礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

川島武宜『ある法学者の軌跡』を読む

2025-02-06 00:01:17 | コラムと名言
◎川島武宜『ある法学者の軌跡』を読む

 昨年、読んで印象に残った本の一冊に、川島武宜著『ある法学者の軌跡』(有斐閣、1978)がある。
 著者の川島武宜(かわしま・たけよし、1909~1992)は、著名な法社会学者である。私は若いころに、彼の代表作『日本人の法意識』(岩波新書、1967)を読み、たいへん刺激を受けた記憶がある。
『ある法学者の軌跡』は、川島武宜の口述を、有斐閣編集部の新川正美氏が筆録したもので、平易で、かつ興味深い読み物になっている。
 本日以降、そこにある回顧談を、いくつか引いてみたい。まず紹介したいのは、第Ⅳ部「戦時中のこと」の第八章「与瀬での生活の思い出」である。

       与瀬での生活の思い出
       ⑴ 与瀬に疎開をする
 昭和二〇年の春、東京は、一地区づつその周囲に燃焼物(油?)をまき、次に火を放つ爆弾をおとし、その中にいる市民を逃げられないようにして全部焼き殺す、という「皆殺し」(今日で言うジェノサイド)じゅうたん爆撃で、次々と焼野原になってゆきました。それまで私一人で知りあいの家に下宿していましたが、そういう情勢では、食糧入手もむずかしくなり、その知りあいの方にも大きな負担をかけることになりましたので、東京から疎開することを決意し、そこに大塚(久雄)さんをたよりにして与瀬〈ヨセ〉に行きました。与瀬は今の相模湖町の一部で、そこでは当時、深い峡谷にダムを建設して今の相模湖を作る工事が始まったばかりでした。その峡谷の北側の急斜面にへばりつくように家が点点とあり、昔ながらの一本の街道が走っている山村の一つが与瀬なのでした。大塚さんと奥様の並々ならぬ御親切なはからいで、与瀬の梶原さんというお医者さまの家の一間を借り、汽車で毎日東京に通うことになりました。
 与瀬には、すでに大塚さんのほかに飯塚(浩二)さんと、東大の小児科の瀬川功〈コウ〉先生が、それぞれ御家族と共に疎開してきておられました。たまたま、これらの方々と私とは、東大に属していたというだけではなく、都会育ちであったという点でも共通していて、風俗習慣が甚しく異なる与瀬の山村で一種の「異邦人」として心細く暮していましたので、何となくしばしば顔を合わせて大へん親しくつきあうようになりました。大塚さんが誠意をもってつきあっても、村の人は「わけの分らぬ人」と言って非難する。ことに瀬川先生は有名な小児科のお医者様であるのに、村の人々のあいだでは「瀬川先生は診断を誤るやぶ医者だ」と非難されていたのです。というのは、先生は当時「新薬」だったスルフォン剤を持っておられ、疫痢【えきり】にかかった村の子供にスルフォン剤を投与されたので、すぐに治ってしまう。ところが、当時は、その村では疫痢にかかったら死ぬのがあたり前で、すぐに治ってしまうことはなかったのですから、そんなに簡単に治ってしまう病人を疫痢だと診断した瀬川先生は「診断誤ったやぶ医者だ」と思われたのです。先生はそのような村人のうわさ話を苦笑しながら、多くの子供の生命を救っておられたのでした。私は山村の風俗習慣を或る程度は知っていたのですが、それは主として長野県の山村――特に、知的水準の高い伊那谷の山村――に関するもので、与瀬はこれとはかなりちがっていましたし、特に瀬川先生についての村人の評価は、私にとっては全くおどろく外はなく、日本における文化の地域的――都市と農村の間の――落差について強く印象づけられると共に、日本社会のこのような一面を大へん悲しく思いました。〈186~187ページ〉【以下、次回】

 今日、「与瀬 梶原」でインターネット検索すると、相模原市緑区与瀬の「梶原医院」がヒットする。また、「瀬川功 小児科」でインターネット検索すると、東京都千代田区神田駿河台の「瀬川記念小児神経学クリニック」がヒットする。

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フィヒテ『ドイツ国民に告ぐ』の復刊を望む

2025-02-05 00:04:21 | コラムと名言
◎フィヒテ『ドイツ国民に告ぐ』の復刊を望む

 本日は、先月22日以降に提供した話題について、若干のまとめをおこなってみたい。以下、箇条書きで述べる。

○岩波文庫『独逸国民に告ぐ』から同『ドイツ国民に告ぐ』への改訳は、佐藤通次が担当した。この際、佐藤は、「凡例」の書き直しもおこなった模様である。この書き直しは、第一項から第三項については、文体・用字等の変更であった。
○岩波文庫『ドイツ国民に告ぐ』の「凡例」には、第四項と第五項があるが、この両項は、岩波文庫『独逸国民に告ぐ』初版(1928年3月)の段階で付されたものと考えられる(初版は未確認)。
○凡例は、どのように書き直されたのだろうか。文部省版『独逸国民に告ぐ』と岩波改版『ドイツ国民に告ぐ』で比較してみよう。
 文部省版「一、本輯は、一八〇七年の末より八年の初頭に亘りフィヒテが伯林大学に於て学者教育者その他愛国の士を集めて行へる講演「独逸国民に告ぐ」Reden an die deutsche Nation を翻訳せるものなり。この講演は実にフィヒテの熱列なる愛国心とその勇気とを証明せるものにして、当時伯林は仏軍の蹂躙する所となり、フィヒテの講演は幾度か仏軍の太鼓の響に妨げられたりと云ふ。」
 岩波改版「一、本輯は、一八〇七年の末より八年の初頭に亘りフィヒテがベルリン学士院に於て、学者、教育者その他愛国の士を集めて行へる講演(ドイツ国民に告ぐ)Reden an die deutsche Nation を翻訳したものである。この講演は実にフィヒテの熱列なる愛国心とその勇気とを証明したもので、当時ベルリンが仏軍の蹂躙するところとなり、フィヒテの講演は幾度か仏軍の太鼓の響に妨げられたりといふ。」
 おおむね妥当な書き直しと言えるが、最後の「妨げられたりといふ」は、「妨げられたといふ」とすべきであった。
○第三項においては、意図的な書き直しが見られる。
 文部省版「一、フィヒテが教育史上に於ける意義は、汎愛主義及び人文主義の曖昧なる理想を棄てて、強健なる人間の陶冶を説き、国民的教育の精神を鼓吹せるにあり。而してその主張に幾分極端なる点無きに非ずと雖も、よく時勢を洞察し、国民の覚醒を、促したる所、今日の我社会に対して参考となるべきもの尠からざるべきを思ひ茲に之を訳出し「時局に関する教育資料」特別輯として上梓することゝせり。」
 岩波改版「一、フィヒテが教育史上に於ける意義は、汎愛主義及び人文主義の曖昧なる理想を棄てて、強健なる人間の陶冶を説き、国民的教育の精神を鼓吹するにある。しかしてその主張がよく時勢を洞察し、国民の覚醒を促したるところは、今日のわが社会に対して参考となるべきもの多きを思ふ。」
 文部省版には、「その主張に幾分極端なる点無きに非ずと雖も」という字句があったが、岩波改版では、この字句が削られている。岩波改版の書き手は、意図的にこれを削ったものと考えられる。
 しかも岩波改版では、文部省版にあった「茲に之を訳出し」も削られている。文部省版の凡例を見れば、その書き手が訳者(大津康)であることは明白である。岩波改版では、書き手がアイマイになっており、したがって、「その主張に幾分極端なる点無きに非ずと雖も」という字句を、誰が削ったかもアイマイにされている。
○岩波文庫改版『ドイツ国民に告ぐ』の凡例第三項の書き直しは、意図的なものであり、最初の執筆者・大津康に対して、甚だ非礼である。あえて、この非礼をおこなったのは、改訳者の佐藤通次であった。
○佐藤通次による岩波文庫の改版、凡例の書き直しという経緯と、今日、国立国会図書館に、岩波文庫改版『ドイツ国民に告ぐ』が架蔵されていないこととの間には、なんらかの因果関係があると推定される。
 この因果関係について、現段階では説明を控えるが、傍証をふたつ挙げておく。ひとつは、戦中、佐藤通次は大日本言論報国会の理事であり、そのことから、戦後の一時期、公職追放になっているという事実があること。
 もうひとつ。富野敬邦『フィヒテ 独逸国民に告ぐ』(玉川学園出版部)は、戦後、「GHQ焚書」(故西尾幹二氏の用語)の対象となっているというインターネット情報があるという事実。
 富野敬邦(とみの・よしくに、1904~1968)は、社会学者で、戦後、徳島大学教授。富野の『フィヒテ 独逸国民に告ぐ』には、戦中版と戦後版とがあって、戦中版は、富野敬邦著『フィヒテ 独逸国民に告ぐ』(玉川学園出版部、1941年9月)、戦後版は、富野敬邦訳補『フィヒテ 独逸国民に告ぐ』(玉川学園出版部、1948年3月)である。富野の『フィヒテ 独逸国民に告ぐ』が、「GHQ焚書」の対象となったというのが事実だとすれば、対象となったのは、たぶん、戦中版のほうであろう。
○フィヒテの『ドイツ国民に告ぐ』が、岩波文庫から復刊されることを望みたい。その際、「解説」の中で、日本で同書の翻訳書がたどった悲しい運命について、詳細に、かつ冷静に検討していただきたいと願う。

付記 本日午後、久しぶりに国立国会図書館を訪れた。目的は、ただひとつ、岩波文庫『独逸国民に告ぐ』(1928年3月初版)を閲覧するためである。ところが、わざわざ出かけて初めて、同図書館には、同書が架蔵されていないことに気づいた。つまり、国立国会図書館には、岩波文庫『独逸国民に告ぐ』が架蔵されておらず、岩波文庫『改訂 ドイツ国民に告ぐ』(1940年3月改版)もまた、架蔵されていなかったのである。となると、本日の記事もそうだが、当ブログの過去の記事で、記述を修正しなければならないものがある。過去にさかのぼって修正した場合は、「付記」で、その旨を明記するので、読者は、これを了とされたい(2025・2・5)
付記その2 下から二番目の箇条書きで、「佐藤通次による岩波文庫の改版、凡例の書き直しという経緯と、今日、国立国会図書館に、岩波文庫改版『ドイツ国民に告ぐ』が架蔵されていないこととの間には、なんらかの因果関係があると推定される。」と書きました。これを、次のように訂正します。「佐藤通次による岩波文庫の改版、凡例の書き直しという経緯と、今日、国立国会図書館に、岩波文庫初版『独逸国民に告ぐ』ならびに岩波文庫改版『ドイツ国民に告ぐ』が架蔵されていないこととの間には、なんらかの因果関係があると推定される。」(2025・2・5)

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岩波文庫版『ドイツ国民に告ぐ』と佐藤通次

2025-02-04 02:19:20 | コラムと名言
◎岩波文庫版『ドイツ国民に告ぐ』と佐藤通次

 文部省版『独逸国民に告ぐ』の凡例は、全三項からなっていた。一方、岩波文庫版『ドイツ国民に告ぐ』の凡例は、全五項からなっていた。後者においては、凡例の年月が「昭和三年二月」となっている。すなわち、後者における第四項と第五項は、大津康訳『独逸国民に告ぐ』が岩波文庫に収録される際に、つまり、1928年(昭和3)年の段階で付け加えられたものである。
 ここで、第四、第五の両項を再掲してみる(引用は、『改訂 ドイツ国民に告ぐ』から)。

 一、本書は大正六年九月、「時局に関する教育資料」として、文部省普通学務局にて上梓したものを、今回文部省の好意ある許諾を得て、岩波文庫の一篇としたものである。謹んで同局に謝意を表する。
 一、訳者は六年前に長逝せられ、本年二月四日は丁度その七周忌にあたる。本書の翻訳は同氏以前に幾人もこれを試みられたが、難解苦渋何人もこれを判途に放擲した。大津氏を俟つて初めてこれを完成されたことを特記する。

 この両項を執筆したのは誰だったのだろうか。岩波書店の編集者だった可能性もあるが、ドイツ文学者の佐藤通次(さとう・つうじ、1901~1990)だった可能性が高いのではないか。
 佐藤通次は、1940年(昭和15)3月に、岩波文庫版『独逸国民に告ぐ』が「改版」される際に、大きくこれに関与している。文部省版『独逸国民に告ぐ』が岩波文庫に収録された際に、すでにこの収録に関与していたと見ても不思議ではない。
 一昨日は紹介しなかったが、『改訂 ドイツ国民に告ぐ』の5ページ(「凡例」のあと)には、次のような一文が置かれている。

     改 訳 者 序
 大津氏未亡人及び岩波書店の委嘱により、全篇にわたつて補筆を加へるに当り、原訳の暢達〈チョウタツ〉の文勢を力めて〈ツトメテ〉保持しつつ、古き訳語を現代学界通用の訳語をに改め、且つ全体を種々の点に於て一段と原文に接近せしめた。業成るにあたり、微力にして名訳の名を謳はるる〈ウタワルル〉大津氏の業績を汚すことなかりしやを恟るる〈オソルル〉のみである。
  昭和十四年八月一日         佐 藤 通 次

 これによって、1940年(昭和15)3月におこなわれた、岩波文庫『独逸国民に告ぐ』の「第十六刷改版」は、実質的には、佐藤通次による「改訳」であった事実が判明する。そして、この「改訳・改版」を、岩波書店は、「改訂」と称したのである。明日は、この間に提供した話題について小括を試みる。

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主張に少し極端な点がないわけではないが

2025-02-03 00:40:12 | コラムと名言
◎主張に少し極端な点がないわけではないが

 文部省普通学務局から出た『独逸国民に告ぐ』を閲覧してみた。その扉には、次のようにある。

 (時局に関する教育資料特別輯 第三)
   フィヒテ述
   独 逸 国 民 に 告 ぐ
         文 部 省

 奥付を見ると、「大正六年十月十七日印刷/大正六年十月二十日発行/文部省」とある。岩波文庫版『ドイツ国民に告ぐ』の凡例には、「大正六年九月」に上梓されたとあったが、届け出上は「大正六年十月」の上梓で、実際には「大正六年九月」に上梓されたのだろうか。
 扉をめくったところに、「フイヒテ小伝」がある。この一文は、岩波文庫版『ドイツ国民に告ぐ』の10ページにある「フィヒテ小伝」と同じである。
 そのあとに、フィヒテの「肖像」がある。キャプションはなし。
 続いて、「凡例」がある。以下の通り。

    凡 例
 一、本輯は、一八〇七年の末より八年の初頭に亘りフィヒテが伯林大学に於て学者教育者その他愛国の士を集めて行へる講演「独逸国民に告ぐ」Reden an die deutsche Nation を翻訳せるものなり。この講演は実にフィヒテの熱列なる愛国心とその勇気とを証明せるものにして、当時伯林は仏軍の蹂躙する所となり、フィヒテの講演は幾度か仏軍の太鼓の響に妨げられたりと云ふ。
 一、フィヒテはこの講演に於て独逸国民が道徳の要素に於て欠くる所あるを摘発し、之を根柢より救済せんとせり。即ちフィヒテは全欧洲の国民が挙つて道徳的に堕落の頂点に達せるを痛感し、当時の状態を批評して最も完備せる罪悪の社会なりとし、極端なる利己主義流行の時代なりと云へり。是に於てその国民を道徳的堕落より救済せんが為め国民教育を根柢より改良し、倫理的新時代を作らざるべからずと主張せり。フィヒテによれば、この道徳的革新は世界的問題なると同時に、独逸の民族的問題にして、その目的は人類に鞏固にして善良なる意志を養成するにあり。故に教育は須らく具案的、方法的ならざるべからず。精神の純潔は思考の明晰を予想す。故に認識の明晰により純良なる意思を鍛錬するを得。フィヒテはペスタロツチが児童教化の理想的方法に基礎を与へたることを称揚し、その主義を採り之に自己の理想を加へ以て此の論をなせり。
 一、フィヒテが教育史上に於ける意義は、汎愛主義及び人文主義の曖昧なる理想を棄てて、強健なる人間の陶冶を説き、国民的教育の精神を鼓吹せるにあり。而してその主張に幾分極端なる点無きに非ずと雖も、よく時勢を洞察し、国民の覚醒を、促したる所、今日の我社会に対して参考となるべきもの尠からざるきを思ひ茲に之を訳出し「時局に関する教育資料」特別輯として上梓することゝせり。
 大正六年九月       文部省普通学務局

 凡例は全三項からなる。署名は「文部省普通学務局」となっているが、実際は、訳者の大津康によって執筆されたものであろう。なお、この文部省版では、訳者・大津康の名前は紹介されていない。
 さて、この文部省版の凡例だが、岩波文庫版『ドイツ国民に告ぐ』にある凡例の最初の三項と、文体・用字などが違っているものの、基本的には同一だと言ってよかろう。ただし、文部省版の第三項中にあった「その主張に幾分極端なる点無きに非ずと雖も」(その主張に少し極端な点がないわけではないが)というコメントは、岩波文庫版『ドイツ国民に告ぐ』の第三項では削られている。なお、岩波文庫初版『独逸国民に告ぐ』の凡例は、残念ながら、まだ参照できていない。【この話、さらに続く】

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文部省、1917年に『独逸国民に告ぐ』を出版

2025-02-02 05:06:53 | コラムと名言
◎文部省、1917年に『独逸国民に告ぐ』を出版

 昨日の話の続きである。本日は、岩波文庫『改訂 ドイツ国民に告ぐ』(1940年3月改版)の「凡例」を読んでみたい。

    凡  例

 一、本輯は、一八〇七年の末より八年の初頭に亘りフィヒテがルリン学士院に於て、学者、教育者その他愛国の士を集めて行へる講演(ドイツ国民に告ぐ)Reden an die deutsche Nation を翻訳したものである。この講演は実にフィヒテの熱列なる愛国心とその勇気とを証明したもので、当時ベリンが仏軍の蹂躙するところとなり、フィヒテの講演は幾度か仏軍の太鼓の響に妨げられたりといふ。
 一、フィヒテはこの講演に於てドイツ国民が道徳の要素に於て欠くるところあるを摘発し、これ根柢より救済せんとした。即ちフィヒテは全欧洲の国民が挙つて〈コゾッテ〉道徳的に堕落の頂点に達せるを痛論し、当時の状態を批評して、最も完備せる罪悪の社会なりとし、極端なる利己主義流行の時代なりといつたのである。ここに於て、その国民を道徳的堕落より救済するには、国民教育を根柢より改良し、倫理的新時代を作らねばならぬと主張した。フィヒテによれば、この道徳的革新は世界的問題であると同時に、ドイツの民族的問題であつて、その目的とするところは、人類に鞏固〈キョウコ〉にして善良なる意志を養成するにある。故に教育は須く〈スベカラク〉具案的、方法的でなくてはならぬ。精神の純潔は思考の明晰を予想する。故に認識の明晰により純良なる意思を鍛錬することを得る。フィヒテはペスタロッチが児童教化の理想的方法に基礎を与へたことを称揚し、その主義を採り、これに自己の理想を加へ、以てこの論をなした。
 一、フィヒテが教育史上に於ける意義は、汎愛主義及び人文主義の曖昧なる理想を棄てて、強健なる人間の陶冶を説き、国民的教育の精神を鼓吹するにある。しかしてその主張がよく時勢を洞察し、国民の覚醒を促したるところは、今日のわが社会に対して参考となるべきもの多きを思ふ。
 一、本書は大正六年九月、「時局に関する教育資料」として、文部省普通学務局にて上梓したものを、今回文部省の好意ある許諾を得て、岩波文庫の一篇としたものである。謹んで同局に謝意を表する。
 一、訳者は六年前〔1922〕に長逝せられ、本年〔1928〕二月四日は丁度その七周忌にあたる。本書の翻訳は同氏以前に幾人もこれを試みられたが、難解苦渋何人もこれを判途に放擲〈ホウテキ〉した。大津氏を俟つて初めてこれを完成されたことを特記する。

  昭 和 三 年 二 月          〈3~4ページ〉

 岩波文庫『改訂 ドイツ国民に告ぐ』には、「解題」、「解説」と題されたものがなく、この「凡例」が、「解題」の役割を果たしている。
 凡例の第四項によれば、本書は、1917年(大正6)9月、「時局に関する教育資料」として、文部省普通学務局から上梓されているという。これは、耳よりな情報であった。
 そこで、国立国会図書館の検索システムで、「独逸国民に告ぐ 文部省普通学務局」と検索してみた。たしかに1件ヒットする。「時局に関する教育資料特別輯 第三輯」である。こちらの文献は、「インターネットで読める」となっている。
 1917年(大正6)に出た『独逸国民に告ぐ』がインターネットで読めるのに、1928年(昭和3)に出た岩波文庫『独逸国民に告ぐ』がインターネットで読めないのは、どういうわけなのか。ともかく、文部省普通学務局から上梓された『独逸国民に告ぐ』を読んでみよう。【この話、続く】

付記 当記事の最後のパラグラフに、「1928年(昭和3)に出た岩波文庫『独逸国民に告ぐ』がインターネットで読めないのは、どういうわけなのか。」とありますが、これを、次のように訂正します。「1928年(昭和3)に出た岩波文庫『独逸国民に告ぐ』がインターネットで読めないのは、国立国会図書館が、同書を架蔵していないからである。」なお、2025年2月5日の当ブログ記事「付記」を参照いただければ幸いです。(2025・2・5)

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