礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

百済王禅興、善光寺に閻浮檀金の仏体を安置

2018-11-22 01:30:27 | コラムと名言

◎百済王禅興、善光寺に閻浮檀金の仏体を安置

 雑誌『郷土研究』第二巻一号および二号(一九一四年一月、二月)から、中山太郎の論文「百済王族の郷土と其伝説」を紹介している。
 本日は、その五回目。昨日、紹介した箇所のあと、次のように続く。
 
▲百済王の侍臣三十六氏と善光寺如来  余善〔与次郎〕氏云ふ。百済王に随つて彼国〈カノクニ〉から来た侍臣【じしん】は合計三十六氏ださうです。其の中でも余氏と云ふ私の先祖が兄株【あにかぶ】で、年代は判然しませぬが何でも孝謙帝の天平勝宝〈テンピョウショウホウ〉六年〔西暦七五四〕八月八日に太皇太后〈タイコウタイゴウ〉藤原宮子娘〈フジワラノミヤコイラツメ〉の御菩提【おんぼだい】のために法華経百部と梵網経【ぼんもうきやう】百部とを写経した。其の筆者のうちの余乙虫【よのおとむし】、余法孝【よのはうかう】と云ふのが、先祖から何代目とあります位ですから、途方もなく古いのでせう。三十六氏のうち今では三四軒しか此村には残つてゐませぬが、墓地だけは大昔のまゝ三十六家、チヤンと保存せられてゐます。御殿山(惟喬〈コレタカ〉親王の宮趾)から渚の院(同上)へ行く田圃【たんぼ】中に点在してゐるのがそれであります。徳川家御盛【ごさかん】の頃は此の村は近江の信楽【しがらき】代官の支配であつたが、此処【こゝ】と信楽とは二三十里も隔つてゐて万事に不便だからと上役人【うはやくにん】に願つたところ、何でも信楽と此の村とは同類の百済人だと云ふことで其のまゝ泣寝入り、それでも村内では三十六氏と云へば巾利【はゞき】きの草分け百姓、産土【うぶすな】の百済王神社の祭礼の時には四【し】の間【ま】と云ふて拝殿に四つ座敷があるが、その座敷一間【ひとま】に九人づゝ詰めてゐたもので、神主でも此の氏子だけには一目【いちもく】置いたものだ。名主【なぬし】とか組頭【くみがしら】とか云ふ役柄【やくがら】のことも三十六軒で廻り持で、私も明治になつてから村長を八年勤めました。それに信州の善光寺如来は、本多善光【ほんだよしみつ】と云ふ人が仏像を拾つて堂を建立したと世間では伝へてゐるが、此村の口碑には、其善光は、百済王の禅興――一に善光にも作る人が、本国から持つて来た閻浮檀金【えんふだごん】の仏体を安置したものだと云つてゐる。…………その禅興が、何がために信州くんだりまで出かけたと云ふのが、それは此村では理解のできる人はあんめいよ。【以下、次回】

 文献派民俗学者として知られる中山太郎であるが、この論文では、フィールドワークや聴き取り調査をおこなっている。
 上で引用した部分は、その全文が、聴き取りを起こしたものになっている。聴き取りの対象は、「百済王の侍臣として韓国から来りしと云ふ余氏の後裔」を自称する余善与次郎〈ヨゼン・ヨジロウ〉氏である。聴き取りをおこなった場所(余善氏のいう「此処」)についての記載はないが、「御殿山」、「渚の院」といった名称から、大阪北河内の交野〈カタノ〉であったと推定される。当時の北河内郡交野村、今日の交野市である。

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