◎主張に少し極端な点がないわけではないが
文部省普通学務局から出た『独逸国民に告ぐ』を閲覧してみた。その扉には、次のようにある。
(時局に関する教育資料特別輯 第三)
フィヒテ述
独 逸 国 民 に 告 ぐ
文 部 省
奥付を見ると、「大正六年十月十七日印刷/大正六年十月二十日発行/文部省」とある。岩波文庫版『ドイツ国民に告ぐ』の凡例には、「大正六年九月」に上梓されたとあったが、届け出上は「大正六年十月」の上梓で、実際には「大正六年九月」に上梓されたのだろうか。
扉をめくったところに、「フイヒテ小伝」がある。この一文は、岩波文庫版『ドイツ国民に告ぐ』の10ページにある「フィヒテ小伝」と同じである。
そのあとに、フィヒテの「肖像」がある。キャプションはなし。
続いて、「凡例」がある。以下の通り。
凡 例
一、本輯は、一八〇七年の末より八年の初頭に亘りフィヒテが伯林大学に於て学者教育者その他愛国の士を集めて行へる講演「独逸国民に告ぐ」Reden an die deutsche Nation を翻訳せるものなり。この講演は実にフィヒテの熱列なる愛国心とその勇気とを証明せるものにして、当時伯林は仏軍の蹂躙する所となり、フィヒテの講演は幾度か仏軍の太鼓の響に妨げられたりと云ふ。
一、フィヒテはこの講演に於て独逸国民が道徳の要素に於て欠くる所あるを摘発し、之を根柢より救済せんとせり。即ちフィヒテは全欧洲の国民が挙つて道徳的に堕落の頂点に達せるを痛感し、当時の状態を批評して最も完備せる罪悪の社会なりとし、極端なる利己主義流行の時代なりと云へり。是に於てその国民を道徳的堕落より救済せんが為め国民教育を根柢より改良し、倫理的新時代を作らざるべからずと主張せり。フィヒテによれば、この道徳的革新は世界的問題なると同時に、独逸の民族的問題にして、その目的は人類に鞏固にして善良なる意志を養成するにあり。故に教育は須らく具案的、方法的ならざるべからず。精神の純潔は思考の明晰を予想す。故に認識の明晰により純良なる意思を鍛錬するを得。フィヒテはペスタロツチが児童教化の理想的方法に基礎を与へたることを称揚し、その主義を採り之に自己の理想を加へ以て此の論をなせり。
一、フィヒテが教育史上に於ける意義は、汎愛主義及び人文主義の曖昧なる理想を棄てて、強健なる人間の陶冶を説き、国民的教育の精神を鼓吹せるにあり。而してその主張に幾分極端なる点無きに非ずと雖も、よく時勢を洞察し、国民の覚醒を、促したる所、今日の我社会に対して参考となるべきもの尠からざるきを思ひ茲に之を訳出し「時局に関する教育資料」特別輯として上梓することゝせり。
大正六年九月 文部省普通学務局
凡例は全三項からなる。署名は「文部省普通学務局」となっているが、実際は、訳者の大津康によって執筆されたものであろう。なお、この文部省版では、訳者・大津康の名前は紹介されていない。
さて、この文部省版の凡例だが、岩波文庫版『ドイツ国民に告ぐ』にある凡例の最初の三項と、文体・用字などが違っているものの、基本的には同一だと言ってよかろう。ただし、文部省版の第三項中にあった「その主張に幾分極端なる点無きに非ずと雖も」(その主張に少し極端な点がないわけではないが)というコメントは、岩波文庫版『ドイツ国民に告ぐ』の第三項では削ら去られている。なお、岩波文庫初版『独逸国民に告ぐ』の凡例は、残念ながら、まだ参照できていない。【この話、さらに続く】
文部省普通学務局から出た『独逸国民に告ぐ』を閲覧してみた。その扉には、次のようにある。
(時局に関する教育資料特別輯 第三)
フィヒテ述
独 逸 国 民 に 告 ぐ
文 部 省
奥付を見ると、「大正六年十月十七日印刷/大正六年十月二十日発行/文部省」とある。岩波文庫版『ドイツ国民に告ぐ』の凡例には、「大正六年九月」に上梓されたとあったが、届け出上は「大正六年十月」の上梓で、実際には「大正六年九月」に上梓されたのだろうか。
扉をめくったところに、「フイヒテ小伝」がある。この一文は、岩波文庫版『ドイツ国民に告ぐ』の10ページにある「フィヒテ小伝」と同じである。
そのあとに、フィヒテの「肖像」がある。キャプションはなし。
続いて、「凡例」がある。以下の通り。
凡 例
一、本輯は、一八〇七年の末より八年の初頭に亘りフィヒテが伯林大学に於て学者教育者その他愛国の士を集めて行へる講演「独逸国民に告ぐ」Reden an die deutsche Nation を翻訳せるものなり。この講演は実にフィヒテの熱列なる愛国心とその勇気とを証明せるものにして、当時伯林は仏軍の蹂躙する所となり、フィヒテの講演は幾度か仏軍の太鼓の響に妨げられたりと云ふ。
一、フィヒテはこの講演に於て独逸国民が道徳の要素に於て欠くる所あるを摘発し、之を根柢より救済せんとせり。即ちフィヒテは全欧洲の国民が挙つて道徳的に堕落の頂点に達せるを痛感し、当時の状態を批評して最も完備せる罪悪の社会なりとし、極端なる利己主義流行の時代なりと云へり。是に於てその国民を道徳的堕落より救済せんが為め国民教育を根柢より改良し、倫理的新時代を作らざるべからずと主張せり。フィヒテによれば、この道徳的革新は世界的問題なると同時に、独逸の民族的問題にして、その目的は人類に鞏固にして善良なる意志を養成するにあり。故に教育は須らく具案的、方法的ならざるべからず。精神の純潔は思考の明晰を予想す。故に認識の明晰により純良なる意思を鍛錬するを得。フィヒテはペスタロツチが児童教化の理想的方法に基礎を与へたることを称揚し、その主義を採り之に自己の理想を加へ以て此の論をなせり。
一、フィヒテが教育史上に於ける意義は、汎愛主義及び人文主義の曖昧なる理想を棄てて、強健なる人間の陶冶を説き、国民的教育の精神を鼓吹せるにあり。而してその主張に幾分極端なる点無きに非ずと雖も、よく時勢を洞察し、国民の覚醒を、促したる所、今日の我社会に対して参考となるべきもの尠からざるきを思ひ茲に之を訳出し「時局に関する教育資料」特別輯として上梓することゝせり。
大正六年九月 文部省普通学務局
凡例は全三項からなる。署名は「文部省普通学務局」となっているが、実際は、訳者の大津康によって執筆されたものであろう。なお、この文部省版では、訳者・大津康の名前は紹介されていない。
さて、この文部省版の凡例だが、岩波文庫版『ドイツ国民に告ぐ』にある凡例の最初の三項と、文体・用字などが違っているものの、基本的には同一だと言ってよかろう。ただし、文部省版の第三項中にあった「その主張に幾分極端なる点無きに非ずと雖も」(その主張に少し極端な点がないわけではないが)というコメントは、岩波文庫版『ドイツ国民に告ぐ』の第三項では削ら去られている。なお、岩波文庫初版『独逸国民に告ぐ』の凡例は、残念ながら、まだ参照できていない。【この話、さらに続く】
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