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と揶揄されたように、日本は明治維新を始めとして
西洋文化を尊び、日本古来の持ついろいろな権威、生活様式を捨て、美術品すら捨てようとした、
世情的にも、欧米に遅れを取り戻せ、さもないと植民地になってしまうという機運があったころです
お抱え外人として来た人々は多くの西洋文化をもたらし日本の西洋化に貢献しました。
北海道におけるクラーク博士や、近くは映画ラスト・サムライのトムクルーズの演じたオールグレンのモデルのジュールブリュネなど大勢の名を上げることができます。
そんな中、ハーバード大学を優秀な成績で卒業した
アーネスト・フランシスコ”フェノロサ”も大森の貝塚発見で知られるモーリスの紹介で、
25歳の若さで、1878年(明治11年)東京帝国大学の教壇に立ちました。
彼に求められていたのは理財学ヘーゲル哲学で、後にスペンサーの進化論も講義していました。
当時の日本は1865年(慶応4年)の神仏分離令や1872年(明治5年)の上地令により収入をたたれた、寺が経済的に困り、それが、少し落ち着いてきた頃。
又、優遇されていた貴族などが経済的に困窮し、芸術品を売りに出した頃です。
西洋崇拝で日本のものがどんどん海外に流出していったのです。
彼は、来日直後から日本独自の文化のすばらしさをみとめ、
西洋画に傾いていた絵画の世界に日本画を見直す機運を作ったのです。
助手の岡倉天津とともに東京美術学校の設立に尽力しました。
法隆寺救世観音像(夢殿の秘仏)
また、フェノロサは文部省図書教育調査委員会委員、正倉院御物調査の政府委員という肩書きを得ました。この肩書きで600年間一度も開けられたことのない法隆寺の「夢殿の秘物」を開帳させました。
正倉院
正倉院の香木(蘭奢待)(東大寺と文字が隠れているので、有名な香木が
足利義政,織田信長、明治天皇が切り取っという付箋があるそうです。
(要するに切り取る行為は権力を示す行為だったのです。)
私の記憶間違いかもしれませんが、これはフェノロサたちがやったというTV番組を見たことがあります。
また、当時お雇い外人が日本の美術品を集め、本国に持って帰れば結構なお金になったのです。
ですからフェノロサも自分の将来の為にも、彼の集めたコレクションは明治11~23年までに20000点という説もあり、
これをチャールズ・G・ウエルドに売り、後にボストン美術館に寄贈されました。
フェノロサは帰国して後、ボストン美術館の東洋部長として5年間このコレクションの整理をしました。
フェノロサの集めた物、日本にあれば、国宝、重文クラスの物です。
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狩野之信 「四季花鳥図屏風 」、住吉慶恩 「 平治物語絵巻 」
巨勢金剛 「不動図]、岸駒 「神鹿図」、狩野隆信 [聖徳太子絵伝」
大徳寺蔵 [羅漢図」 、伝狩野永徳 「龍虎図屏風」etc
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よくいわれることですが、これらの物を放置していたら、破壊されなくなっていただろうものだ。
彼が集めてしかるべき保存ができたから、後世に残すこちができた。と
ヨーロッパでも、エジプト文明のものが一杯、各国美術館にあり、同じ事を聞きました。
しかしエジプト政府は根気よく返還を求め、少しづつ本国に帰ってきています。
北斎や浮世絵はなんか、フェノロサが集めた物が基盤となるボストン美術館の収集のほうが、日本より質、量ともにうえだと思いますが、、、
日本人として寂しいです。
さてこんなフェノロサですが、生前仏教に帰依し、滋賀の園城寺(三井寺)で受戒をうけ(1896年)、
1908年ロンドンで心臓発作で死亡、1909年三井寺法明院に埋葬されましたた。彼のお陰で日本のものが姿を消さなかったのは事実です。
彼の命日は今日9月21日です。