活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

平野富二東京へ

2010-10-25 16:59:27 | 活版印刷のふるさと紀行
 明治5年7月11日、富二は新妻こまと横浜に向かう蒸気船の甲板からだんだん遠くなる長崎の岬を見ていました。いよいよです。前年、下調べでのちの大蔵省印刷局にあたる「太政官左院活字課」、横浜毎日新聞社、東京蔵田活版所、日就社などに2千円ほど活字を売り込んだ手ごたえから富二は活字販売についての不安はありませんでした。むしろ、上京してからの暮らしを案じているらしいこまの気を引き立たせるのに気を遣わねばなりませんでした。

 岬が見えなくなると、2人で船室に降りて行って同行の八名の社員たちといっしょになり、富二は横浜や東京について面白おかしく話するのでした。神戸に二泊して横浜に着いたのは5日目でした。このとき横浜までの船は記録によると、外国船籍の「飛脚船」と呼ばれている当時いちばん早い船足とされる船でした。

 横浜から東京まではまだ鉄道が開通前でしたから、横浜・東京間もおそらく船を使ったとおもわれます。五号と二号の活字と字母、鋳型、活字の鋳込み機械3台、なかなか
の大荷物でした。

 神田佐久間町に掲げた看板は「長崎新塾出張活版製造所」でした。営業は最初のうちは悪戦苦闘でした。そこで思いついたのは、船乗り時代の知り合いで埼玉県令、いまの知事に当たる野村宗七の存在でした。知己とはありがたいもの、野村が地方行政府としては国内最初に布告類を活版印刷に切りかえてくれました。
 それを皮切りに前に書いたように「時の利」が味方するようになるのでした。
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本木昌造という人2

2010-10-25 11:35:38 | 活版印刷のふるさと紀行
 


 写真は明治5年の『崎陽新塾活字製造所』、(新町活版所ともいう)の活字見本です。


本木昌造はよくいえば探究心、悪く言えばやたら好奇心の強い人だったようです。
新米通詞のころ輸入蘭書にからんで、8か月ちょっと入牢させられるような目にもあっています。

 話は少しそれますが、今年はNHKの連続ドラマのせいで坂本龍馬ブームです。昨晩は土佐藩の切れ者後藤象二郎と海援隊の龍馬が土佐藩の持ち船夕顔で大阪に向かう船中八策のシーンでした。

 実は、その夕顔に1等機関士こそ誰あろう本木昌造の一番弟子ともいうべき平野富二でした。平野は龍馬に操船の腕を見込まれていたのです。慶応3年の6月のことです。
京都近江屋で龍馬が中岡慎太郎とともに凶刃にたおれたとき、富二は長崎にいましたが、はたしてどんな心境でしたでしょうか。

 翌年慶応4年、江戸城明け渡し、本木は長崎製鉄所の所長になり、平野富二を小菅修船所所長に任じます。船乗りから陸にあがり、造船に転向した平野は翌年、長崎県権大属として県知事を補佐するいっぽう、本木のあとを受けて長崎製鉄所所長になります。
まさに、異例の出世です。

 このときの本木に対する恩義が平野が本木の懇請を受けて長崎新塾活版所の事業を継承する決心を生むことになったのでしょう。

 
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