今私たちが行った時は、アドレア海の町々はプレシーズンで込み合っていません
でもドブロヴニクはフェリーが一船入港すると
一度に3000人も上陸するとか。
ドブロヴニクの港は深いので大型のフェリーが入港できるんだそうです。
シーズンになると小さな町は押すな押すなの状態だそうです。
パンフレットからです。
まわりにはホテルに直に横付けできるプライベイトビーチも多く、
昔から、島々にはプライバシーやマスコミを避ける
多くの有名人がバカンスを過ごしにきます。
パンフレットにのってる、その人々の写真です。
去年あたりはブラッドピットとアンジェリーナジョリ―がきたとか、
又、ヌーディストクラブの海岸もある島もありました
もちろん陸からは見えない島の向こう側です。
とても入り組んだ海岸線島も多く船が嵐や海賊などから隠れるにも
もってこいの港が続きます。
もちろん海運王国を誇った対岸のイタリアのヴェネティア王国が
植民地としてこの海岸線上の色んな都市を制圧しました。
しかしドブロヴニクは小さな都市国家でありながら、19世紀に初頭にナポレオンの大群に降伏するまで、一度も侵略されたことがない。
巧みな外交で自治を守ったのです。
7世紀ころからドブロヴニクには人が住むようになったといわれています
ビザンティン帝国の支配をへて、1
2世紀の末に自由貿易の権利をえ、独立
ヴェネティア共和国が台頭してくると管轄下、自由権を得て、
14世紀ハンガリー王国が南下し、主権を認める代わりに完全な自治権を勝ち得た。
自由都市の基礎はここに出来上がったといわれます。
15世紀東からオスマン朝が台頭してきたときも、
戦火を交えず宋主権を認める代わりに
自治権を与えられ、オスマン朝の庇護のもとますます交易が盛んになり
最盛期となるのである。
この赤い屋根は巧みな外交戦術で戦争を避け
自由を貫いたあかしであるといわれています。
ですから、この都市の人々が一番大事にしてること
”リベルテ”(自由)なんだそうです。
1990年の内乱でいろんなものが壊されました
でも復興には、かろうじて生き残った使える瓦はそのまま使い、
新しい瓦と組み合わせているんです。
屋根の色は近寄ると様々な赤です。
戦火を生き抜いてきた瓦は、
この町と私たちの威信・それを誇りに将来を作りたいと・・という・
去年やっと復興したロープウエイ。
その裏には弾痕の後のおびただしい戦火の壁と
内戦の激しさを物語るプレートがひっそりとたたずんでいました。
魔女のキキが飛び交った美しい世界、そこからの眺めと対照的でした。
名物の有名チョコとラベンダーにおいがとっても強いです。
次回はそこからまた北へ上がった
世界遺産の都市”スプリット”についてお話しますね。
読んでくださってありがとう