09.3/10 322回
【行幸(みゆき)の巻】 その(20)
内大臣が、
「いとつかへたる御けはひ、おほやけ人にて、げにいかにあひたらむ。尚侍のことは、などか己に疾くはものせざりし」
――あなたの熱心なお勤めぶりは、宮中の出仕にとても適任でしたでしょう。尚侍のことを、なぜ早く私に言わなかったのですか――
と、大真面目におっしゃいますので、近江の君は嬉しくもいそいそとして、
「さも御気色賜はらまほしう侍りしかど、この女御殿など、自ら伝へ聞こえさせ給ひてむと、頼みふくれてなむ侍ひつるを、なるべき人ものし給ふやうに聞き給ふれば、夢に富みしたる心地し侍りてむ、胸に手を置きたるやうに侍る」
――実はそのようなご意向を承りたかったのですが、この女御様など、いつかはお伝えくださる事と、すっかり当てにしておりましたところ、他になる方がおいでのように伺いましたので、夢でお金持ちになったような気持ちで、思わずはっと、胸に手をあてたのです(残念な夢)――
と、舌の使い方が淀みない。内大臣は吹き出しそうなのを我慢なさって、
「いとあやしうおぼつかなき御癖なりや。…太政大臣の御娘、やむごとなくとも、ここに切に申さむことは、聞し召さぬやうあらざらまし。今にても申文を取り作りて、美美しう書きい出されよ」
――それは妙に遠慮深すぎましたね。…源氏の君の姫君がどのようにご立派でも、私がたってのお願いを申し上げれば、帝がお聞きいれくださらない筈はありません。今からでも良いから申文(もうしぶみ=願書)を立派に書き上げてお出しなさい――
などとおっしゃって、また、
「長歌などの心ばえあらむをご覧ぜむには、棄てさせ給はじ、上はその中になさけすてずおはしませば」
――長歌の心得のあるところをお目にお掛けなさったら、帝はお捨てにはなりますまい。
帝は特に情趣をお忘れになりませんから――
と、
「いとようすかし給ふ。人の親げなくかたはなりや」
――上手にお騙しになります。人の親らしくもない感心しないことです――
近江の君は、まじめに、
「やまと歌は、あしあしも続け侍りなむ。むねむねしき方のことはた、殿より申させ給はば、つまごゑのやうにて、御徳をも蒙り侍れむ」
――和歌ならば下手なりに詠めますが、表向きの申文(もうしぶみ)のことなどは、父上からそれにお言葉を添えるようにしていただいて、是非ともお陰を蒙りとう存じます――
と、手をすり合わせて申しあげます。
几帳の陰などで聞いている女房たちは、可笑しさに息もつまりそうで、笑いを耐えきれない者は、几帳の外へ抜け出してほっと息をついています。女御も顔を赤らめて気の毒で見ていられないご様子です。内大臣は、
「『ものむつかしき折は、近江の君見るこそよろづまぎるれ』とて、ただ笑ひぐさにつくり給へど、世ひとは、『はぢがてら、はしたなめ給ふ』など、さまざま言ひけり」
――「気がくさくさするときは、近江の君を見るといつでも気が紛れる」と、ただただ笑いの種にしておいでになりますが、世間の人は、内大臣は、ご自身でも恥ずかしく、気まり悪く思われるので、わざとあんな風に困らせていらっしゃるのだ」と、いろいろ噂をしていたようです。
◆すかし=だます、あざむく、
◆あしあしも=悪し悪しも=下手なりに
◆むねむねしき方=趣旨ある方面のこと、公式の文書
◆はしたなめ=端たなむ=きまりの悪い思いをさせる。困らせる。
【行幸(みゆき)の巻】 終わり
ではまた。
【行幸(みゆき)の巻】 その(20)
内大臣が、
「いとつかへたる御けはひ、おほやけ人にて、げにいかにあひたらむ。尚侍のことは、などか己に疾くはものせざりし」
――あなたの熱心なお勤めぶりは、宮中の出仕にとても適任でしたでしょう。尚侍のことを、なぜ早く私に言わなかったのですか――
と、大真面目におっしゃいますので、近江の君は嬉しくもいそいそとして、
「さも御気色賜はらまほしう侍りしかど、この女御殿など、自ら伝へ聞こえさせ給ひてむと、頼みふくれてなむ侍ひつるを、なるべき人ものし給ふやうに聞き給ふれば、夢に富みしたる心地し侍りてむ、胸に手を置きたるやうに侍る」
――実はそのようなご意向を承りたかったのですが、この女御様など、いつかはお伝えくださる事と、すっかり当てにしておりましたところ、他になる方がおいでのように伺いましたので、夢でお金持ちになったような気持ちで、思わずはっと、胸に手をあてたのです(残念な夢)――
と、舌の使い方が淀みない。内大臣は吹き出しそうなのを我慢なさって、
「いとあやしうおぼつかなき御癖なりや。…太政大臣の御娘、やむごとなくとも、ここに切に申さむことは、聞し召さぬやうあらざらまし。今にても申文を取り作りて、美美しう書きい出されよ」
――それは妙に遠慮深すぎましたね。…源氏の君の姫君がどのようにご立派でも、私がたってのお願いを申し上げれば、帝がお聞きいれくださらない筈はありません。今からでも良いから申文(もうしぶみ=願書)を立派に書き上げてお出しなさい――
などとおっしゃって、また、
「長歌などの心ばえあらむをご覧ぜむには、棄てさせ給はじ、上はその中になさけすてずおはしませば」
――長歌の心得のあるところをお目にお掛けなさったら、帝はお捨てにはなりますまい。
帝は特に情趣をお忘れになりませんから――
と、
「いとようすかし給ふ。人の親げなくかたはなりや」
――上手にお騙しになります。人の親らしくもない感心しないことです――
近江の君は、まじめに、
「やまと歌は、あしあしも続け侍りなむ。むねむねしき方のことはた、殿より申させ給はば、つまごゑのやうにて、御徳をも蒙り侍れむ」
――和歌ならば下手なりに詠めますが、表向きの申文(もうしぶみ)のことなどは、父上からそれにお言葉を添えるようにしていただいて、是非ともお陰を蒙りとう存じます――
と、手をすり合わせて申しあげます。
几帳の陰などで聞いている女房たちは、可笑しさに息もつまりそうで、笑いを耐えきれない者は、几帳の外へ抜け出してほっと息をついています。女御も顔を赤らめて気の毒で見ていられないご様子です。内大臣は、
「『ものむつかしき折は、近江の君見るこそよろづまぎるれ』とて、ただ笑ひぐさにつくり給へど、世ひとは、『はぢがてら、はしたなめ給ふ』など、さまざま言ひけり」
――「気がくさくさするときは、近江の君を見るといつでも気が紛れる」と、ただただ笑いの種にしておいでになりますが、世間の人は、内大臣は、ご自身でも恥ずかしく、気まり悪く思われるので、わざとあんな風に困らせていらっしゃるのだ」と、いろいろ噂をしていたようです。
◆すかし=だます、あざむく、
◆あしあしも=悪し悪しも=下手なりに
◆むねむねしき方=趣旨ある方面のこと、公式の文書
◆はしたなめ=端たなむ=きまりの悪い思いをさせる。困らせる。
【行幸(みゆき)の巻】 終わり
ではまた。