◎国家儀礼としての学校儀式・その5(桃井銀平)
桃井銀平さんの論文「国家儀礼としての学校儀式」を紹介している。本日は、その五回目で、「3,使用される象徴について」の「(2) 「君が代」の歌詞」を紹介する。
(2)「君が代」の歌詞
① 古来の「君が代」の意味とその変容
「君が代」は、江戸時代までは実にポピュラーな祝い歌で「君」は一般的には「あなた」をさすものであった。「君が代」の文献上の初出は『古今和歌集』であり、3とおりある。
我君は千世に八千世にさざれ石のいはほとなりてこけのむすまで。
我君は千世にましませさざれ石のいはほとなりてこけのむすまで。
我君は千世にましませさざれ石のいはほとなりてこけむすまでに。
これが鎌倉時代には「我が君は」が「君が代は」に代わったものが一般的になり、それと照応して「千代にましませ」より「千代に八千代に」が一般的になった。 この「君が代」の歌は一般の人々の年寿を賀する歌であり、賀する相手は天皇皇族に限られなかった〔21〕。
しかし、国歌的存在とされた「君が代」は明治以降、歌詞の意味、歌われ方は大きく異なってしまった。そこでの「君」は天皇以外の何ものでもなく「君が代」の含意するところが、明らかに「今上天皇の治められる御代」にあったゆえに、天皇に限定して用いられる敬礼曲として、明治初年の「オーシャン」についで、80年代後半からは「君が代」が、他の曲と区別されて用いられたのである〔22〕。そして近代学校教育体制が確立するなかで、主に学校儀式を通じて事実上の国歌となった。そのようなものとしての「君が代」の意味するものは、国定教科書の記述が代表的である。第5期国定教科書『初等科修身二』(1943年度使用開始)には資料lのようにある。国定教科書「修身」の最後の国旗についての記述である。すなわち、「天皇陛下のお治めになる御代は、千年も萬年もつついて、おさかえになりますやうに」という意味であった。
② 政府見解-国旗国歌法国会審議
国歌としての「君が代」の戦後の公式の解釈は、1999年6月29日、国旗国歌法の衆議院本会議審議で首相小渕恵三が述べた以下のもの(資料m)であるとされている。これは民主党伊藤英成に対するものである〔23〕。
歌詞にない現憲法第1条の主権在民原則と象徴天皇制を読み込ませるこの政府解釈の無理について日本共産党の穀田恵二は2日後の7月1日の衆議院内閣委員会で鋭く批判している(資料n)。穀田が追求する相手は、政府委員内閣総理大臣官房内政審議室長竹島一彦である。
穀田はここで、「君」が天皇で、「が」が所有格の助詞で、「代」が時代・国家、ということであれば、端的に「君が代」とは「天皇の時代または国」であって、「日本国民の総意に基づき天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする」という意味は憲法第1条によって出てくるのであって、「君が代」の語、歌詞からは導き出されないと、きわめて明解に批判している。歌詞の意味を素直に受けとめれば受けとめるほど日本国家を「天皇の時代・国」として表象することになる。「民主の時代・国」でも「平和の時代・国」でも「人権の時代・国」でもいずれでもない。現憲法の条文によって歌詞にない意味を読み込んだ部分をのぞけば、敗戦前の国歌的存在としての「君が代」の意味と変わりないのである。
③ いわゆる<国体>との親和性
大日本帝国憲法第1条は「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と規定している。「君」・所有格「が」・「代」は、端的に旧憲法に規定されている天皇の統治又は国家によりふさわしい。
旧憲法制定時の公的解釈書である『憲法義解』は、天皇にかかる「万世一系」を以下のように説明している。「神祖開国以来、時に盛衰ありと雖、皇統一系宝祚の隆は天地と与に窮なし〔24〕」「宝祚」とは天皇の位のことで、この「宝祚の隆は天地と与に窮なし」とは、戦前日本国家の正統神話のいわゆる「天壌無窮の神勅」にある重要表現「天壌無窮」をもとにしたものである。「天壌無窮の神勅」とは『日本書紀』「神代巻」の「一書」でアマテラスがニニギを地上世界の支配者として派遣する際に下した命令書で以下のものである(資料o)。
「君が代」の歌詞の「千代に八千代に磐となりて苔のむすまで」は、もとは一般的に長寿を賀した表現であったが、国歌的存在となって以後は「千年も萬年もつついて、おさかえになりますやうに」(国定教科書)という意味となり、国体神話の「天壌無窮の神勅」と意味的な親和性をもつものとなった。この戦前天皇制国家の正統神話を踏まえて、文部省編『礼法要項』は国歌斉唱の心構えを「国歌をうたふときは、姿勢を正し、真心からの宝祚の無窮を寿ぎ奉る。〔25〕」(下線は引用者)と記している。
1999年国旗国歌法で国歌として法的根拠を得た「君が代」は、政府の無理な解釈を取り除けば、以上のように国体思想の言説のなかでこそより整合的な意味を発揮するものであった。
注〔21〕以上、「君が代」の起源については、山田孝雄『君が代の歴史』(宝文堂出版1956)p3-5,10,58,63,48 。山田は同著p109-110で、この歌の古来の意味と取り扱われ方について次のように要約している。「以上種々の方面から古来の事実を観察して来たのである。この歌は本来は年の賀の歌であったが、その年の賀の場合はもとより、それから次第に意味を広めて汎く祝賀の意の表示に転用せられ、鎌倉時代からは神の祭にも仏会にも用いられた。最も仏会には興福寺の延年舞に用いられたのが、最初かどうか知らぬが、今日知られているのでは最も古い。さうして延年舞とは仮令延年の意で年寿を祝する精神のものだから、この歌の本意に合することは明らかである。かやうにして次第に進んで宴席の祝言に用いられ、更に広くなりて俗間の俚謡として碓唄にも船謡にも盆踊の歌にも兵児謡にも、はては物貰の門付けの謡としても用いられたものであり、更に又謡曲浄瑠璃、小説狂歌、俳諧等の文芸の上にも利用せられたもので、その及び至る範囲は甚だ広汎である。時代でいへば一千有余年の昔から今日まで所でいへば京畿から四国九州更に南海の孤島まで、社会の階級から見れば帝王より乞食に至るまで、而して文芸上あらゆる方面に行き互りて用いられ、祝賀の歌としては時と階級とを超越しているものであることを見るのである。」
注〔22〕 前出佐藤秀夫編著『「日の丸」「君が代」と学校』(東京法令出版。1995)p396-398
注〔23〕 「代」の解釈については、同日同じ場で小渕首相は日本共産党志位和夫に対して次のように答弁している。「「代」とは、本来時間的概念をあらわすものでありますが、転じて、国をあらわす意味もあると理解いたしております。また、日本国憲法下で君が代とは、日本国民の総意に基づき天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする我が国のことであり、」(国立国会図書館国会会議録検索システム)
注〔24〕岩波文庫版p22(伊藤博文著 国家学会刊行 1889年)。原著の正式な題名は『帝国憲法皇室典範義解』
注〔25〕佐藤秀夫編『続現代史資料9』(みすず書房1995)P295
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