◎山折哲雄著『日本の「宗教」はどこへいくのか』について
鵜崎巨石氏の書評ブログが、昨年最後に採り上げたのは、山折哲雄氏の『日本の「宗教」はどこへいくのか』(角川選書497、二〇一二)であった。鵜崎氏の書評を読み、この本は、一度手にしてみなければと思っていたが、昨日、図書館から借り出し、本日までに何とか読み終えることができた。
目利きの鵜崎氏が高く評価されているだけあって、興味深く、また有益な本であった。しかし、率直な感想を言えば、鵜崎巨石さんの書評はすばらしいものだったが、山折氏の本そのものは、「それほどでもないのでは」という印象であった。
ここで鵜崎さんの書評を引用することはしないが、同書のポイントをことごとく衝いている理路整然とした書評である。ところが、山折氏の本そのものは、必ずしも理路整然としておらず、ポイントがつかみにくい。読んでいて、発想が飛躍しているところ、説明不足なところ、妙に引っかかるところが、いくつもあった。鵜崎さんの書評というすぐれたガイドがなければ、おそらく私は、この本を最後まで読み通すことはできなかったと思う。
ある本に対するの書評が、その本自体を凌駕するということがある。かつて私は、『働かないアリに意義がある』に対する鵜崎氏の書評について、「対象の本を超えて、スゴイ」と述べたことがある(昨年一一月一七日)。山折氏の『日本の「宗教」はどこへいくのか』という本とその書評についても、同様のことが言えるだろう。
少し、山折氏の『日本の「宗教」はどこへいくのか』の中味に触れてみたい。この本を読んで、もっとも勉強になったのは、「15 中世の権門体制を支えたイデオロギー」の章である。ここで山折氏は、黒田俊雄著『日本中世の国家と宗教』(岩波書店、一九七五)を内容をコンパクトに紹介する。私は、この黒田氏の本を読んだことはないが、この紹介を読んで、その内容がつかめたような気がした。この紹介は、見事である。しかし、スゴイと思ったのは、そこではない。その章の最後で、「この黒田説にもあの鎌倉仏教=宗教改革の論が潜在していたということではないか」とさりげなく指摘していることである。この一言によって、山折氏は、このあとみずからが展開しようとしている仮説に、黒田説を取り込んでゆける、という自信を漂わせるわけである。
一方で、その前の章「14 漱石・啄木の『心』に流れる道元・世阿弥の『心』」は、立論に無理があるように思った。著者の教養が多岐にわたっており、その発想が柔軟であることは、よくわかる。しかし、こうした立論に読者をつきあわせるのであれば、その立論の「必然性」を、もう少しキチンと説明しておくべきであろう。
なお、これは蛇足であるが、山折哲雄氏が、黒田俊雄氏の著作を的確に要説しているところを読んで、ちょっと鵜崎巨石氏の書評を連想してしまった。鵜崎巨石氏は、その「資質」において、山折哲雄氏に通ずるものがあるのではないか。鵜崎氏には、ぜひ、山折哲雄氏を凌駕する文明論、宗教論、日本人論を期待したいと感じた次第である。
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