礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

読んでいただきたかったコラム10(2024年後半) 

2024-12-29 00:36:52 | コラムと名言
◎読んでいただきたかったコラム10(2024年後半)  

 二〇二四年も、そろそろ、その前半を終えようとしている。
 恒例により、二〇二四年前半(七月~十二月)に書いたコラムのうち、読んでいただきたかったコラムを、一〇本、挙げてみたい。おおむね、読んでいただきたい順番に並んでいる。

1) 大佛次郎「英霊に詫びる」1945・8・21   7月1日

2) 民衆の恥知らずなしぶとさ、したたかさ、狡智   7月15日

3) 御座所にはRCAのポータブルラジオが……    8月15日

4) 首だけ持ってくればいいじゃないか(西成甫教授) 9月1日

5) 日本の女性は、いまや世界一晩婚だ       11月27日

6) キリスト教はローマ法によって作られた宗教   10月9日

7) 罵倒するのでなく正説を示していただきたい   11月9日

8) 志賀直哉「清兵衛と瓢箪」の読み方       12月18日

9) 1980年代後半、富の移転が起きた      12月1日

10) 胸中の血は老いてなほ冷えぬ(高田保馬)     9月7日
   
次点 日本語コレバカリダとバスク語kori bakarrik da  9月25日

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女流小説家にして男まさりの大和心を持つてゐる

2024-12-28 03:04:39 | コラムと名言
◎女流小説家にして男まさりの大和心を持つてゐる

『昭和十六年十一月 日本諸学振興委員会研究報告 第十二篇(国語国文学)』(教学局、1942年1月)から、島津久基の講演「紫式部の芸術を憶ふ」を紹介している。
 本日は、その二回目(最後)。298ページ1行目から307ページ13行目までを割愛し、講演の最後の部分、すなわち307ページ14行目から309ページまでを紹介する。

 最後に私は又別の角度から観た一事を申上げて見たいと思ひます。源氏物語の中で、冷泉院〈レイゼイイン〉の御代〈ミヨ〉に前斎宮〈ゼンサイグウ〉の梅壺の女御〈ニョウゴ〉が中宮〈チュウグウ〉にお立ちになるところがあります。その巻――少女の巻に
  源氏のうちしきりに后に居給はむこと、世の人ゆるし聞えず、弘徽殿の先づ先に参りし給ひしにも如何など、うちうちに此方彼方に心寄せ聞ゆる人々覚束ながり聞ゆ
とありまして、藤原氏の権勢に諂る〈オモネル〉世人が不満であつたと書いてあるのであります。弘徽殿〈コキデン〉女御は即ち藤原氏の女、そして梅壺は先の皇太子の妃六条御息所〈ミヤスドコロ〉の御腹〈オハラ〉で、尊き御血統なのであります。又これより前の桐壺帝の御代には藤壺女御が同じく藤氏〈トウシ〉の弘徽殿女御を超えて、中宮に御立ちになります。これは先帝の第四皇女にましますのであります。それから冷泉院の次の御代には明石姫〈アカシノヒメ〉即ち桐壺女御が藤氏を圧して中宮になつて居られます。これは光源氏の姫でやはり皇胤でいらつしやる。即ち源氏物語の中で中宮にお立ちになるのは御三方でありますが、それがいづれも皇室の御系統で、藤原氏から皇后や中宮に立たれる記事は源氏物語には一回も無いのであります。朱雀院〈スザクイン〉の御母女御弘徽殿が朱雀院御即位の後、皇太后になられたのは当然で、それ以外はじめから中宮に立たれた藤氏は一人も書かれないのであります。こゝです、私の申したいのは‥‥‥‥‥‥。望月の欠けたることもなしと言つたあの御堂関白〈ミドウカンパク〉の時代、正に藤原氏の全盛時代、さうして事実に於いては藤原氏の皇后や中宮が立つておいでになる其の御代に、仮令〈タトイ〉物前小説であらうとも、斯う云ふ風に藤原氏の人が立たれずに、皇室系統の方々だけが中宮にお立ちになるやうに敢然と書いたのは実に考へさせられるのであります。なかなか尋常では出来ぬことであると思ひます。これは古人では近藤芳樹〈コンドウ・ヨシキ〉といふ学者に既に着目されてゐる所でありますが、私の特に申したいのは、あの時代、而も藤氏の圧倒的勢力を代表した御堂関白の権栄の下にあつて、其の御堂関白の御女〈オンムスメ〉に当られる上東門院〈ジョウトウモンイン〉にお宮仕〈ミヤヅカエ〉をして居る一女性紫式部が、斯うした皇室絶対尊重の筆を執つて居ると云ふこと、是はなかなかの勇気と信念が無ければ出来ることではありませぬ。真の勇気ある人間でなければ出来ませぬ。真の尊皇者でなければ出来ませぬ。清少納言が漢学の知識をひけらかして、男をやつつけて痛快がるのとは天地の懸隔であります。此の意味に於ける限り、紫式部はたゞに才媛であるのみでなく、立派な忠臣であり、女性英雄であります。此の信念と此の勇気。権門に屈せず恐れず、自分の皇室絶対尊重の主義を敢然として小説に書いて居る。而もそれは御堂関白も、藤原氏の一門も読んだに違ひありませぬが、面白いからそれに気が附かなかつたのでせうか。そこが又芸術天才としての紫式部の手腕でもあると言へませう。此の信念と此の勇気とがあればこそ五十四帖の宇宙不朽の大芸術を成し遂げたのである。やはり雄々しい大和心の持主でありました。而も表面はあくまでもしとやかな柔和なつゝましい女性として終始した所に日本婦人の典型を見出すのであります。元来平安時代は貴族時代と言はれて居りますが、皇室中心主義の時代である点では、江戸時代の平民文学などとは較べ物にならぬことは御承知の通りであります。皇室の尊貴を心から畏み〈カシコミ〉、大宮に仕へ奉る有難さを感激して居た時代であります。世に男女の物語を取扱つた単なる女流小説家として目せられがちな紫式部にして、なほ且つ此の男まさりの尊い大和心を持つてゐることは怪しむを要せぬと同時に、我等の意を強うせしむるに足るのであります。我等は決して単に古い斯ういふ国文学の佳品に満足して居て宜いと申すのではありませぬ。我等の祖先の此の偉大なる芸術に訓へられ感奮〈カンプン〉せしめられて、神の国日本、武の国日本と共に文の国日本をしても、こゝに新しく世界に宣揚せしめなければならない為に、国民が努力すべきことを、より高き、より傑れた芸術の生れ出ることを、祈るや切であり、其の為に一千年前に斯うした誇を持つ我が国であると云ふことの確信を一層強めたいが故に、思ひを遠き昔の祖先芸術家の上に馳せ〈ハセ〉て、その天才芸術を偲ばうとするのであります。
 終りに臨みまして、明月記の京極中納言定家卿が源氏物語に対して讃した「之を仰げば弥〻〈イヨイヨ〉高く、之を鑽れば〈キレバ〉弥〻堅し」と云ふ古言をそのまゝ、そしてそれに最後に私のした意味の希望念願を籠めて、茲に私の結びの言葉として紫式部の芸術に捧げたいと思ふのであります。〈307~309ページ〉

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紫式部は理論的かつ創作的天才(島津久基)

2024-12-27 01:44:21 | コラムと名言
◎紫式部は理論的かつ創作的天才(島津久基)

『昭和十六年十一月 日本諸学振興委員会研究報告 第十二篇(国語国文学)』(教学局、1942年1月)の紹介を続ける。
 同報告書の末尾には、「公開講演会」における講演の紹介が載っている。順に、五十嵐力(いがらし・ちから)の「文学の味ひ方いろいろ」、島津久基(しまづ・ひさもと)の「紫式部の芸術を憶ふ」、吉沢義則(よしざわ・よしのり)の「古人を尊重せよ」の三本である。
 今回は、このうち、島津久基の「紫式部の芸術を憶ふ」を紹介してみたい。ただし、全文の紹介は断念し、最初の部分と最後の部分を紹介することにしたい。

     紫 式 部 の 芸 術 を 憶 ふ
           文学博士 島 津 久 基

 忝くも〈カタジケナクモ〉順徳上皇の御記〈ギョキ〉に、
  源氏物語は不可説のものなり、更に俗人の所為に非ず、紫式部之を書く、誠に諸道諸芸皆此の一篇に縮る。不可説、未曽有なり。
  〔源氏物語不可説物也。更非俗人之所為。紫式部書之。諸道諸芸皆縮此一篇。不可説未曽有也。(中略)〕
 又其の下の方に、
  人間の所為に非ず、不可説の事なり。
  〔非人間所為。不可説事也云々。〕 
 斯様に〈カヨウニ〉仰せられてあります。不可説と申しますと、よい意味にも、悪い意味にも使はれて居りますが、上皇の御言葉から拝察致しますと、人間の所為ではない、説くべからざるものであると仰せられてあるのでありますから、批評を絶した神品であると宣はせ〈ノタマワセ〉られてあると畏れ〈オソレ〉ながら拝察し奉るのであります。紫式部は定めて地下に感泣致して居ることであらうと私は存ずるのであります。
 今や源氏物語が宇宙最初の大小説として世界の文芸史上に文化日本の誇らしい業績を輝かして居りまする事実についての世界的の認識も着々と拡大しつゝあるやうに存じます。近くは盟邦イタリアの先の大使アウリツチ氏が夕顔巻の翻訳を帰国の手土産にされたと云ふ報道が新聞紙を賑はしたのも耳新しいことであります。又中華民国の碩学、さうして先頃来朝されました周作人〈シュウサクジン〉・銭稲孫〈セン・トウソン〉の諸大家が此の日本の古典文学の輪講を試みて、偉大なる日本の作者に尊崇の念を捧げられつゝあると云ふことも親しく我々の聴き得た所であります。
 順徳上皇の御賞美ばかりでごさいませぬ。皆さん御存じの通り「大和唐土〈モロコシ〉古へ〈イニシエ〉今ゆく先にもたぐふべき書〈フミ〉はあらじとぞ覚ゆる」と申されたのは「玉の小櫛〈タマノオグシ〉」の鈴屋〈スズノヤ〉の大人〈ウシ〉でありました。又「唐土にさへ比べ挙ぐべきはいと稀なるべし」とたゝへたのは「ぬば玉の巻」の上田秋成であります。支那にさへ比べ物のないものである。源氏物語は比ひ〈タグイ〉なき上手の筆である。斯様にあの毒舌家の秋成をしてすら言はせて居るのであります。事改めてこゝで源氏物語の説明を諄々〈クドクド〉しくは申しませぬ。又後世の日本の文芸に与へました感化は如何に深く、如何に大きいか、それも詳しく述べたてるには及ぶまいと存じます。中世の物語は申す迄もなく、軍記物も、和歌も、謡曲も亦近世の西鶴も、近松も、秋成も、芭蕉すらも、又明治の尾崎紅葉、樋口一葉に至る迄皆それぞれ其の流れを汲んで居るのであります。近松の如きは浄瑠璃の死んだ人形に息――魂を入れると云ふ其の神技の骨法を源氏物語から学び得たと言はれて居ります。はつきり源氏物語とは書いてはありませぬけれども、近松が自分の作品の中に矢張りその末摘花〈スエツムハナ〉巻の問題の一節を使つて居りますから、其の言葉が偽りでないと云ふことが想像され得るのであります。
 誠に源氏物語の作者は多才な人であつたと私は考へます。桐壺〈キリツボ〉巻の抒情詩篇が書けて、さうして又帚木〈ハハキギ〉の巻に於ける品定めの評論的小説も書ける人である。夕顔の巻の傑れた妖怪描写の筆を持つて居て、且つ又末摘花のやうなユーモア小説も書ける人である。文芸理論をしかと意識的に把握して居て、さうしてそれを事実の上の創作の世界に於いて示し得て居る驚くべき天才であると申して宜いものと思ひます。理論家と申すものは兎角〈トカク〉創作は下手でありますが、紫式部の場合は言挙げせぬ、日本の国の中に於いて理論もしつかりと摑んでゐて、その上にそれを作品の上に具現して居る、日本的な、驚くべき理論的且つ創作的天才であると思ふのであります。まことに見渡しまして全世界の各国で此の時代に、源氏物語の書かれました時代に、否其の後幾百年もの間にも、源氏に肩を竝べるやうなものを作り出した国があるか、民族があるか、斯う考へましただけでも私共のは躍るのであります。世を挙げて男子の文人達が漢詩、漢文に力を競うたあの時勢に、彼等に負けない漢才を持つて居る上に、男の人達と肩を竝べ得るやうな漢学の才を持つて居る上に、更にやまと言葉を以て、仮名を用ひてやまと文を綴つて、即ち国語、国字を以て国文の創作を敢行して而も其の完璧を為し遂げた其の自覚と信念と力行とは、流石に大和心、大和魂といふことばを意識して用ひて居た当代女流才媛の功勲であります。況んや其の成果が世界各国の文芸をしりへに瞠若〈ドウジャク〉たらしめる旗じるしを、世界のどの民族よりも真先に勇ましく高く掲げ得たに於いてをやであります。其の紫式部は嬉しくも我等日本人の先輩であり、祖先であつたのであります。
 夕顔の巻のあの驚くべき巧まざる巧み、自然の骨法を得た妖怪描写だけでも、私は世界最初の文芸選手としての日本の栄誉を紫式部は贏ち〈カチ〉得て居るものと存じます。剪燈新話〈セントウシンワ〉の成りましたのは明の時代、我が国では吉野朝廷で、それよりも源氏の成つたのは約四百年も早いのであります。ドイツの妖怪詩人と呼ばれるホフマンは十八世紀から十九世紀の頃の人でありました。又アメリカの怪奇作家エドガア・アラン・ポーは御承知の通り十九世紀の人である。紫式部はそれらの人よりも九百年以前の人であります。我が日本の怪談小説として有名な雨月物語も源氏の夕顔の巻が書かれてから七百五十年後に出来たのであります。其の雨月の刊行されました安永五年〔1776〕と云ふ年がホフマンの生れた年であります。斯う考へますとまるでどうも夢のやうな不思議な心持に私は捉はれるのであります。今日は専門の学者の方々も沢山おいでになります代りに、一般の方々や若い生徒の方々も多数居られるやうに見受けますから、最もわかり易いお話を致します為に、例へば作品の独創的な面白い構想と云ふ点で、外国文芸だけに優先権を与へて置けないと云ふことの手近な例を一つ、二つ申上げて見たいと考へるのであります。これなら比較の材料として一番手つとり早いだらうと思ひます。〈294~297ページ〉

 以上が、講演「紫式部の芸術を憶ふ」の冒頭部分である。このあとの約10ページ分を割愛し、明日は、講演の最後の部分を紹介する。

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デアルがヂャとなり、行キアレが行キャレとなる

2024-12-26 02:38:26 | コラムと名言
◎デアルがヂャとなり、行キアレが行キャレとなる

『日本諸学振興委員会研究報告 第十二篇(国語国文学)』(教学局、1942年1月)から、橋本進吉「国語の音節構造と母音の特性」を紹介している。本日は、その五回目(最後)。

 時間が参りましたが、まだ予定の半分あまりしか済みませんが、幸ひ要項が印刷になつてゐますから残りはそれで御覧を願ふことに致したいと思ひます。唯大筋だけを申しますと、母音音節としてはイウエオの五つが古代からあつたのでありますが、平安朝の末から室町末期にかけては、アイウの三つとなり、古代のエ、オは、ye、woとなつてゐたのであります。その中、古代の母音のエ、即ちア行のエは先づヤ行のエと同じ音になり、次にワ行のヱ及び語中語尾のヘから転じたヱと同音になつたのであります。その場合にこれらの音が、ヤ行のヱ即ちyeになつて純粋の母音のエにならなかつたのでありますが、それは何故かといふと、もし母音になるとすれば、語の中及び終りに於いて前の音節の母昔と直ぐ接触することになる。それを避ける為に純粋の母音エにならず、ヤ行のエ(ye)となつたと思はれます。オがwoになつたのも矢張り同様であらうと思ひます。語の中及び終りに於いては母音音節のオは昔からなかつた。ですからア行のオ(o)とワ行のヲ(wo)及びハ行のホから変化したヲが同じ音になつた時、純粋の母音オになるとすれば、語中語尾では前の音節の母音とすぐ接触する事になる。それ故、やはりヲ(wo)の音を保つて居る方が母音の接触を避ける為に都合が好かつたので母音オとならずにwoの音を保存してゐた。それでオとヲの区別が失はれて同一の音になつた場合に、母音の方のオにならないでヲになつたのである。さう云ふ風に考へるのであります。
 所が一方平安朝に於いて語頭以外にイ、ウの音がかなり出ました。是は音便とか、其の他の音変化に依つて非常に多く出来ました。それで語頭以外に母音の音節を使はないと云ふ原則が次第にくづれて行つた訳であります。けれどもそれでは前に述べたやうな傾向が全然滅びて了つたかと云ふと必ずしもさうではないのであります。例へぱ、アウ、カウ、サウと云ふ音が後にオー、コー、ソーと云ふ風に変化しましたが、これはウと云ふ母音が前の母音の後にすぐ附いてゐる。それが為に変化を生じたものと考へられます。エウ、ケウ、セウがヨー、キヨー、シヨーになつたり、エイ、ケイ、セイがエー、ケ一、セーになつたなども同じ傾向の現れであらうと思ひます。それから「附合ふ」がツキヤウになり「絵合せ」がエヤワセになるなどは室町時代から見えてをりますが、これも母音と母音が接触する場合に起つたものであります。
 室町時代まであつた、ye、woの音が今日のやうにずべてエ、オになつたのは是は江戸時代だと思ひます。この時分から母音音節は現代のやうにアイウエオの五つになり、その上語頭ばかりでなくて、それ以外の場所にも自由に用ひられる事になつたのであります。さうして昔は二つの母音が接触して現れる場合には一方がなくなつたのでありますけれども、後になつて拗音が出来てからは、母音を省かず、一方の母音を子音化して拗音にする事が起つたのであります。例へば「デアル」が「ヂヤ」となりました。もつと古い時代ならば「ダ」となつたでせう。それがヂヤとなつて、デの母音eが子音化してyとなつて残つた訳であります。「行キアレ」が「行キャレ」となりましたが、昔なら「ユカレ」となつたでせうが、「行キャレ」となつたところに時代の違ひが見られます。しかし母音の接触した場合にその母音に変化が起り易いと云ふ傾向が見られる事は同様であます。
 斯う云ふ傾向は余程由来久しいものでありまして、国語の母音は語頭以外では独立した音節としてほ存立しにくいといふ性質があるのであります。此の性質は時代が下ると共に次第に失はれて行つたとは言ふものの、尚根本の傾向としては全然なくなると云ふことはなく、各時代の音変化の上に色々の形で現れてゐるのであつて、かなり根強いものがあると言つて宜いのであります。甚だ意を尽しませんでしたが、是だけにして置きます。〈167~169ページ〉

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荒海がアルミ、国内がクヌチ、我が妹がワギモになる

2024-12-25 00:03:56 | コラムと名言
◎荒海がアルミ、国内がクヌチ、我が妹がワギモになる

『日本諸学振興委員会研究報告 第十二篇(国語国文学)』(教学局、1942年1月)から、橋本進吉「国語の音節構造と母音の特性」を紹介している。本日は、その四回目。

 第二の特質は語頭に母音音節を持つて居る言葉が他の言葉の後に結びついて複合語を作る場合とか、又他の語の後について所謂連語を作る場合に其の語頭の母音音節が全然なくなつて落ちて了ふか、或は其の直ぐ前の音節の中の母音が落ちて了ふかすることが多いのであります。是は実列を挙げれば直ぐ御分りになると思ひます。例へば「妹【イモ】が家【イヘ】」がイモガヘ「龍【タツ】の馬【ウマ】」がタツノマ、「離れ磯」がハナレソ、「荒磯【アライソ】」がアリソ、「河内【カハウチ】」がカウチ、「荒海【アラウミ】」がアルミ、「国内【クニウチ】」がクヌチ、「我【ワ】が妹【イモ】」がワギモ、「ズアリ」が、ザリになつたり、何々「トイフ」がトフ又はチフ、其の外「ニアリ」がナり、皆さうであります。是は矢張り一続きにきらずに発音する音即ち音結合体の中に於いて二つの母音が相〈アイ〉接触して現れる場合に其のどちらかが一つ落ちて了つて、接触することを避けるのでありまして、矢張り母音音節が語頭以外に用ひられないと云ふのと同じ傾向の現れであります。若し言葉の中へ母音だけの音節が来れば、其の前の符節が母音で終つて居りますから、母音と母音と接触します。さう云ふことを避ける為に言葉の中、或は終りには用ひないと云ふ風になつて居つたと思ひます。今のやうなことは有らゆる場合に行はれて居るものではありませぬけれども、古代語に於いては屡々現れて居る現象でありまして、古い時代に行く程著しいのであります。 
 それから母音音節の第三の特異性と云ふものは、歌の字余りの句に於いて見られるのであります。字余りの句には母音音節があるのが原則であります。是は本居宣長が自分が初めて見出したんだと言つて居りますが、字余りの句の中に母音の音節があると言ふのも、其の句の一番初めに母音の音節が現れるのではないのでありまして、矢張り中の方に現れる。詰り母音音節で始まる言葉が他の言葉の後に来て一つの句が出来て居る場合であります。従つて母音音節は句の最初には現れないで其の中に現れて来るのであります。此の歌の一句と云ふものは普通これを詠ずる場合には、ずつと続けて発音するのでありますから、其の母音音節は、直ぐ前の語の最後の音節の母音と直接に接触して現れるのでありまして、前に挙げました、二つの語が結合した時に二つの母音の中の一つが落ちる場合と丁度同じやうな条件の下にあるのであります。富士谷成章〈フジタニ・ナリアキラ〉は、かやうな場合には、二つの音節を反切〈ハンセツ〉して一音節にするのだといつて居ります。例へば「月やあらぬ」は「月ヤラヌ」、「さもあらばあれ」、は「サマラバレ」とよむのだといふのであります。もしさうならば、前に挙げました場合と全然同一になります。しかし、その説の当否はまだ明らかでありませんが、兎に角、歌の句が六音或は八音になつてゐても、五音又は七音と同等に取扱はれたと云ふことは、結局母音音節が音結合体の中程にあつては一つの音節としての十分の重みを持つて居なかつたと云ふことを示すものであります。
 古代国語に於ける母音音節は以上述べましたやうな色々な特異性を持つて居るのでありますが、是は結局国語に於ける母音の特性から来て居るものと思はれるのであります。即ち母音ほ子音と結合して初めて、しつかりした確かな音節を作るものであつて、それ自身だけでは十分確かな音節を作る力に乏しいと云ふ傾向があつたと思ひます。母音だけの音節は、音結合体の最初にあつて、其の前に他の音がない場合には、立派に独立した音節を作りますが、直ぐ其の前に他の音節があつて、其の音節を作る母音と接触すると云ふやうな場合には、実に不安定な状態にあつて、全く脱落して了ふか、さもなければ、其の直ぐ前にある音節の持つて居る子音を結合して新な音節を作り易いと云ふやうな性質を持つて居つたと考へられるのであります。
 以上の外にもう一つ古代語に於ける母音音節の性質を知るべき事実があると考へられます。それは漢字音の場合であります。aiとか、auとか、euと云ふやうなi uで終る漢字音は、我国ではアイ、アウ、エウとなつてをりますが、その終のイ、ウが古くエ、オに変つて居るのがあります。アイがアエ、アウがアオ、エウがエオとなる、さう云ふものがいくらかあります。ところが、そのエオは純粋の母音である筈ですけれども、実際は母音になつて居ない。ア行のエの代りにヤ行のエに当る仮名が書いてあり又ア行のオの代りにワ行のヲに当る仮名が書いてあります。万葉集の中に雙六〈スゴロク〉の「采」が「佐叡【サエ】」とあり、弘法大師の書いた物の中に「佩」の字音が「波江【ハエ】」となつて居ります。又「昊」の音を「カ乎【ヲ】」、「襖子」を「阿乎之【アヲシ】」、「芭蕉」を「波世乎波【ハセヲバ】」、「簫」を「世乎乃不江【セヲノフエ】」と書いてあります。是は結局支那の音から言へば純粋の母音であるべきですが、矢張り前の母音との接触を避ける為にその前に子音yやwを入れれたのだらうと思ひます。かやうにして初めてそれが安定した音節になつたのだらうと考へます。それでは漢字音の場合に、イとウとは、アイとかアウとかエウのやうに、母音音節のまゝであるのはどうかと言ひますと、それはイ、ウに極めて発音の似た音節で、その前に子音を持つて居る音節がなかつたからでありませう。勿論イに対してヤ行のイがありウに対してワ行のウがありますが、これらは、古くからア行のイ、ウと区別せられて居なかつたのであります。それ故、かやうな音を利用すると云ふ訳に行かなかつたから、それでさうなつたと思ひます。〈164~167ページ〉【以下、次回】

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  • どうしても気になった片岡良一の文章
  • 除夜の鐘が鳴らなかった昭和18年の大晦日
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