「福沢諭吉といえば、私にとって偶然とは思いたくないことがあるのです」
水野館長の話はつづきました。
「福沢諭吉がペテルスブルグでグーテンベルグの聖書を見たのが1862年の
8月なら、ちょうどその100年後、1962年の8月に私はドイツマインツのグーテンベルク博物館に日本から来た使節団を案内しておりました」
ドイツにグラフィック・アーツの研究で留学、マイスターの資格をとられた館長の若かりしころの話です。「『日本の百万塔陀羅尼』が陳列が展示されているのを見て感激しました」。どうやら、それがのちのミズノプリンティングミュージアムを手がけるヒキガネになったとうかがいました。
「偶然」といいますか、たくまずしての「符合」といいますか、そういううことはときどきあるものです。
福沢諭吉の創立した慶応義塾に、諭吉が創業にかかわった日本の株式会社第1号の丸善から1989年でしたかグーテンベルクの42行聖書が移ったのもその1例として興味ぶかく思われます。
水野館長、ごめんなさい。熱心に話してくださるところを、つい、撮影させていただきました。
水野館長の話はつづきました。
「福沢諭吉がペテルスブルグでグーテンベルグの聖書を見たのが1862年の
8月なら、ちょうどその100年後、1962年の8月に私はドイツマインツのグーテンベルク博物館に日本から来た使節団を案内しておりました」
ドイツにグラフィック・アーツの研究で留学、マイスターの資格をとられた館長の若かりしころの話です。「『日本の百万塔陀羅尼』が陳列が展示されているのを見て感激しました」。どうやら、それがのちのミズノプリンティングミュージアムを手がけるヒキガネになったとうかがいました。
「偶然」といいますか、たくまずしての「符合」といいますか、そういううことはときどきあるものです。
福沢諭吉の創立した慶応義塾に、諭吉が創業にかかわった日本の株式会社第1号の丸善から1989年でしたかグーテンベルクの42行聖書が移ったのもその1例として興味ぶかく思われます。
水野館長、ごめんなさい。熱心に話してくださるところを、つい、撮影させていただきました。