最初のうちは悪戦苦闘でした。そこで思いついたのは、船乗り時代の知り合いで埼玉県令、いまの知事に当たる野村宗七の存在でした。知己とはありがたいもの、野村が地方行政府としては国内最初に布告類を活版印刷に切りかえてくれました。
それを皮切りに前に書いたように「時の利」が味方するようになるのでした。
岬が見えなくなると、2人で船室に降りて行って同行の八名の社員たちといっしょになり、富二は横浜や東京について面白おかしく話するのでした。神戸に二泊して横浜に着いたのは5日目でした。このとき横浜までの船は記録によると、外国船籍の「飛脚船」と呼ばれている当時いちばん早い船足とされる船でした。
横浜から東京まではまだ鉄道が開通前でしたから、横浜・東京間もおそらく船を使ったとおもわれます。五号と二号の活字と字母、鋳型、活字の鋳込み機械3台、なかなか
の大荷物でした。
神田佐久間町に掲げた看板は「長崎新塾出張活版製造所」でした。営業は最初のうちは悪戦苦闘でした。そこで思いついたのは、船乗り時代の知り合いで埼玉県令、いまの知事に当たる野村宗七の存在でした。知己とはありがたいもの、野村が地方行政府としては国内最初に布告類を活版印刷に切りかえてくれました。
それを皮切りに前に書いたように「時の利」が味方するようになるのでした。