礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

どうしても気になった片岡良一の文章

2024-12-20 00:37:24 | コラムと名言
◎どうしても気になった片岡良一の文章

 一昨日、〝志賀直哉「清兵衛と瓢箪」の読み方〟という記事を書き、そこで、片岡良一著『近代日本文学教室』(旺文社、1956)にあった文章を引用した。
 引用しながら、どうしても気になった箇所があった。

 ところが、清兵衛が教室でみがいているのを怒ってとりあげた先生が捨てるように小使にやってしまった瓢箪は、もともとただの十銭で清兵衛が町の小店から買ったものであったのに、小使から先生の月給四カ月分に相当する値段(五十円)で買い取った骨董屋の手で、六百円というさらに高い値段で地方の豪家に売られていた、ということが書いてある。

 この部分である。文章がよくない。センテンスが長すぎる。「清兵衛と瓢箪」を読んだことのある人なら、意味は理解できるかもしれないが、読んだことがない人には、意味は通じないだろう。僭越ながら、添削を試みた。

 ところが、清兵衛が教室でみがいていた瓢箪は、もともと、清兵衛が町の小店から、ただの十銭で買ったものであった。清兵衛が教室で瓢箪をみがいていたのを見た先生は、怒ってそれを取りりあげ、捨てるように小使にやってしまった。骨董屋は、小使からそれを五十円で買い取ったが、その値段は、先生の月給四カ月分に相当するものだった。その瓢箪は骨董屋の手で、地方の豪家に、六百円というさらに高い値段で売られた、ということが書いてある。

 センテンスが、四つになってしまった。せめて三つぐらいにしたかったところである。

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志賀自身の、父との確執が投影されている

2024-12-19 04:17:01 | コラムと名言
◎志賀自身の、父との確執が投影されている

 昨日の話の続きである。
 今日、ウィキペディアには「清兵衛と瓢箪」という項があり、そこには、次のようなことが書かれている。

『清兵衛と瓢箪』(せいべえとひょうたん)は、志賀直哉の短編小説。1913年(大正2年)『読売新聞』に発表された。瓢箪をこよなく愛する少年と、その価値観が分からない大人達の作品である。ユーモラスな筆致の作品ながら、志賀自身の父との確執が投影されている。

 同作品の初出は、『読売新聞』1913年1月1日号で、その後、『大津順吉』(新潮社、1917年6月)に収録されたという情報も得られる。
さらに、「あらすじ」、「登場人物」、そして「季節」まで紹介されている。
 最後に、「作品解説」という見出しがあって、そこには、こうある。

作品の主題は「大人は自分の価値観でしかものを判断できず、子供の個性を抑圧する。しかしおさえつけられても子供はその個性をまた別のところで伸ばしていく」というところにあるといわれ、ほかの志賀の初期作品同様父子の対立が根底にある。また志賀本人が尾道にいたころ船の中で訊いた話が題材となっており、志賀の経験が多分に含まれている作品でもある。

 こういう便利なものがある以上、今日の中学生たち、高校生たちは、国語の教科書で「清兵衛と瓢箪」という作品に接しても、そこに何が読みとれるのか考える必要はない。この作品の意味するところは、ウィキペディアに「正解」を教えてくれるからである。

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志賀直哉「清兵衛と瓢箪」の読み方

2024-12-18 02:18:27 | コラムと名言
◎志賀直哉「清兵衛と瓢箪」の読み方

 志賀直哉の短編「清兵衛と瓢箪」は、中学時代もしくは高校時代に、国語の教科書で楽しく読んだ記憶がある。しかし、この作品の「意味」については、これまで考えたことがなかった。
 数日前、たまたま片岡良一著『近代日本文学教室』(旺文社、1956)を手に取ったところ、「清兵衛と瓢箪」という作品について解説している箇所があった。
 以下は、同書153~155ページからの引用である。

     人情主義への後退
       戦うものの不安と恐れ
 はげしいたたかいの意気ごみを示した志賀直哉は、同時にたたかいの勝利をも空想する人でもあった。「清兵衛と瓢箪」(大正二年)という作品がある。清兵衛という十二歳の少年が瓢箪いじりに夢中になっていたのに、父と学校の先生がそれを禁じてしまったので、清兵術もやむなくそれをあきらめて絵を書くようになったが、父はそれをも止めようとしはじめた。ところが、清兵衛が教室でみがいているのを怒ってとりあげた先生が捨てるように小使〈コズカイ〉にやってしまった瓢箪は、もともとただの十銭で清兵衛が町の小店から買ったものであったのに、小使から先生の月給四カ月分に相当する値段(五十円)で買い取った骨董屋の手で、六百円というさらに高い値段で地方の豪家〈ゴウカ〉に売られていた、ということが書いてある。
 作者自身が書いているところによれば、これは作者の小説を書くことに反対していた父にする反抗から生れた作品だった。だから「瓢箪いじり」は「小説を書く」とか「文学に携わる」とかいう意味を持つことになり、作品全体としては個性的な道をふさごうとするものに対するたたかいの文学であったことになる。作品では父ばかりでなく先生(即ち学校)までが清兵衛をおさえているのだから、梗塞【こうそく】の壁は二重の厚さにされているわけだ。それに圧【お】されて、清兵衛は「青くなって」瓢箪いじりをあきらめてしまわねばならぬのだが、それにもかかわらず、この対立は一応は清兵衛の勝利に終ったことになっている。
 清兵衛のみがきあげた瓢箪は、見る人が見れば六百円にもなるほどの、高い価値を持つものだった。それの全然わからなかった父や先生が、きわめて愚劣な道化人形あつかいされているのである。先生の月給四カ月分に当る五十円を、手に入れてほくそえんだ小使さえ、その小ざかしさをあざ笑われているのである。わずか十銭の瓢箪の中にそれほどの価値を見つけて、それをみごとにみがき出した清兵衛の才能が、それだけ高く評価されているのである。だから彼は小さいくせに自信にみちている。瓢箪いじりの頭から嫌いであった先生とちがって、父は元来瓢箪に趣味を持つ男だった。ただその美しさを十分に見わける力がなく、「大きい」といって感心したり、すばらしく「長い」といって驚嘆したりする以上の鑑賞力を持たなかった。そういう父と同好のお客が清兵衡の瓢箪をひやかした時、清兵衛はすまして「かういふがええんじゃ」と答えている。その自信にみちたようすに、いかにも強く人間(自分)の力を信じた白樺派の人物らしいすがたがあった。
 が、それほどの自信にみち、それほどの輝かしい勝利を描いたこの作の世界を、もう一度しさい〔仔細〕に観察すると、その底にほのかな不安の漂っているのが感じられる。「青くなって」瓢箪いじりをあきらめた清兵衛は、絵をかくことに新しい生きがいを感じはじめたが、彼の父はまたそのことにも「叱言【こごと】を言ひ出して来た」という。そうして絵からもしめ出されてしまった、その後で、また演劇からも、さらに次には音楽からも、というようにだんだんに追い出され、追いつめられて行ったら、結局清兵衛は手も足も出しようのない梗塞の中で空【むな】しくため息でもついているよりほか仕方がなくなるのではないか。「彼の父はもうそろそろ彼の絵を描く事にも叱言を言ひ出して来た」という一句を最後に添えたことが、こうして一方では清兵衛の輝かしい勝利をかいた作品の奥に、ほのかな不安と一筋の恐れとをただよわせることになっているのである。

 これを読んだ私は、ハタと膝を打った。「清兵衛と瓢箪」は、そういう作品だったのか、と思った。できれば、当時、教室の中で、この作品の意味するところに気づきたかったと思った。自分では気づけなかったとしても、担当の教師から、解説してもらいたかったと思った。【この話、続く】

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対敵情報部のキャノン中佐が、車の助手席にいた

2024-12-17 00:01:30 | コラムと名言
◎対敵情報部のキャノン中佐が、車の助手席にいた

 大森実『日本はなぜ戦争に二度負けたか』(中央公論社、1998)から、「国鉄総裁下山事件のミステリー Ⅱ」を紹介している。本日は、その五回目(最後)。昨日、紹介したところのあと、一行アキがあって、そのあと次のように続く。

 鹿地亘(本名、瀬口貢)は、東大卒業後、小林多喜二(留置場で殺害された)の薦めで、共産党に入党、「戦旗」編集長をしていたが、魯迅に憧れて上海に渡り、内山書店主、内山完造の家に身を寄せた。魯迅の死後、上海は戦火に見舞われ、魯迅の未亡人宅に匿われたが、孫文未亡人の宋慶齢の手引きで、香港を経由して重慶に入った。
 延安にいた野坂参三と連絡を取って、日本人反戦連盟の活動家として、華中戦区で反戦活動をやった。終戦後、彼が帰国したときは野坂に劣らぬ英雄扱いを受けて、作家活動を再開した。
 鹿地がメディアから姿を消したのは、彼が肺結核にかかり、国立淸瀬療養所で肋骨七本を切除する胸郭成形手術を受けたからであった。
 鵠沼〈クゲヌマ〉の友人の別荘を借りて療餐中のことだった。彼が散歩に出たとき、近づいてきた一台の自動車が彼の真横で停まると、車内から飛び出してきた緑の軍服を着た二人の米軍人が、鹿地の腹にブラック・ジャックらしき凶器で一撃を加えて車内に押しこんだ。車の助手席にいたのが、対敵情報部特殊工作隊のキャノン中佐であった。
 鹿地がハイジャックされた先は、渋谷代官山にあった大理石と豪華な絨毯の旧五島慶太邸で、ここでアメリカのスパイになれとする拷問が始まった。キャノン中佐は、「結核は治してやるが、お前を痛めつける方法はある。薬でやるんだ」と脅かした。
 キャノン機関は、本郷の旧財閥・岩崎邸や東横線・新丸子の東京銀行社員クラブなどを徴発して秘密拠点にしていた。朝鮮戦争が始まっていたので、そこには朝鮮の前線から連れてこられた中国兵や北朝鮮軍兵士が収容されていた。
 彼らはキャノン機関によって特殊訓練が施され、訓練が完了すると、沖縄の知念にあった秘密基地(鹿地もそこに送られた)から米軍輸送機で北朝鮮の奥地に パラシュート降下されていた。後方攪乱作戦であった。
 山田善次郎証言によると、鹿地がハイジャックされてここに連れてこられる前、関東軍元参謀と朝鮮人と、日本人青年がハイジャックされてきたそうで、関東軍元参謀はスパイになれと拷問されて首を吊り、朝鮮人は発狂し、青年だけがキャノン中佐の麻薬の運び屋になったという。
 鹿地の衰弱がひどく、拷問に耐えきれなくなったのは、東銀クラブの「東川ハウス」と呼ばれた収容所であった。彼は娘に宛てた遺書を書いて、ベルトをシャンデリアにかけて首を吊ったが、シャンデリアが落ちたため果たせず、部屋にあったクレゾール液を飲んだ。
 からだ中にどす黒い汚物をつけて、便器に顔を突っこむようにして、フイゴが鳴るようにぜーぜー苦しんでいた、瀕死の鹿地を助けたのは、キャノン邸住み込みコックで、キャノンの命で東川ハウスに応援に来ていた山田善次郎青年であった。
 山田は鹿地が回復するのを待って、鹿地から託された手紙を持って、神田の内山書店に駆けこみ、社会党の国会議員、猪俣浩三〈イノマタ・コウゾウ〉を通じて、国会で問題化してもらうことに成功した。沖縄の知念基地で殺される寸前、鹿地はキャノン機関によって東京に連れ戻されて、神宮外苑の路上に放り出される。
 鹿地ハイジャック事件は、講和成立後に起こった事件であった。
 山田善次郎は私にこう語った。
「本郷の旧岩崎邸は本郷ハウスと呼ばれていましたが、田中栄一警視総監や斎藤昇国譬〔国家地方警察本部〕長官、内閣調査室長〔内閣総理大臣官房調査室長〕の村井順さんなどがよく来ていました。キャノンは彼らを呼びつけておいて長いこと待たせ、歯ブラシをくわえて出てくる。いちばんよく来たのは、児玉機関の吉田彦太郎(前出、洋上会談に向かう近衛〔文麿〕首相暗殺のため、横浜・六号橋鉄橋に時限爆弹を仕掛けようとした)でしたね。
 キャノンは、麻薬中毒者で、ガンキチでした。砲弾の薬莢〈ヤッキョウ〉で造った灰皿を壁に立ててビストルを撃ちまくる。カラスが飛んできてもライフルで撃ち落とす。猫の首を摑んで絨毯の上を引きずり回して、猫の敵愾心〈テキガイシン〉を訓練する。ブラック・ジャックはキャノン機関の全員が持っていました。三十センチくらいの一枚革でできていますが、握りは細くてよく撓り〈シナリ〉、先の革の中には鉛の散弾が入っています。あれで叩かれると唸り声というより、うめき声を上げて失神します。
 日時を明確に記憶していないのが残念ですが、下山事件が起こったころでした。工兵が着るような作業着姿のキャノンが、横浜CIC(対敵情報部)のエイブラハム少佐と数名の工作隊員と一緒にジープで帰宅してきました。雨が降た朝だったことは憶えています」
 私は何度もこの朝の日時を思い出させようとしたのだが、山田善次郎の記憶は蘇ってこなかった。
 その後、キャノンをインタビューしようと考え、国防省にアドレスを調べてもらったところ、キャノンは帰国後、軍法会議にかかり、年金(軍人恩給)が一時停止になっていたことを知った。年金支給は復活したそうだが、受取り先はテキサスの郵便局のメイルボックスになっており、接触しようがなかった。〈258~261ページ〉

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五反野駅で萩原詮秋駅員に末広旅館を教えられた

2024-12-16 02:17:06 | コラムと名言
◎五反野駅で萩原詮秋駅員に末広旅館を教えられた

 大森実『日本はなぜ戦争に二度負けたか』(中央公論社、1998)から、「国鉄総裁下山事件のミステリー Ⅱ」を紹介している。本日は、その四回目。

 下山総裁は、生きた人間として七月五日午後一時四十分過ぎから夕方まで、五反野の末広旅館で休憩し、堤防付近のカラス麦が生い茂る草叢〈クサムラ〉を放浪していた、と私は信じる。
 そして、D51651機関車に轢断された六日午前零時過ぎから逆算して、東大法医学教室の推定死亡時間の午後九時ないし十時ごろに誰かに殺害された、他殺説はそういうことになろう。
 となると、大津秘書が目撃した「車中の下山総裁」が、どこか都内の某ビル内で殴打されて、血を抜かれて五反野に運ばれたとする線には矛盾が出てくるので、そうではなくて、都内某所で誰かと会わされた後、いったん釈放されて、自分で電車に乗り、東武線五反野駅に午後一時四十三分に着いた。駅員の萩原詮秋に末広旅館を教えられて、同旅館で休憩し、主婦・山崎タケが目撃した夕方六時四十分ごろ、草叢の中でカラス麦をいじくりながら、堤防を下りて行ったことになるだろう。
 それから、推定死亡時間まで二時間ないし三時間の空白があって、その空白時間内に下腹部に強烈な打撃を受けて殺された。では殺害集団はなぜ血を抜いたか、また同じ疑問が出る。血を抜くと生活反応が出なくなるので、科学捜査でいずれ解明されることを考慮に入れると、「偽装自殺」というプロットは成立しなくなる。
 私は頭を抱えてしまうのであるが、もし、下山総裁の殺害者が占領軍の誰かであったと仮定するとして、あえて私が推理をするとすれば、次のようなストーリーを組み立て得るかもしれない。
【一行アキ】
 大津正秘書が、自民党本部付近ですれ違った車に乗っていた下山総裁を囲んでいた三人は、共産党の国鉄労組フラクションではなかったか。下山総裁は、その朝、「佐藤さんに会うんだ」と言ったそうだが、三越百貨店内で国鉄労組の誰かと会う約束があったと推定する。三越では話し合いができないので、彼らの車でどこかへ行った。これは秘密を要したので、大西運転手は待ちぼうけにされた。
 二・一ゼネスト前の四六年九月闘争のときも、国鉄は七万五千人の首切り通告を出していた。国鉄労組は宇治山田で臨時大会を開き、ゼネスト体制に入ろうとしたが、切り崩され、このとき東京に帰った共闘〔全官公庁労組拡大共同闘争委員会〕議長の伊井弥四郎が、産別〔全日本産業別労働組合会議〕の聴濤克巳〈キクナミ・カツミ〉や共産党の徳田球一〈トクダ・キュウイチ〉、伊藤律〈イトウ・リツ〉などに吊るし上げられた「擂り鉢事件」を私は思い出す。
 原宿駅近くのある道場内で、青年行動隊に囲まれた伊井弥四郎が、擂り鉢の底に座らされた形になって吊るし上げられたというケースだ。
 あの「擂り鉢事件」のとき、国鉄労組は再びスト突入の構えを見せたが、ここで七万五千人首切りを突然撤回したのが、当時、鉄道総局長だった佐藤栄作であった。
 志賀義雄は、私とのインタビューで、「あれは全く不思議な佐藤君の撤回だったが、徳田球一や私はGHQを甘く見て、二・一ゼネストもいけると読んだ」と語っていた。
 下山総裁が、擂り鉢型の道場の密会ではないにしても、共産党首脳部やフラクションに囲まれて、少なくとも三万七百人の解雇通告の撤回を迫られたとしよう。彼はこれを佐藤栄作に電話報告できたが、下山はそれをしなかった。
 下山は回答の時間と場所を指定されていたが、それが五反野付近であったか、あるいは思案にくれて五反野を彷徨した。その間、占領軍側にこのディールの事実を通報したスパイがいたことも推理できないことはない。
 密告がなかった、としても尾行されていた可能性だって否定できまい。推理ではあるが、そこで首切り通告を撤回させてはならないとして、急遽、下山総裁殺害プロットができた、とすると、五反野付近で、下山総裁をハイジャックし、急所を殴打し、さらに死を確定するため血を抜く。注射器を使ったか、頸動脈を切ったか。それで国鉄労組と共産党に殺害容疑をかぶせる、というよりは下山と国鉄を結びつけてレール上に死体を横たえた。
 私はスリラー作家ではないので、こんな推理しかできないが、関連したケース・スタディとして、私が取材した「鹿地亘ハイジャック事件」(下山事件より二年半後に発生)を、被害者の鹿地亘〈カジ・ワタル〉と、鹿地を救出したキャノン機関の住みこみコック、山田善次郎のインタビューに基づいて考えてみることにしたい。〈253~258ページ〉

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  • 本書はアクセント辞典の役にも立つ(平山輝男)
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