活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

本木昌造という人1

2010-10-24 12:15:03 | 活版印刷のふるさと紀行
 八丈島漂流が平野富二と「印刷」を結びつけたといいました。と、したらそのきっかけを作った本木昌造という人をもう少し知りたい気がします。

 本木昌造はひとことでいえば「発展家」でした。代々、オランダ通詞の筆頭格の本木昌左衛門の養子になったのが12歳のとき、長崎奉行所の通詞としてもなかなかの大仕事をしています。ペリー再来航の安政元年は命じられて江戸へ出張、和親条約の作成に携わりましたし、ロシアのプチャーチン来日のときも通訳として、あるいは破損したプチャーチンディアナ号の代船の建造にも手を貸しました。

 土佐藩主山内容堂に海外事情をレクチュアしたり、蒸気船の模型で驚かせたりしましたが、蘭学に通じ、技術者としても一流でした。だからこそ、安政2年長崎海軍伝習所の開設とともに伝習掛として活躍し、万延元年には長崎製鉄所の御用掛に任じられ、チャールス号やヴイクトリア号の船長も兼ねることになったのです。

 そのかたわら、彼は若い時から西欧の活版印刷、とくに金属活字の開発に打ち込み
26歳の時に日本で初めて鉛製の流し込み活字の製造に成功しています。

 順風満帆だったからでしょうか、女性にも積極的でした。八丈島の130日間にも島の娘とねんごろになり、子供を作っていますし、丸山でよく遊び、妻以外にも2人の女性がいたといいます。
 



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