◎細かい心使ひに博士の人柄が現はれてゐる(小島祐馬)
『回想の河上肇』(世界評論社、1948)から、小島祐馬の「読書人としての河上博士」という文章を紹介している。本日は、その六回目。手翰引用中の〔以下略〕は、原文にあったものである。
この度は私は羅振玉氏の殷虚文字に賊する新研究に本づき、富は『説文』に謂ふ如く単に音を表はす符号では無く、神を祭る際の尊即ち酒器の象形ではあるまいかと言つて、それから出て来る福と富との意味の変遷を詳しく書いてあげたやうに記憶する。それに対し更に一月二十九日の手翰が到来してゐる。
拝啓昨日は参上長時間御邪魔仕り欠礼致候同志社大学の近状は新聞紙上にて御承知の通り甚面白からざるもの有之此間に在りて瀧本氏の苦心も容易ならざるもの可有之と存じ聊か〈イササカ〉同情致居候参堂の折御願致申せし件何分早急之御願にて御当惑の御事と奉存候へ共御差繰下候て同志社の為め御助力被為下候はゞ大幸に奉存候猶適日は富及福両字之意義に就て御懇篤なる御示教を辱う致洵に感謝に不禁〈タエズ〉候御来諭の如く羅氏の説は最も適切なる様に被存申候これならば小生も当分そのまゝ受け入れて安んじ得るやに覚え欣喜無量に奉存候右に就ては昨日拝眉の折篤と御礼申上度存居りし事に御座候へ共実は其前日経済読書会にて瀧本教授より字義之詮索は無用なりとの事に付〈ツキ〉大分強烈なる御話出で候ひし事故同氏と同席致して字義談持ち出し候事は相控え候方可然〈シカルベシ〉と存じ簡単なる御礼申上候のみに止めおき候然るに帰来〔帰ってから〕聊か意を安んぜず殊に只今も貴諭重ねて拝読洵に〈マコトニ〉愉快に存候為に茲に以書中〈ショチュウヲモッテ〉重ねて御礼申上候〔以下略〕 火曜日夜 河上 肇
これは私に同志社大学の特別講義を委嘱したいといふ瀧本誠一氏を同道して来られた翌日の手翰であつて、随つて最初の部分はその事に及んで居るが、富と福とに就いてはこれが三度目の来書である。この一事に由つて観ても博士が平生いかに字義の穿鑿にまでも意を用ひて居られたかが想像し得らるゝと共に、私にものを尋ぬるかたはら私の師事してゐる狩野〔直喜〕先生にも同じことを尋ねたからとて、特に細かい心使ひをされたり、学問上の態度を異にする瀧本氏の前で自ら信ずる所を言ふを遠慮せらるゝなど、博士の人柄がよく現はれてゐて誠にゆかしく思はるゝのである。
後年博士は学説上人道主義を清算してマルクス主義一点張りとなつたが、それでも博士の研究態度には変化はなく、『資本論』中の一字一句の意味に就き櫛田〔民蔵〕君と五に検討して居られるのを屡〻目撃したことがある。或時櫛田君は、「四書や五経の一言一句に種々の註解が並び行はれてゐるやうに、『資本論』も最早古典となつた以上一言一句に異義の出るのは已む〈ヤム〉を得ない」と言ひ出し、博士も之を是認せられてゐたやうな事もあった。〈23~24ページ〉【以下、次回】
文中に「私の師事してゐる狩野先生」とある。狩野直喜(かの・なおき、1868~1947)は、中国学者、京都帝国大学名誉教授。その教え子に、武内義雄・小島祐馬・倉石武四郎・吉川幸次郎・宮崎市定といった人々がいる。
ここで小島が指摘しているように、河上肇は、人間関係において、「細かい心使ひ」のできる人だった。そして、河上の「細かい心使ひ」に気づくことのできた小島祐馬もまた、「細かい心使ひ」のできる人だったと思う。
『回想の河上肇』(世界評論社、1948)から、小島祐馬の「読書人としての河上博士」という文章を紹介している。本日は、その六回目。手翰引用中の〔以下略〕は、原文にあったものである。
この度は私は羅振玉氏の殷虚文字に賊する新研究に本づき、富は『説文』に謂ふ如く単に音を表はす符号では無く、神を祭る際の尊即ち酒器の象形ではあるまいかと言つて、それから出て来る福と富との意味の変遷を詳しく書いてあげたやうに記憶する。それに対し更に一月二十九日の手翰が到来してゐる。
拝啓昨日は参上長時間御邪魔仕り欠礼致候同志社大学の近状は新聞紙上にて御承知の通り甚面白からざるもの有之此間に在りて瀧本氏の苦心も容易ならざるもの可有之と存じ聊か〈イササカ〉同情致居候参堂の折御願致申せし件何分早急之御願にて御当惑の御事と奉存候へ共御差繰下候て同志社の為め御助力被為下候はゞ大幸に奉存候猶適日は富及福両字之意義に就て御懇篤なる御示教を辱う致洵に感謝に不禁〈タエズ〉候御来諭の如く羅氏の説は最も適切なる様に被存申候これならば小生も当分そのまゝ受け入れて安んじ得るやに覚え欣喜無量に奉存候右に就ては昨日拝眉の折篤と御礼申上度存居りし事に御座候へ共実は其前日経済読書会にて瀧本教授より字義之詮索は無用なりとの事に付〈ツキ〉大分強烈なる御話出で候ひし事故同氏と同席致して字義談持ち出し候事は相控え候方可然〈シカルベシ〉と存じ簡単なる御礼申上候のみに止めおき候然るに帰来〔帰ってから〕聊か意を安んぜず殊に只今も貴諭重ねて拝読洵に〈マコトニ〉愉快に存候為に茲に以書中〈ショチュウヲモッテ〉重ねて御礼申上候〔以下略〕 火曜日夜 河上 肇
これは私に同志社大学の特別講義を委嘱したいといふ瀧本誠一氏を同道して来られた翌日の手翰であつて、随つて最初の部分はその事に及んで居るが、富と福とに就いてはこれが三度目の来書である。この一事に由つて観ても博士が平生いかに字義の穿鑿にまでも意を用ひて居られたかが想像し得らるゝと共に、私にものを尋ぬるかたはら私の師事してゐる狩野〔直喜〕先生にも同じことを尋ねたからとて、特に細かい心使ひをされたり、学問上の態度を異にする瀧本氏の前で自ら信ずる所を言ふを遠慮せらるゝなど、博士の人柄がよく現はれてゐて誠にゆかしく思はるゝのである。
後年博士は学説上人道主義を清算してマルクス主義一点張りとなつたが、それでも博士の研究態度には変化はなく、『資本論』中の一字一句の意味に就き櫛田〔民蔵〕君と五に検討して居られるのを屡〻目撃したことがある。或時櫛田君は、「四書や五経の一言一句に種々の註解が並び行はれてゐるやうに、『資本論』も最早古典となつた以上一言一句に異義の出るのは已む〈ヤム〉を得ない」と言ひ出し、博士も之を是認せられてゐたやうな事もあった。〈23~24ページ〉【以下、次回】
文中に「私の師事してゐる狩野先生」とある。狩野直喜(かの・なおき、1868~1947)は、中国学者、京都帝国大学名誉教授。その教え子に、武内義雄・小島祐馬・倉石武四郎・吉川幸次郎・宮崎市定といった人々がいる。
ここで小島が指摘しているように、河上肇は、人間関係において、「細かい心使ひ」のできる人だった。そして、河上の「細かい心使ひ」に気づくことのできた小島祐馬もまた、「細かい心使ひ」のできる人だったと思う。
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