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旅行やら映画やらの独り言

名越切通と大切岸&まんだら堂やぐら群 その3

2021-05-15 22:32:21 | まち歩き・神奈川

⑥名越切通(第3切通)

さっきの分岐点まで戻って、まんだら党やぐら群方面へ。

正直、どれが第3切通なのか、分からなかった・・・。

この標識の後に小さな階段があり、それを登ると到着!

 

⑦まんだら堂やぐら群

一般公開中なので、鉄格子の扉が開いてて、中にボランティアガイドさんの待機場所のテントがある。

で、そこを通るといきなりあった!

面白い! 不思議だ! 

私のイメージとしては、鎌倉=ちょっとした崖にはやぐら、なのだが、これだけまとまって残ってるのは、やっぱり凄いな。

この最初の広場は、こんなふうに結構穴が残っているが、奥の広場のやぐら群は半分崩れてる。

↓ ここからは奥の広場。

で、この広場の奥の草むらには緑色のシートがあるんだが、

ボランティアガイドさんによると、五輪塔のバラバラの石をまとめて置いて、シートをかけているんだって。

ちなみに穴の中の五輪塔も結構適当に積んでるらしい。

展望台みたいな場所もあり、そこから最初の広場を見渡せる。

上から見ると、結構崩れそうだ。砂岩だから脆いそうだ。頑張れ保護! もちろん、カンパ箱にカンパしてきた。

展望台(山)の周りも、やぐらがあった。

だから、造成中の時はかなり広大な敷地だったんだろうなあ。

秋の公開日には、こんなふうに友達と来たいなあ。今はまだ、友達を誘うのが怖くて。

 

⑧名越切通(第2切通・第1切通)

再び名越切通へ。

↑ 多分、第2切通。

で、ここが第1切通。

狭いでしょ。人1人しか通れない。鎌倉時代に防衛のためにわざと狭く作ったと授業で習った。今から半世紀前だけどね。

でも、現代では「平成12年度に第1切通部分で通路を横断するトレンチ調査が行なわれました(調査主体:神奈川県教育委員会、(財)かながわ考古学財団)。その結果、現在私たちが歩いている路面の下60cmまでの間にすくなくとも4回、道路を補修した痕跡が確認され、最下層の岩盤削り出しの路面上からは18世紀後半以降に作られた焼物の破片が出土しました。つまり、現在のルートの下に残っている最も古い道は、江戸時代に使われていたものだということです。平成16年度、同じく第1切通部分の崩落防止工事に伴う通行路付替えに先立って、部分的な発掘調査を実施したところ、切通路のもっとも狭まった部分の幅は現在約90cmですが、かつては約270cm以上あったことがわかりました。それ以外の部分についても、現在の道幅の倍以上広かったと推定されます。以上のことから、名越切通の第一切通部分は、江戸時代の後半には現在よりも幅の広い道路でしたが、それ以降、数度の大地震等で崖が崩落して埋まり、その都度かさ上げしながら道幅を狭めつつ復旧し使われてきたものと考えられます。」だそうだ。

やっぱ、科学でにきちんとした調査でしか真実は分からない。というか、必要だよな。人の話なんて、あんまり当てにならないって事は、昔からの伝承も、今のSNSも同じなのかな。

で、第1切通の後、唐突に切通は終わって、住宅街になる。

切通が尾根沿いにあったため、目線に山の山頂が見え、

住宅街も凄い角度の坂に建ってる。自動車、良く登れるなあ。スキーだと初心者コースではない角度だ。ここからまた逗子駅まで20分位歩いて戻る。

 

⑨庚申塔

岩殿寺から横須賀線沿いの道に庚申塔の説明看板と庚申塔があった。

そしたら、名越切通を抜けて、亀ヶ岡団地の住宅街の中にも庚申塔を見つけた。

これも3猿でしょ。日蓮を助けた白猿も3匹なんだよなあ。3猿がいろいろごっちゃになってる気がする。

岩と遺跡好きに私には、とっても満たされた1日だった。まんだら堂やぐら群の秋の一般公開日にも、また行こうっと。その頃には友達を誘えるかなあ。

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名越切通と大切岸&まんだら堂やぐら群 その2

2021-05-15 20:08:04 | まち歩き・神奈川

③法性寺(ほっしょうじ)

地図によるとこっちの車道を行って・・・。あれ?

自動車道にいきなり山門。しかも「猿畠(さるばたけ)山」って。

ちゃんと白猿がいるし。HPはこれ。こっちの方が分かり易いかな?

「多くの伝説を持つ日蓮宗の寺院。1260年(文永元年)10月、日蓮が松葉ヶ谷草庵の焼討ちにあった際、白猿が日蓮をこの地まで導いたといわれています。白猿は山王神のおつかいであり、山を登った本堂の側に山王様が祀られています。」

車道の左側に新しい本堂があって、さらに坂を登ると

ある意味、分かり易い道案内だ。なので、山の上へ。

登る。

頂上!

頂上の本堂。

この左側が日蓮が猿3匹に導かれて避難した岩窟。

登っていいみたいなので、階段を上がって覗いてみる。

↓ で、日蓮の前に現れたのは、かつて修行した比叡山の山王権現(日吉大社)の白猿だったのだという事で、山王権現を祀った神社がある。

階段を上がる。

↓ 山王権現から見る、日蓮の弟子日朗の廟所。

↓ 上から見た墓所。この先が名越切通らしい。

墓所を進むと、また道案内の標識。

標識のあと、いきなり山道になる。

岩を削ってるじゃん。

まずは右の「大切岸」をめざす。

④石廟

「石廟は、鎌倉時代後期から南北朝期のものといわれ、内部に火葬骨を納めた蔵骨壺が納められていたと考えられている。鎌倉時代には、一般的に木造の墳墓堂が造られたが、石造の墳墓堂は珍しく、他に見当たらないもので鎌倉市の文化財に指定されている。」

こちらから引用させていただきました。

二つある。右(下)の祠の中には、誰かの名前が刻んであるらしい。

で、この先をちょっと歩くと

⑤お猿畠の大切岸

鎌倉幕府が三浦一族からの攻撃に備えるために、切通の整備と一体のものとして築いた、鎌倉時代前期の防衛遺構で山城などで敵の侵入を防ぐ人工的な崖の意味で切岸と言われていたのに。ちゃんと調査したら14~15世紀の石切り場の跡だったなんて。

歴史って面白い!長年信じられてた伝承が、調査でコロって覆されてしまうなんて。

石切場の跡とだけど、どんなふうに切り出したんだ? なんで、こんなに横縞なんだ? 横に板状にして切り出したのかなあ?

こんな風に穴があいてるのは、風化?

やっぱり不思議だあ!

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