[薔薇]
私が日本共産党のことを思う時にイメージする花はいつも薔薇の花です、それも赤い薔薇を。
今日は日本共産党創立97周年、その期間の半分余という50年を超える日々を共産党員として生きてきた私にとっても特別な日です。
そんな私にも「薔薇の花を贈りましょう」と撮った薔薇の写真です。
[谷口善太郎]
石川県の日展作家、宮田耕二さんが描いた京都選出の衆院議員「谷口善太郎」さんの肖像画です。
石川県白山山麓の貧農の家に生まれ京都で陶工として働きながら労働運動、無産者運動に参加、日本共産党の創立にも参加しました。
戦後は京都選出の議員として共産党の国会議員団の中心として活動をしていましたが1974年議員在職中に亡くなりました。
私にとっては石川県に転居してくる前から共産党を代表する議員の一人として憧れの存在でした。
そしてこの肖像画を描いた宮田画伯も親しくして頂いていた文化人でした。
今ではお二人ともに鬼籍に入っていますが・・・、忘れられない人たちです。
[父と母]
私が中学生のころ兄が借りて来たカメラを使って撮った一枚です。
私の故郷は香川県、そうです今では「讃岐うどん」で良く知られる四国の香川県です。
小さな狭い田舎の村、遍路道沿いのトタン屋根のうどん屋で毎日毎日うどんをこねて打って切って作った手打ちうどんをお客さんに食べてもらい近在の農家に配達して多くの子どもたちを育ててくれた両親です。
父も母も自分の大切な弟たちをあの太平洋戦争で失い、困窮の中で奉公や女工の仕事に出て何とか生きて来た当時はどこにでもいた庶民の二人です。
その二人が一緒になって始めたうどん屋で戦後は子どもたちの口をしのぐために、ただただ働いてきた世代でした。
私は高卒後に社会に出て科学的な歴史の見方を学ぶ中で両親の世代の生きざまの凄さを知りました。
今日は日本共産党創立97周年、1942年に生まれ終戦時には3歳だった私がいま参議院選挙をたたかっている共産党のために少しでも力になれればと思いながらこの日を迎えています。
両親、薔薇、谷口善太郎肖像画、私にとって思い入れの強い写真三枚をアップしてブログ[写真師の新カメラ日記]更新です。
ブログで公開した写真はフォトチャンネルでアルバムになっています。どうか時間があればそちらもご覧ください。
ぎゃらりーたちばなー新カメラ日記ー
私が日本共産党のことを思う時にイメージする花はいつも薔薇の花です、それも赤い薔薇を。
今日は日本共産党創立97周年、その期間の半分余という50年を超える日々を共産党員として生きてきた私にとっても特別な日です。
そんな私にも「薔薇の花を贈りましょう」と撮った薔薇の写真です。
[谷口善太郎]
石川県の日展作家、宮田耕二さんが描いた京都選出の衆院議員「谷口善太郎」さんの肖像画です。
石川県白山山麓の貧農の家に生まれ京都で陶工として働きながら労働運動、無産者運動に参加、日本共産党の創立にも参加しました。
戦後は京都選出の議員として共産党の国会議員団の中心として活動をしていましたが1974年議員在職中に亡くなりました。
私にとっては石川県に転居してくる前から共産党を代表する議員の一人として憧れの存在でした。
そしてこの肖像画を描いた宮田画伯も親しくして頂いていた文化人でした。
今ではお二人ともに鬼籍に入っていますが・・・、忘れられない人たちです。
[父と母]
私が中学生のころ兄が借りて来たカメラを使って撮った一枚です。
私の故郷は香川県、そうです今では「讃岐うどん」で良く知られる四国の香川県です。
小さな狭い田舎の村、遍路道沿いのトタン屋根のうどん屋で毎日毎日うどんをこねて打って切って作った手打ちうどんをお客さんに食べてもらい近在の農家に配達して多くの子どもたちを育ててくれた両親です。
父も母も自分の大切な弟たちをあの太平洋戦争で失い、困窮の中で奉公や女工の仕事に出て何とか生きて来た当時はどこにでもいた庶民の二人です。
その二人が一緒になって始めたうどん屋で戦後は子どもたちの口をしのぐために、ただただ働いてきた世代でした。
私は高卒後に社会に出て科学的な歴史の見方を学ぶ中で両親の世代の生きざまの凄さを知りました。
今日は日本共産党創立97周年、1942年に生まれ終戦時には3歳だった私がいま参議院選挙をたたかっている共産党のために少しでも力になれればと思いながらこの日を迎えています。
両親、薔薇、谷口善太郎肖像画、私にとって思い入れの強い写真三枚をアップしてブログ[写真師の新カメラ日記]更新です。
ブログで公開した写真はフォトチャンネルでアルバムになっています。どうか時間があればそちらもご覧ください。
ぎゃらりーたちばなー新カメラ日記ー