礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

その車に、下山総裁が乗っているのを見た(大津正)

2024-12-15 00:28:41 | コラムと名言
◎その車に、下山総裁が乗っているのを見た(大津正)

 大森実『日本はなぜ戦争に二度負けたか』(中央公論社、1998)から、「国鉄総裁下山事件のミステリー Ⅱ」を紹介している。本日は、その三回目。

 朝日、読売両紙がやった紙面作成方向のように、検察と警視庁捜査二課(一課は自殺説に傾いていた)の他殺説を肯定する場合だが、私はまず、事件記者第一科として、「殺してトクをするのは誰だったか?」を考えることから、推理をスタートさせてみる。
 犯行が、GHQが望んだかも知れない「共産党のコンスピラシー〔陰謀〕」を装う演出であったと仮定するとき、共産党はなぜわざわざ自殺を偽装するような殺害の演出をやる必要があったかを、考えよう。
 九万五千人の首切りに悩んだ下山総裁が、自殺すること。それは毎日新聞の平正一デスク説のように、非常にあり得る推定であった。国鉄共産党フラクションが用意していたゼネストの起爆剤になり得る、格好の「自殺事件」となるが、共産党が、何をもって殺人という危険な謀略を試みる必要があったか?
 当時は、その六ヶ月後に発生するコミンフォルムの「野坂批判」(後述する)で共産党が柔軟路線を批判される前であったし、共産党が人殺しをすると考えることのほうが不自然である。「下山事件」後に発生した、いずれも国鉄のクビ切りと関係があった「三鷹、松川両事件」の公判経過を追っていけば解決される問題である。
 では、共産党を殺害者に仕立てて、国民に恐怖心を抱かせるという謀略で、下山総裁を殺害したかもしれない占領軍のある機関を想定するとき、そのようなコンスピラシーを実行できるのは、先に述べたように、鹿地亘を誘拐し、鹿地にスパイになれと強要したため、鹿地を自殺未遂に追いこんだGHQ対敵情報部・特殊工作隊のキャノン機関を措いて考えられないが、例えばキャノン機関を下山殺人の加害者と推定するとして、何が考えられるだろうか?
 検察、捜査二課、そして朝日、読売両新聞の科学捜査面が割り出した死因――、下山総裁の亀頭部と睾丸部をブラック・ジャック様の凶器で殴って死に至らしめた犯人集団は、なぜ死体から血を抜き取って、他殺死体を轢断現場のレール上まで運んで、自殺を偽装する必要があったのか? という基本的な問題の解明が必要となるだろう。
 下山総裁の体から血が抜かれていたために、死体にも遺留品にも生活反応が出なかったという、科学捜査の結果について異論はないとするとして、犯行集団が、共産党を犯人に仕立て上げたかったのであれば、殺して荒川放水路に放りこむ簡単な手段をなぜ選ばなかったのか、もっとはっきり共産党がやったんだと、誰にでも分かるようなトリックがあってよかったのではないか。
 矢田、栗田両記者は、下り列車の逆方向の四十メートルも離れた枕木からルミノールの蛍光を発した血痕を採取して、東大法医学教室に検査を依頼したと言うが、DNAという進歩した血液測定法が法医学に採用されている今日でも、DNAは犯人を否定する決め手になっても、犯人断定に使うにはまだ問題を残している。
 両記者が、列車の進行方向とは逆方向の枕木から採取した血痕が、下山総裁の血であったかどうかの決め手はない、というと両記者の努力には酷になるが、ではなぜ、キャノン機関あるいは他の殺害集団が、血を抜いた後、血の滴〈シズク〉がしたたる死体をレール上まで、Sたちタタキ仲間に運ばせたのか、という疑点も解明されなければならない。
【一行アキ】
 下山総裁が失踪した日、通勤の車の中で、大西〔政雄〕運転手に洩らした「今朝は、佐藤さんに会いに行くんだ」という、佐藤栄作の秘書・大津正は、私もよく知る忠実なる佐藤家の執事であるが、彼の証言もある。
「下山さんが失踪された日、私は平河町の民自党本部から車で日比谷方面に向かっていた。議事堂付近にさしかかったとき、逆方向から平河町に向かって走ってくる自動車とすれ違った。その車の中には二、三人の男に左右と助手席から囲まれるような状態で、下山総裁が乗っているのを見た」
 この大津証言が読売新聞に掲黻されたのは、事件発生三日目の七月八日であったが、大津正は十五年後(六四年)、TBSテレビの特別番組で、「あのとき私が目撃した人は、下山総裁に間違いありません。下山さんがいつも乗っている車ではなかったので変だなと思い、印象が深いわけです」と事実確認を行っている。
 大津秘書は、佐藤栄作といずれが年上か識別しがたいほどの年配で、私は「佐藤栄作の忠犬ハチ公みたいな秘書だ」と思っていたが、大津秘書証言に間違いがないとすれば、車の中で下山総裁を取り囲んでいた三人が拉致者だったことになろう。
 もし大津秘書がウソをついていたとすれば、大津秘書が佐藤栄作を庇わなければならない大きな秘密があったことになり、これはたいへんなことになるが、私が知るかぎり、佐藤栄作は、殺人に関わるようなことはしない人だ。
 大津正証言を信じるとすれば、三越百貨店から下山総裁が何者かに拉致されたのではないかというサスペンスが浮上してくる。そうなると、平正一証言に出てくる五反野付近の目撃者証言は、末広旅館の女将〈オカミ〉証言も含めてすべて、幻の下山総裁を見たというべきなのだろうか、私はノーである。〈253~256ページ〉

 大津正(おおつ・まさし、1909~1997)は、岸信介、佐藤栄作兄弟の秘書を務めたこちで知られる。下山事件当時は、佐藤栄作衆議院議員の秘書。

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GHQ民政局「調査を続行しても無駄骨だよ」

2024-12-14 00:10:00 | コラムと名言
◎GHQ民政局「調査を続行しても無駄骨だよ」

 大森実『日本はなぜ戦争に二度負けたか』(中央公論社、1998)から、「国鉄総裁下山事件のミステリー Ⅱ」を紹介している。本日は、その二回目。昨日、紹介したところのあと、一行アキがあって、そのあと次のように続く。

 ここまで捜査の網が狭められてくると、もうあと一息だと、三連合捜査軍が凱歌を上げかけたとき、事件発生からちょうど五ヶ月を経た十二月四日、深夜のことであった。
 警視庁の坂本〔智元〕刑事部長が、東京地検・馬場〔義続〕次席検事の私邸に足を運び、「警視総監の了解済みです。捜査二課長の吉武警部(辰雄)を、上野署の次席に栄転させることになりました」と頭を下げた。
 馬場次席検事は大声を出すところであった。それは、警視庁捜査一課(強殺犯担当)が自殺説をとってきたのに対し、二課(知能犯担当)が東京地検刑事部とともに他殺説をとり、いよいよ大詰めの他殺犯容疑者の割り出しに向かって、追いこみに入ろうとしていた矢先、これは青天の霹靂というほかない突然変異であったからだ。
 これより三ヶ月前の九月段階で、東京地検と警視庁捜査二課は、密かにGHQ民政局に呼ばれて、「調査を続行しても無駄骨だよ」と囁かれていたという事実があった。
 警視庁から「下山事件特別捜査本部」の立て幕が下ろされたのであるが、容疑者はおろか、自殺とも他殺とも、事件は未解決のまま、発生後五ヶ月で幕を閉じたのが、わが国最大の迷宮入り事件となった国鉄総裁下山事件の後味の悪いフィナーレであった。
【一行アキ】
 松本清張も追跡をやったし、幾人もの人が犯人割り出しの追跡作業を展開したが、総括して、私が言えることは、朝日新聞・矢田喜美雄記者に代表される「他殺説」と、毎日新聞・平正一〈タイラ・ショウイチ〉記者を軸とする「自殺説」の、全く相反する主張――、あえて言うなら、科学捜査と、聞きこみ捜査の二つの見解には、両者それぞれに説得力ある論拠があったと思われる。
 自殺説と他殺説に割れたまま、事件は永遠に迷宮入りとなってしまったが、両者いずれも片寄った捜査ではなかった。朝日新聞は科学捜査だけに拠ったものではないし、毎日新聞も聞きこみ捜査に頼って科学捜査を無視したものではさらさらなかった。重点をいずれに置いたかの相違で、全く異なる結論が出されたのである。
 例えば、矢田記者は、事件の幕が下りた後も、執拗な追跡を続けて、強盗前科があるSという土建業・現場監督と十回以上もインタビューを重ねて次のような証言をとっている。
「もう時効だから話すが、カネに目が眩んで盗品の荷運び話に乗った。高田馬場のタタキ(強盗)の溜り場の安宿で、前金で百円札五十枚もらって、七月五日朝十時に銀座の地下鉄改札口近くの喫茶店メトロに集まれということになった。時間通りメトロに行くと八人いた。ボスが仕事の分担を決めた。夜、荒川放水路北側の小菅刑務所横の土手に行け。自動車がきたら荷物を受取れという話だった。
 夜九時半過ぎ、蒸し暑い夜だった。エンジンの音がしたので土手から下りると、黒い車が停まっていた。トランクの中から荷物が下ろされた。登山帽の背の低い男が、お前は前、お前は後ろだと運び位置を指示した。三人で運んだが、手に触れると生暖かい人間の体だった。生暖かく、ぐにゃぐにゃで摑まえ所がなく、やたらに重かった。ズボンをはいていたがバンドをしていなかったので、途中でズボンがずれ落ちてきたため、何度も太股〈フトモモ〉を抱え直さなければならなかった」
【一行アキ】
 これはミステリアスな証言であるが、このS証言を信じるにしても、疑問はいっぱい残る。証言者は実名を出すことを拒んでいるし、ウラ打ちの物証を欠いているので、法廷の証拠力としては弱い。Sが仲間を庇っているにしても、この証言だけで、下山総裁がどこかで殴殺され、その死体が車で運ばれてきて、Sらが線路上に運んだということを、誰にでも信じさせる決め手にはならない。
 自殺か他殺かで、自殺をとれば下山事件は解決される。国鉄九万五千人の大量首切りで、ノイローゼになった下山総裁が、D51651貨物列車に飛びこんだのだ、ということで一件落着となったはずだが、それにしても、下山総裁が、列車に飛び込まずに、レール上に身を横たえて死んだことに、疑問は残るだろう。〈250~253ページ〉

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大森実「国鉄総裁下山事件のミステリー Ⅱ」を読む

2024-12-13 02:43:50 | コラムと名言
◎大森実「国鉄総裁下山事件のミステリー Ⅱ」を読む

 大森実の「下山事件」論(1998)を紹介している。これは、2020年11月2日から5日にかけておこなった紹介の続きに当たる。
 本日以降は、大森実『日本はなぜ戦争に二度負けたか』(中央公論社、1998)から、「国鉄総裁下山事件のミステリー Ⅱ」を、何回かに分けて紹介してゆきたい。

 18 国鉄総裁下山事件のミステリー Ⅱ

 朝日新聞社会部の矢田喜美雄記者の血痕追跡捜査は、執拗に続けられた。それは、ジャーナリストとして敬意を払うべき努力であったが、彼の血痕追跡捜査を決定的に動機づけたきっかけは、 占領軍憲兵隊情報であった。
 東大の桑島〔直樹〕博士は、毎週二回、定期便のように、日比谷美松〈ミマツ〉ビルにあった米軍憲兵隊の犯罪捜査研究室に顔を出していた。当時では常識で、海外とのコミュニケーションを絶たれた日本の学究たちが、新しい知識を入手し得る唯一のルートは、占領軍の専門機関であった。
 私が、「チャーチルの肺炎を治癒したペニシリン」の存在を、社会面の大トップにしたのも、占領軍野戦病院の軍医ソースであったことが思い出される。
 矢田記者は、米軍憲兵隊研究所のフォスター軍曹が、D51651機関車が下山総我を轢断した現場から、北千住寄りに逆行すること四、五メートルの枕木から、下山総裁と同型のA型血痕を採取していた事実を、桑島教授を通じて知った。それは事件発生後十三日目の七月十八日のことであった。
 矢田記者は、早速、現場に足を運んだ。夏のことで乾燥が激しく、列車が通過すると砂埃〈スナボコリ〉が上がっていたので、問題の枕木を発見するには骨が折れたが、まず一本を発見、続いて、轢断現場から逆行すること十メートル付近の枕木にも削り跡を発見して、矢田は声を上げるところだった。
 鑿〈ノミ〉の削り跡は五本の枕木に八個所も発見された。矢田は、社会部記者のカンで、もっと探せば血痕が見つかるかもしれない、と思ったので埃をかぶった枕木を、ハンカチがボロボロになるまで擦りながら、血痕らしいシミを探し歩いた。彼の努力は実った。
 褐色に変色した血痕らしきものを、拾ったガラス片で削り取り、社に戻ると、薄いセンベイを剝ぐように血痕を採取することに成功したのであった。
 矢田は、この血痕を東大に運んで検査を依頼した。削り取った褐色の血痕粉末を、蒸留水に入れて白い粉末を添加して静かに振ると、フラスコ内の液体は半透明に濁ったが、濾過紙に垂らすと、目を奪うような鮮明な青緑の輪を幾重にも広げていくのであった。ここで、東大の研究陣が使った白い粉末はベンチジンという血液検査薬であった。
 矢田記者は、栗田純彦〈クリタ・スミヒコ〉記者の応援を頼むことにした。栗田君は私も親しい友人だったが、彼は東大農学部出身の変わりダネ。化学に精通していたので、矢田記者には強力なパートナーがついたことになる。
 矢田、栗田両記者の七つ道具を担いだ五反野〈ゴタンノ〉通いが始まった。
 矢田記者に高価な血液試薬ベンチジンに替わる、安価で素人でも使えるルミノール試薬を教えてくれたのは、東大法医学教室の血液学の権威、野田金次郎博士であった。ルミノール試薬は一九三六年、ベルリン大学のグレン教授の開発にかかり、日本海軍が輸入して武田薬品に製造させていたものだ。
 同博士が、「本郷界隈の焼け残りの薬屋なら持っているかもしれないよ」と教えてくれたので、矢田は専門家の栗田記者と二人で、本郷界限の薬屋をシラミ潰しに歩き回った末、赤門前の薬店で三本の小瓶を見つけ出すことに成功した。三百円也であった。
 ルミノール試薬は、ルミノールのアルカリ液と過酸化水素水(オキシフル)の混合液にへモグロビン誘導体のへミンを作用させて作った強力な発光化学物質で、黒い布地についた血痕とか、
 識別困難な条件下の血液測定に使う。血液を二万倍に薄めても、鋭敏に反応して発光するが、血液以外の物質には反応を起こさないため、初歩的で便利な血液試薬とされてきた。
 野田博士から、「なるべく深夜がいいよ」とアドバイスされたので、矢田、栗田両記者は七月二十三日午前零時を過ぎるのを待ちかねて、朝日新聞社の車にバケツ、ほうき、ぞうきん、懐中電灯、白チョークなどを積み、まるで鉱山師〈ヤマシ〉の服装で五反野現場に出かけた。
 現場に着くと、近くの農家の井戸からバケツ三杯分の水を汲み出し、ルミノール試薬を溶かして一升瓶に入れると、二人はそれをリュックサックで背負って轢断現場に運んだ。
 一升瓶から噴霧器〈フンムキ〉に入れられたルミノール試薬を、轢断現場から列車の進行方向とは逆行した方向の枕木に噴霧していくと、フォスター軍曹の削り跡より四本目に一個所、五本目に一個所、八本目に一個所、十本目も一個所。十一本目はマイナスだったが、十二本目に一個所……、十九本目で一個所、さらに三十五本目にも一個所の発光が認められた。
 両記者は息を呑んで作業を続けた。すると、四十三本目に一個所! そして四十七本目で、D51651機関車が走った下り線レールの枕木の蛍光反応はおしまいとなったので、そこで小休止。
 車の運転手酒井正雄も加わって、また一時間あまりの追跡作業が再開されたが、「あっ光る!」、「あっここもだ」、「あっこれは大きいぞ!」と次々に発見された蛍光は、轢断現場から、下り線レールを始発駅の日暮里駅に向かって逆行すること四十メートルもあった六十七本目の枕木まで。しかも、暗夜に怪しげな蛍光を発した点は、まるで酔っ払いが歩いたように左右に揺れながら、途中でD51651機関車が走らなかった上り線レールの枕木にまで発見されたのである。
 矢田記者は栗田と酒井に言った。
「下山総裁は普通人より巨体だったというから、死体の運び屋がよろめくように歩いた足取りがこれだ!」
 矢田記者はこの発見を翌朝、東大法医学教室に知らせた。同教室から報告を受けた東京地検刑事部は、部長検事以下六検事を出動させて、現場検証のやり直しをやったので、朝日新聞、東大法医学教室、東京地検刑事部による三連合捜査作戦は、にわかに活況を呈したのであった。
 東大裁判化学教室の秋谷〔七郎〕教授は、警視庁が保管していた下山総裁の着衣を再検査したが、着衣についた血痕様のものが、下着にまで浸透した大量の油と染料であることが分かった。
 死体解剖に当たった桑島博士は、矢田記者にこう告げた。
「解剖台に乗せたときから、二本の腕が妙に黒かったので、レール上を転がったときに付着した枕木の油性防腐剤かな、と思っていたが、警視庁から届いた遺品を見ると、その包装紙にまで油が沁みていたんだよ」
 三連合捜査作戦は、かくて、血痕追跡から、油と染料の追跡作戦に切り替えられた。
 間もなく、付着した油は植物油だと断定されたので、D51651機関車のものでも、枕木の腐食防腐剤でもないことが分かった。
 下山総裁の遺品についていた石膏が、塗料や彫刻用に使われる硫酸石灰だと断定され、次第に科学捜査は事件解明のリード(糸口、突破口)を解明していった。
 植物油の正体はヌカ油で、年間、関東一円で千トン製造されている。彼らは、このヌカ油を「下山油」と命名することにした。
 次は染料だったが、その正体は水溶性で、青緑、紫、赤、褐色の塩基性色素だと分かった。「下山色素」と命名されたが、捜査の網を絞り上げていくと、下山油と下山色素を使う業種は絹織物と皮革製品業で、鮮やかな色を売り物とする女性向け商品の業者だと推定された。〈246~250ページ〉

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大森実の「下山事件」論(1998)、その紹介の続き

2024-12-12 00:07:12 | コラムと名言
◎大森実の「下山事件」論(1998)、その紹介の続き

 2020年11月2日から5日にかけて、大森実『日本はなぜ戦争に二度負けたか』(中央公論社、1998)から、「国鉄総裁下山事件のミステリー Ⅰ」の前半部(230~241ページ)を紹介した。
 そのときは、「国鉄総裁下山事件のミステリー Ⅰ」の最後の部分を紹介せず、また、「国鉄総裁下山事件のミステリー Ⅱ」のほうも紹介しなかった。その理由は単純で、ブログ子が、この間、一貫して、下山総裁「自殺説」を支持してきたからである。下山総裁「他殺説」の紹介は、気が乗らなかったのである。
 ところで、ごく最近になって、木田滋夫さんの『下山事件 封印された記憶』(中央公論新社、2024年10月)という本が刊行された。木田さんは、そのなみなみならぬ努力によって、下山事件の真相解明に結びつく資料あるいは証言を発掘された。木田さんの立場は、「他殺説」である。同書の出現によって、下山総裁轢断事件の真相は、「他殺説」に大きく傾く可能性がある。
 ということであれば、大森実が、前掲書で下山事件「他殺説」を紹介している部分、すなわち、「国鉄総裁下山事件のミステリー Ⅰ」の後半部、そして「国鉄総裁下山事件のミステリー Ⅱ」も、きちんと、紹介しておく必要があろう。
 本日は、「国鉄総裁下山事件のミステリー Ⅰ」の最後の部分を紹介してみたい。2020年11月5日に紹介したところのあと、一行アキがあって、そのあと次のように続く。

 朝日新聞社会部の矢田喜美雄〈ヤダ・キミオ〉記者は、〔1949年〕七月七日、東大法医学教室を訪ね、下山〔定則〕総裁の死体解剖を執刀した桑島直樹〈クワジマ・ナオキ〉博士と接触した。
 桑島博士の薦めで、二十冊以上の法医学専門書を読むことにしたが、他殺死体を列車に轢かせて自殺に偽装した事件が、犯罪事件史の中にいくつかあることを知って衝撃を受けた。
 東大の解剖責任者、古畑〔種基〕教授が、現場検証を行った東京都の監察医から受けた報告の中に、「轢かれてバラバラに分断されたとき、体内の血はレール上にばら撒かれたのだろう」と報告していた事実を知り、矢田記者は疑義を抱いた。矢田記者の「血の道」追跡捜査は、この疑義から出発した。
 彼は古畑教授が、東京地検の協力を得て、死体轢断現場のレール下三個所を、バラスを掘り起こして、枕木下四十センチの土砂を三層に分けて採取、この土砂を国警科学捜査研究所に持ちこんでいた事実を知った。
 同研究所の分析結果は、監察医・八十島〔信之助〕医師の報告所見とは全く異なるもので、古畑教授は、採取したレール下の土砂からは血は検出されなかった、としていたことを矢田記者は知った。
 矢田記者が追っていくと、古畑教授は次段階捜査として、下り列車が下山死体を引きずったと思われる区域の十個所のバラスを掘り、枕木下五十センチまで深く掘り起こして分析した結果、血液反応がすべてマイナスだったことを知った。
 矢田記者が次に抱いた疑問は、監察医の、「死体に死斑が認められなかった」とする報告であった。
 古畑教授もそこに注目し、列車に轢断された下山死体の傷口三百五十個所を丹念に調べたが、傷口には生活反応がなかったことを確認していた事実を、矢田記者は知った。
 死体に死斑がなく、傷口にも生活反応がなく、しかも枕木下五十センチ掘り下げて採取した土砂からも血液が認められなかったことは、自殺説に繋がる生体轢断ではない、列車に轢断されたときの死体には血がなかったこととなり、誰かが下山総裁を殺して、死体から血を抜いてレール上に横たえて、自殺を偽装したという猟奇じみた疑いが出てきた。
【一行アキ】
 麻酔薬を注射されたのではないか、毒物を盛られたのではないか? 東大裁判化学研究室の検査結果が待たれたが、同教室の塚本〔塚元久雄〕助教授の報告は、毒物反応はマイナス、肝臓、肺、胃腸、脳などすべての臓器や血液から、青酸、カルモチン系、ルミナール系、エピパン系の薬物や、金属系薬物の砒素、アンチモン、水銀、4エチール鉛などは検出されなかった。
 矢田記者が、桑島博士の研究室で、無残に破損された下山総裁の頭蓋、臓器、皮膚、筋肉の切片標本が、ホルマリンに漬けられて瓶の中で浮いているのを見ていたときだった。桑島博士が、「君、ここだけ生活反応が認められたんだよ」と指さしたのが、下山総裁の、性器の亀頭部の先端であったという。
 男性の性器は、軟骨より柔らかい物体であるが、このように柔らかい軟体が生活反応を見せていた、ということは下山総裁が想像もつかない強烈な殴打を受けたことになる、と矢田記者は桑島博士から説明を受けた。
 顕微鏡で標本を硯いてみると、同博士が発見したという亀頭部先端の、紫色の銅貨大の変色部分は、矢田記者の眼にもはっきりそれと分かった。
 矢田記者の著書『謀殺下山事件』を読んで、この叙述を知った瞬間、私は思わず、「あッ。それはアレじゃないか!」と叫んで絶句してしまった。
 それは、ブラック・ジャックと呼ばれる凶器で、アメリカの対敵情報部の工作員だけが使う、帯状の革の中に鉛を入れた殴打凶器に違いない、と私の頭の中に閃いたからだった。
 下山事件より二年半遅れ(五一年十二月)て発生した対敵情報部の特殊工作隊・キャノン機関が、中国の重慶の戴笠〈タイ・リュウ〉スパイ機関で、対日宣撫工作に活躍して帰国してきた鹿地亘【かじわたる】を、湘南海岸でハイジャックした事件を追ったことがある私は、散歩中の鹿地亘が、「堅い鈍器様のもので一撃され、気を失ったところをキャノン機関の自動車に連れこまれました」と語ったことが思い出されたのである。
【一行アキ】
 矢田記者は、東鉄〔東京鉄道管理局〕管内・日暮里駅の田端操車場を六日午前零時十分に発った平〈タイラ〉行きの貨物列車、D51651機関車に轢かれた下山総裁のハネ飛ばされた両足の、どこにも生活反応がなかったのに、この亀頭部先端にだけなぜ生活反応が発見されたのか? 強い疑問を抱いて、頭を抱えこんでしまったという。
 毎日新聞の平〔正一〕デスクとは全く相反する方向、まるで交わることがない二本のレール上を、二つの大新聞の捜査班が互いに激しい闘志を燃やしながら驀進していったのである。
 その結果は、いずれに凱歌が上がろうとも、二人は真摯で厳粛なるジャーナリストであったと思う。
 サリン事件に関連して、坂本〔堤〕弁護士のインタビュー・テープを教団側に渡してしまったTBSの没倫理や、アメリカのO・J・シンプンン裁判で、シンプソンを強引に犯人に仕立て上げるため、検察と警察当局が意図的に流してくるガセネタを、いかにも自分の捜査結果として電波に乗せていたアメリカ・メディアの無責任さにくらべると、この時代のニッポンのジャーナリストは命懸けだったんだ、と私は思う。
 平さんが言った。
「帝銀事件に続くこの下山事件だ。ある新入記者の花嫁さんの親御さんが面会に来てね。娘の旦那は新婚以来、一回も御帰宅にならん、娘が気に入らないのか、副部長さん聞いてやって下さいだ。あの男、一晩くらい家に帰れと言っても、朝駆け夜討ちをやめないんだ」
 平さんはコップ酒を豪快に空けた。〈241~245ページ〉

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定説を否定した黒川一夫著『赤穂事件』

2024-12-11 01:24:44 | コラムと名言
◎定説を否定した黒川一夫著『赤穂事件』

 今月にはいってから、高円寺の古書展で、黒川一夫著『赤穂事件』(青史出版、2009年7月)を入手した。
 本文は430ページ、上下二段でビッシリと組んである。著者の黒川一夫さんは、本文の冒頭で、「ここで述べる赤穂事件は、従来、扱われてきた忠臣蔵とは異なった内容になる」と述べている(1ページ上段)。読んでみると、「異なった内容」どころの話ではなかった。通説を完全に否定する大胆な新説が展開されていた。
 本書によって明らかにされる赤穂事件の「真相」は、これまで信じられてきた赤穂事件(忠臣蔵事件)の「真相」とは、まったく別のものである。
 著者は、徹底的な調査および研究の結果、この驚くべき「真相」にたどりついた。もちろん、これが「史実」であるという断定はできない。しかし、本書によって、歴史学の世界に、有力な「仮説」が提示されたことは間違いない。
 同書が刊行されたのは、2009年7月である。それからすでに15年以上が経っているが、黒川さんの新説は、歴史学の世界からは、完全に無視されているもようである。アマゾンへのレビューも、今のところ、一件もない(私は、12月10日に投稿した)。
 本書は、文章が平易で推論も明快である。ただし、年表や系図のページが多く、初学者にとっては、かなりハードルが高い本と言えるかもしれない。
 著者は、本書の323ページ上段から425ページ下段にかけて、「まとめ」を置いている。「まとめ」は、10項からなり、その「6」は次のようになっている。

6、元禄十五年十二月十四日の大石隊の吉良家討入りにより、吉良上野介は斬られたと伝えられたが、その後、吉良は生存していることが確認された。その対応に幕府として混乱があった。しかし、柳沢吉保は逆に吉良が斬られたこととして、大石隊だけが浅野長矩の敵討ちを計画・実行したと作為し、……〈424ページ上段〉

「大石隊だけが」という字句に注意しなければならない。本書の説くところによれば、大石内蔵助率いる「大石隊」のほかにも、「吉良上野介」を狙っていた一団が組織されていたという。詳しくは、直接、同書に拠って確認されたい。

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