信州スロウライフ12ヵ月

野菜や草花と暮らす生活

最後まで残るもの

2016年02月07日 13時44分25秒 | Weblog
BSプレミアムで100年インタビューという番組で脚本家の倉本聰をCMなしでぶっ続け1時間半見続けた。





代表作の北の国からは、自分が子育て時代に夜楽しみに観たもので、唯一ビデオに撮り手放さないでいる宝物だ。
1981年、バブルに向かう時代、子供達は4歳と3歳だった。
東京の世田谷での生活は目的は夫も姑も裕福になること最優先で、時代もそうであった。
孤独な田舎育ちの自分は馴染めない部分を多分テレビドラマに見出したのだと思う。

21年間続いた北の国からのドラマに、子供達も純と蛍と同じような年代に重なり成長した。
福島の田舎から上京し、専門職になるための訓練を受け、ある意味良いお嫁さんと姑に受け入れられるには
出来ないことが多すぎた。

求められることが多すぎて、何が正しいのか判断もできず子育てして行く中、
北の国からのドラマは長いこと自分を成長させてくれた人生勉強だと学んできた。

なぜ富良野なのか?
倉本聰が中学生の時演劇に取り込まれ、映画や文学、舞台装置などから基本を学び
やがてNHKの大河ドラマの脚本を書く。
勝海舟だが渡哲也が病で降板し、その後NHKとトラブルが起き脚本を降板し北海道へ逃げた。

北海道で薄の住民に助けられ、北島三郎の付き人をし人生の裏側を始めて知りこれまでの上から目線で書いてきた
脚本に気が付き富良野に移住する。
多分その経験が脚本を替えたのだろう。
経済の繁栄だけを目指して進む日本に抵抗して書かれた北の国だが、そのドラマに育てられた
自分がいる。
富良野のドラマの撮影現場が残してあるが、2度訪ねていった。

脚本家人生60年、人の人生を操る操り師のようなもので、秘かな一寸邪悪な喜びもあるという。
富良野に住み富良野塾、そして富良野演劇工房を開設し演劇を通じ役者と脚本家を育てたが
話す言葉一つ一つ怖さを感じインタビューアーは真剣勝負だ。

今、おいしい食べ物には興味がなく、疎開先で食べたご飯とフキノトウが入ったみそ汁が今でも
人生の中で一番おいしいと思っているという。

確かに60歳を過ぎやがて70歳も近くなりおいしい食事は恵まれて来たが、
自分の頭の中に潜んでいる食べ物は貧しい小学生時代に母が作った柏餅や
ビーフンだ。(両親は台湾からの引き上げ者)

福島から横浜、東京、神奈川、そして信州へ移住し、自分の気持ちの居場所が見つからないまま年老いて来た。
伊那かな?と思うことにしたが、いやいや、やはり自分の死ぬまで大事にしているのは貧乏だが
家族がまとまっていたあの小中学生時代だろうと思える。

100年後へのメッセージに対しての問に
倉本聰は今のこの時代にした自分たちの年代を御免なさいとしか言えないという。
自分たちの責任だと。

100年後を変えるには今の方向性から生きる哲学を変えないといけない。
繁栄におぼれ、イルミネーションに吸い寄せられること、
政変があるとすっ飛んでいくこと、おいしい食い物
を求めることなどで団塊の世代で世の中超スピードで生きてきた自分たちも同じだろう。

まっすぐな言葉で今の世のに辛口で示唆をし続けた1時間半の倉本聰の人生のインタビューは
ずっしりと久しぶりに心の奥に沈み、蓋をした。