礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

鵯は、ヒエドリが後にヒヨドリと変化

2024-12-24 05:02:11 | コラムと名言
◎鵯は、ヒエドリが後にヒヨドリと変化

『日本諸学振興委員会研究報告 第十二篇(国語国文学)』(教学局、1942年1月)から、橋本進吉「国語の音節構造と母音の特性」を紹介している。本日は、その三回目。

 一つは「鹿藿」を「久須加都良乃波衣【クズカヅラノハエ】」と呼んで居りますが、これは「葛根之苗」と註してありますから、苗を「波衣【ハエ】」と言つたものかと思ばれますが、外〈ホカ〉に例がないので分りませぬけれども、とにかく言葉の終りにア行の「衣【エ】」が書いてあるのであります。ですけれども、之を平安朝の院政時代に出来た医心方と云ふ本に引用してあるのに依りますと、「エ」の所だけが字が違つてゐて「江」が書いてあります。「江」ならばヤ行のエであります。或は今伝つて居る本草和名〈ホンゾウワミョウ〉が誤写をして居るのかも知れませぬ。即ち之は医心方の如く「江」が書いてあつたのかも知れませぬ。さうすれば例外にはならず、ア行のエが語頭以外に來ると云ふことにはならないことになります。
 それから猶一つ、ヒヨ鳥の鵯を「比衣止利」とよんで居り、これも、ア行の衣と云ふ字が書いてあります。語頭でなく二番目にア行の「衣【エ】」が出て来る訳です。是は分りませぬけれども、この「ヒドリ」が後にはヒドリと変化して居るのですから、或はヤ行のエであつて、本来はヤ行のエの字が書いてあつたのでないかとも考へられます。
 全体ア行のエとヤ行のエの区別は平安朝に入つてからも初めの中〈ウチ〉は区別がありましたが、醍醐天皇の御代〈ミヨ〉になると、幾らか乱れたものがあつたのでありまして、丁度其の時分に出来た新撰字鏡〈シンセンジキョウ〉といふ字書にも極めて少数ながら乱れた例が見えるのであります。ですから延喜年間に出来た本草和名の例も、或は仮名としては斯う云ふ風に江と衣と別の字で書いてあつても、ア行のエとヤ行のエの仮名遺ひが乱れて居つたので、実際の音はア行のエもヤ行のエも同じ音で、区別が無かつたかも知れないと思ひます。又仮にさうでなくて、文字の通り「波衣」「比衣」の「衣」をア行のエに発音して居つたとしても、それは既に醍醐天皇の御代であります。平安朝になつてから百年位経つて居る時であります。それより前の平安朝の初期のものでは母音のエが語頭以外に用ひられた実例はまだ見附からないのであります。その以前の奈良朝に於いてもさうでありますから、詰り母音のエと云ふものは、本来は語頭に用ひなかつたと云ふことは出来るのであります。
 以上アとオとエとの三つの母音音節について述べましたが、次にイとウ、此の二つは昔から語頭以外に用ひた例はないでもございませぬ。例へば舟を漕ぐ「橈【カイ】」のイ、それから活用する言葉の語尾として悔いるの「クイ」のイ、年が老いる「オイ」のイ、それから主格を表すと言はれて居る助詞のイ、さう云ふものがあります。ウの方は「儲け」がマウケとなつて居り「申す」が「マウス」であり、語尾としては下二段活用の「植ウ」、「飢ウ」、斯う云ふ風なものが見えて居ります。併し斯う云ふ風なものは語頭に用ひられるものに比べて数が非常に少いのであります。活用語尾として用ひられるもの以外にはほんの一つ二つの言葉に見られるだけでありますから、例外的のものと見るべきでありまして、矢張りイ、ウも語頭に用ひるのが原則であつたと言つて宜いのであります。以上が母音音節の第一の特質であります。〈163~164ページ〉【以下、次回】

 インターネットで「鹿藿」を検索すると、「鹿藿(ろっかく)」、「イヌブンドウ」、「タンキリマメ」などという説明がある。

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唯一の例外は、万葉集巻十八の「也末古衣野由支」

2024-12-23 00:25:58 | コラムと名言
◎唯一の例外は、万葉集巻十八の「也末古衣野由支」

『日本諸学振興委員会研究報告 第十二篇(国語国文学)』(教学局、1942年1月)から、橋本進吉「国語の音節構造と母音の特性」を紹介している。本日は、その二回目。

 それでは母音一つで出来た音節には、どう云ふ特異性があるかと考へて見ますと、第一に、母音一つの音節――これは少し面倒ですから仮に母音音節と言つて置きます――母音音節は古代国語に於いては語頭以外には用ひられないのが原則でございまして、此の原則が間違ひなく守られて居るのはアの音節とオの音節の場合であります。此のことは昔からの学者が能く認めて居る所であります。所が母音のエの音節については、斯様〈カヨウ〉な原則があることはまだ一般に知られて居ないかと思ひます。それは奈良朝からして平安朝の初期にかけての毋音のエ――五十音で言へばア行のエでありますが――それとヤ行のエ――ローマ字で書けばyeのエ――此の二つの音があつて区別せられてゐたのでありますが、其のことがまだ一般に知られて居なかつた為に、エについては語頭以外にも用ひられると云ふ風に考へられて居たのであります。けれども、今迄調べた所によりますと、毋音のエが語頭以外に用ひられた例は、少くとも奈良朝に於いては見出されないのであります。其の母音のエは例へば物を「得る」と云ふ語のエ、「可愛」の意味のエ、「榎【エノキ】」のエ、「荏【エ】」のエ、「葡萄【エビ】」のエ、「夷【エミシ】」のエ、「棧【エツリ】」のエ、(榱【タルキ】の上に竹を編んだもの)、さう云ふのがア行のエでありまして、これは皆今挙げた通り語頭にある。其の外にはないのであります。尤も万葉集に「左佐良榎壮士【ササラエヲトコ】」とあつて、お月様のことをササラエヲトコと言つて居ります。其のエがア行のエでありますけれども、是は「ささら」と云ふ語と、可愛と云ふ意味の「え」と、「をとこ」と云ふ語と三つの言葉が合して出来たものなのですから、是は言葉の中〈ナカ〉及び終りに用ひると云ふ意味にはならないのであります。唯一つ例外になつて居るのは、万葉集巻〈マキ〉十八にあります「也末古衣野由支【ヤマコエヌユキ】」の例であつて「越【コエ】」の「エ」にア行のエの仮名が書いてあります。「越」といふ語は沢山例がありますが、そのエは悉くヤ行のエで書いてあり、此の一つだけが例外になつて居るのであります。処が万葉集十八の巻を見ますと、仮名の遣ひ方が、上古の仮名遣ひから見ると変に思はれる所がちよいちよいあるのでありまして、或は後になつての写し違ひか、或は書き改めなどがあるのでないかと思はれるのでありまして、或は此の例も元はヤ行のエを表す仮名で書いてあつたのを、こんな仮名に改めたか、間違つたかしたのではないかと云ふ疑ひが非常に濃厚なものであります。下つて平安朝初期に於きましても母音のエ音節は語頭に用ひられるのが普通であります。今挙げました言葉の外に蝦【エビ】であるとか、■【エメムシ】と云ふ動物の名、赤鱝【アカエヒ】などの鱝【エヒ】、病気の疫【エヤミ】、物を選択する意味のエラブ、さう云ふエがア行のエであつて、これらは皆言葉の初めにあります。但し醍醐天皇の延喜〈エンギ〉年間に作られた本草和名〈ホンゾウワミョウ〉と云ふ本があります。動植物鉱物などのことを書いたものでありますが、其の中に、ア行のエが語頭以外に、即ち言葉の中、或は終りに用ひられて居る例が三つ程あります。其の一つは「尨蹄子」を「世衣【セエ】」とありますが、調べて見ますと、万葉集に「石花」と書いて「セ」と読んで居るのが是と同じ言葉であります。此の「世【セ】」の音を延ばして「世衣【セエ】」と言つたものと考へられます。さう云ふやうに音を延ばして言つた場合には、下の音は純粋母音でありまずから母音の文字で書くのが当然で是は奈良朝の時代に於ける地名に例があります。即ち大隅の「贈唹【ソオ】」郡、薩摩の国の穎娃郷など、「ソ」「エ」であるのを、何でも郡や郷の名は二字で書くことに定められたものですから、「ソー」「エー」と音を延ばして「唹【オ】」「娃【エ】」のやうな母音を表す字を附けて書いたのであります。ですから「世【セ】」であつたのが長くなつて「世衣【セエ】」になつたとすれば、下の「衣【エ】」が母音であつても例外とするに当らないと思ひます。〈161~163ページ〉【以下、次回】

 文中、■としたところは、印刷が鮮明でないが、「虫ヘン+旃という字のツクリ」という字のように見える。
 また、「薩摩の国の穎娃郷」の「穎娃郷」には、穎の一字のみに【エ】のルビが振られていた。一般には、「穎娃」の二字で「エイ」と読まれている。

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橋本進吉「国語の音節構造と母音の特性」を読む

2024-12-22 01:09:23 | コラムと名言
◎橋本進吉「国語の音節構造と母音の特性」を読む

 昨年の11月末、五反田の古書展で、『昭和十六年十一月 日本諸学振興委員会研究報告 第十二篇(国語国文学)』(教学局、1942年1月)というものを入手した。
 ここには、池田亀鑑、平山輝男、有坂秀世、岩淵悦太郎、橋本進吉、西尾實、守随憲治、穎原退蔵といった面々がおこなった報告が掲載されている。これで、古書価200円は安かった。
 これらの報告のうち、橋本進吉の報告「国語の音節構造と母音の特性」を、本日以降、何回かに分けて紹介してみたい。

     国語の音節構造と母音の特性
        東京帝国大学教授文学博士 橋 本 進 吉

 私のこれから申上げようとしますことは、既に先程池上〔禎造〕さんの御話の中に出て居りましたことの一部分のやうなものであります。さう云ふ意味で或は池上さんの御話の一部分の注釈或は解説の如きものになるのかも知れませぬ。注釈ならば委しく分るやうにするのがよいのですけれども、時間がございませぬので、少し急がなくてはならないかと思ひます。
 現代の標準語における音節は其の構造から観ますと、大抵〈タイテイ〉四種類に分けることが出来ると思ひます。第一は母音一つから出来上つて居る音節で、ア、イ、ウ、エ、オ、のやうなもの、第二は母音の前に子音が結びついたもので、カ、キ、ク、ケとか、キヤ、シヤとか云ふやうなもの、第三にはン一つで成立つて居るもの、第四は促音、此の促る〈ツマル〉音も一つの音節と認むべきであると考へます。先づ大きく分けて此の四つ位になります。此の中〈ウチ〉の後の二つ、即ちンと促音とは後世になつて出来たものと認められるのでありまして、古代からあつたのは最初の二種類、即ち母音一つから出来上つて居るものと、母音の前に子苻音結びついて出来たものと、此の二種類であります。
 さうしますと国語本来の音節構造としては必ず母音が必要である。さうして子音がそれに附くことがありますが、それは母音の前に附くのであつて、後へ附くことはないのであります。詰り〈ツマリ〉音節としては母音で終る、所謂開音節であります。
 斯様〈カヨウ〉に古代国語に於いては、母音は音節を構造する為には欠くべからざるものでありますが、併し母音一つだけで出来たアイウエオと云ふやうな音節には色々な特異性がありまして、国語の音節構造の最も基本的な形式としましては、矢張り母音の前に子音が附いたものであると考へられます。〈160~161ページ〉【以下、次回】

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片岡良一、菊池寛の「恩讐の彼方に」を語る

2024-12-21 00:34:23 | コラムと名言
◎片岡良一、菊池寛の「恩讐の彼方に」を語る

 本日も、片岡良一著『近代日本文学教室』(旺文社、1956)の紹介。
 本日は、菊池寛の「恩讐の彼方に」について解説しているところを紹介してみよう。

       『恩讐の彼方に』と『蘭学事始』
 そのくらいだから、この時代の作家とすれば最も常識的な世界を持っていた菊池寛などでも、『恩讐の彼方に』(大正八年・後戯曲化して『敵;討【かたきうち】以上』)のような作品を書いている。
 主人を殺した市九郎〈イチクロウ〉改め了海が、諸人済度〈ショニンサイド〉のため「青の洞門」のくりぬきを志す。「三町をも超える大盤石〈ダイバンジャク〉を刳貫【くりぬ】かうと云ふ」彼の悲顆を、はじめ人々はあざわらって彼を気ちがい扱いしたが、その業が進むにつれて人々も感激して力を合わせるようになった。「十九年の歳月を費して」その業が「九分迄は竣工」した時、彼に殺された男の一子実之助〈ジツノスケ〉が、ようやく彼を探しあてて敵討をしようとした。了海を援ける人々に妨げられて、その刳貫【くりぬき】の完成するまで敵討を延ばさねばならなくなった時には、ひそかに彼を討ち果そうとして人々の寝しずまった深夜に洞穴の中にしのびこんだ。が、
【一行アキ】
「入口から、二町ばかり進んだ頃、ふと彼は洞窟の底から、クワックワッくと間を置いて響いて来る音を耳にした。彼は最初夫【それ】が何であるか判らなかったが一步進むに従って、その冇は拡大して行って、おしまひには洞窟の中の夜の寂静【しゞま】の裡に、こだまする迄になった。夫は、明かに岩壁に向って鉄槌を下す音に相違なかった。実之助は、その悲壮な、凄みを帯びた音に依って、自分の胸が烈しく打たれるのを感じた。奥に近づくに従って、玉を砕くやうな鋭い音は、洞窟の周囲にこだまして、実之助の聴覚を、猛然と襲って来るのであった。彼は、此の音をたよりに這ひながら近づいて行った。此の槌の音の主こそ、敵了海に相違あるまいと思った。私【ひそか】に一刀の鯉口を湿しながら、息を潜めて寄り添うた。その時、ふと彼は槌の音の間々に囁【さゝや】くが如く、うめくが如く、了海が、経文を誦【じゆ】する声を聞いたのである。
 そのしはがれた悲壮な声が、水を浴びせるやうに実之助に徹して来た。深夜、人去り、草木眠って居る中に、ただ暗中に端座して鉄槌を振って居る了海の姿が、墨の如き闇にあって尚、実之助の心眼に、歴々【ありあり】として映って来た。夫は、もはや人間の心ではなかった。喜怒哀楽の情の上にあって、たゞ鉄槌を振って居る勇猛精進の菩薩心【ぼたつしん】であった。実之助は、握りしめた太刀〈タチ〉の柄〈ツカ〉が、何時の間にか緩んで居るのを覚えた。」
【一行アキ】
 こういう感動から闇討などすることができなくなった実之助は、空しく時がくるまで待つより、その時を一日も早くこさせるようにと、了海と力を合わせることになって二年、了海がこの仕事をはじめてから二十一年目、みごとに洞門の刳貫に成功した時になると、もう敵討などするどころではなく、彼は了海に「ゐざり寄っ」て、彼の手をとって「感激の涙に咽【むせ】」んだという。
 一念の力が難事業を成就するばかりでなく、その壮厳さは、敵討という昔の武士にとっては一種の至上命令であるようなものをさえ、高く乗り越えてしまう。それを我執といってはむろん当らぬであろうが、とにかくそうして敵討などという個人感情的なところを越えた高い境地のあることを考えている点にも、この作の示した白樺派との共通性の一面はあったのである。〈145~147ページ〉

 今日、ウィキペディアには「恩讐の彼方に」という項がある。それによれば、この作品の初出は、『中央公論』1919年(大正8)1月号。翌1920年(大正9)、菊池自身の手により、『敵討以上(かたきうちいじょう)』として戯曲化されたとある。

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どうしても気になった片岡良一の文章

2024-12-20 00:37:24 | コラムと名言
◎どうしても気になった片岡良一の文章

 一昨日、〝志賀直哉「清兵衛と瓢箪」の読み方〟という記事を書き、そこで、片岡良一著『近代日本文学教室』(旺文社、1956)にあった文章を引用した。
 引用しながら、どうしても気になった箇所があった。

 ところが、清兵衛が教室でみがいているのを怒ってとりあげた先生が捨てるように小使にやってしまった瓢箪は、もともとただの十銭で清兵衛が町の小店から買ったものであったのに、小使から先生の月給四カ月分に相当する値段(五十円)で買い取った骨董屋の手で、六百円というさらに高い値段で地方の豪家に売られていた、ということが書いてある。

 この部分である。文章がよくない。センテンスが長すぎる。「清兵衛と瓢箪」を読んだことのある人なら、意味は理解できるかもしれないが、読んだことがない人には、意味は通じないだろう。僭越ながら、添削を試みた。

 ところが、清兵衛が教室でみがいていた瓢箪は、もともと、清兵衛が町の小店から、ただの十銭で買ったものであった。清兵衛が教室で瓢箪をみがいていたのを見た先生は、怒ってそれを取りりあげ、捨てるように小使にやってしまった。骨董屋は、小使からそれを五十円で買い取ったが、その値段は、先生の月給四カ月分に相当するものだった。その瓢箪は骨董屋の手で、地方の豪家に、六百円というさらに高い値段で売られた、ということが書いてある。

 センテンスが、四つになってしまった。せめて三つぐらいにしたかったところである。

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