活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

安土城と信長

2013-01-31 14:25:59 | 活版印刷のふるさと紀行

 昨日、今日、私は出たばかりの岩波新書『信長の城』に取り憑かれています。著者は千田嘉博という40代の方ですが、信長の築いた城から彼が生涯かけてめざしたものがなんであったか読み取ろうという視点の非常に興味深い著作です。

 実は私は城マニアではありませんが、信長が生涯最後に手がけた「安土城」について知りたかったのです。と、いいますのは天正遣欧少年使節がヴァリニャーノに引率されて長崎を出港する前年1581年(天正9)にヴァリニャーノはルイス・フロイスや信長に可愛がられているオルガンティーノら宣教師と少年たちと安土城に信長を訪ねます。

 このヴァリニャーノと信長の安土城での会見は私の書いた『活版印刷人ドラードの生涯』ではかなり重要な場面になっています。信長が狩野永徳が描いた六曲一双の『安土城図屏風』をヴァリニャーノに贈ったのもこのときですし、私はこのとき、ヴァリニャーノは信長に活版印刷の効用を話し、印刷術の導入計画を弁じたに違いないとおもっているからです。

 しかし、安土城の外観も内部も記録がないのでよくわかりません。ローマのイエズス会本部の吹き抜けを模した空間があった、信長自身をご神体にした祈りの場があった。などといわれておりますが、その安土城訪問の御一行様は、山城の日野江城などとくらべて琵琶湖に突き出た地上六階、地下一階の天主や天皇行幸のためにつくったという大手通り、壮大な石垣、金箔瓦にただただ茫然と見とれたぐらいしか書けませんでした。

 さて、『信長の城』については、皆さんがお読みになってのお楽しみですから、詳しくは書きませんが、発掘データを踏まえた解説と信長が安土城と城下町、城を中心にした町づくりをどのように考えたであろうかという推論は実に楽しく、興味深いものでありました。それにしても私の疑問、あまりにも短命だった安土城、新築の天主で信長は何を考えたのでしょうか、はたして本能寺を予感していたでしょうか。

 

コメント
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