礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

日本に洋菓子を普及させた森永太一郎

2013-09-15 05:43:01 | 日記

◎日本に洋菓子を普及させた森永太一郎

 昨日は、思いもかけずアクセスが多かった(おそらく歴代六位)。そこで、森永太一郎の回顧録について、もう少し補足することにしよう。
 筑摩書房から出た現代記録全集13、杉浦明平編『ひとすじの道』(一九七〇)には、森永太一郎の「自伝」が収められている。
 函には「自伝 森永太一郎」とある。巻末の「出典一覧」にも、「自伝 森永五十年史(私家版、昭和二十九年)」とある。ところが、目次・本文では、「お菓子をつくって 森永太一郎」とある。
 このあたり、不統一をまぬがれないが、一昨日のコラムでも述べたように、『森永五十五年史』のおけるタイトルは、「今昔の感」である。もう少し詳しく言えば、『森永五十五年史』の第Ⅰ部「回顧録」の「1」にあたるのが、「今昔の感」である。なお、この文章は、「森永太一郎が菓子新報のために談話し、昭和四年十月号から五年十月号までの同誌に十一回にわたり掲載されたものを補正したもの」だという。
『ひとすじの道』においては、「お菓子をつくって 森永太一郎」の前に、次のような解題が付されている。署名はないが、編者の杉浦明平によるものであろう。

 お菓子を作って 森永太一郎
 森永ミルクキャラメルをはじめ、ピスケット、ドロップス、チョコレート等々エンジェルマークの森永の菓子は、戦前の子供たちにとってもっともなじみ深い存在であった。餅と飴と餡とからなる和菓子の世界へ西洋系の菓子が進出したのは、そう古いことではなく、それなりの抵抗や苦難を経なくてはならなかったが、森永製菓を創立した森永太一郎はその成功した先駆者の一人であった。森永は一八六四年佐賀県伊万里町の商家に生れたが、幼くして父を失い、少年時代から店奉公に出たりした。やがて青雲の志に燃えて上京したが、みごと失敗、かなり大きな負債を背負う身となり、一もうけを企んで渡米したが、ここでもまた挫折する。しかしその挫折が動機となってキリスト教徒になる。たまたまそのころ菓子工場で働くことになってから、洋菓子の製造に着目、十年にわたって、苦心惨胆、さまざまた種類の菓子の製法を修得し、一八九九年、三十五歳のとき日本に帰り、二坪の菓子工場で洋菓子製造を開始した。販路の糸口をつかむまでに二カ月を要したというのも、日本人の嗜好の変化がおこっていなかったと同時に菓子業者の無理解の壁の厚さを感じさせる。が、自伝としては、こういう未開の荒野を、荊棘〈ケイキョク〉を切り払いつつ拓いてゆく部分が圧巻である。かれのすべての関心と興味は、西洋式菓子の製造と販売とに集中されている。記述の中には、かなり我執の強い性格も出ているが、そういう性格でなかったら、初志を貫きとおすことはむつかしかったかもしれない。
 森永太一郎は、森永製菓が製菓会社として不動の地位を占め、なお発展の途上にあった一九三七年(昭和一二年)七十三歳をもって永眠した。功成り名遂げたといってよかろう。

 なお、『ひとすじの道』に収められた「お菓子をつくって」は、惜しいことに、回顧録「今昔の感」の全文ではなく、抄録である。

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なぜ森永太一郎は、落とした手帳にこだわったのか

2013-09-14 02:35:41 | 日記

◎なぜ森永太一郎は、落とした手帳にこだわったのか

 昨日の続きである。森永製菓の創業者・森永太一郎の回顧録「今昔の感」から。森永太一郎は、一八八五年(明治一八)九月に、箱根路で財布と手帳を落としたが、三二年後の一九二七年(大正六)六月になって、そのことが気になり、落とした場所である錦田村(にしきだむら)の村長宛に、探索を依頼する手紙を書いた。本日は、その手紙の後半。

 其後愚生数年を米国に送り、明治三十二年帰朝の後も、往時を懐ひ〈オモイ〉て坐ろ〈ソゾロ〉旧恩を偲ぶ毎〈ゴト〉に、函嶺の遺失を悔まぬことゝて無之〈これなく〉候ひしが、業務は愚生を寸暇に置かず、歳月怱忙として終に〈ツイニ〉今日に至り申候
 愚生先般来微恙〈ビヨウ〉を葦ノ湯に養ひ、一日、駒ケ岳に登りて西方を望めば、塚原、三ツ谷、笹原あたり往昔〈オウゼキ〉鶏犬の声さへ稀なりし寒村の、今は人煙饒か〈ニギヤカ〉の打靡き〈ウチナビキ〉て、聖代の余沢、洵に〈マコトニ〉隔世の感に堪へざるもの有之〈コレアリ〉候
 愚生の業務も今漸く人に知られて、世間の高庇〈コウヒ〉を深く心に刻むと共に、また溯りて明治十八年の秋、旅愁に受けたる駅路の旧恩忘れんとして忘れ得ぬものに有之候
 あはれ彼の〈カノ〉手帳だに候はば、書を通はし手を握りて愚生晩年の情を遣る〈ヤル〉べきを、当年一時の遺失は畢竟〈ヒッキョウ〉愚生百年の遺失と相成〈アイナリ〉候こと、返す返すも遺憾千万に候
 地図を案じて当時を偲ぶに、塚原より笹原かけて右手〈メテ〉の沿道かの出茶屋かの玉蜀黍畑、今ありやなしやは存ぜねど、畑の主にして手帳と財布を拾ひたる古老候まじくや、財布は色既に褪せたる頚かけ紐つきの麻の財布にして、愚生の姓名を記したるやに記憶いたし候、手帳は道中の事どもを書き、人の名あまた留めて候
 右は洵に愚生晩年の念願、茲に貴台に訴へて探索の御援助を請はんと致し候へど、省れば愚生不幸にして未だ披雲の栄を得ず、然かも斯く非礼を敢てするものは思ひ内に余ればに御座候
 幸にして今尚ほ〈ナオ〉之れを蔵むる〈オサムル〉家の候はゞ、寸謝を致して報ひ申したく、冀く〈コイネガワク〉ば貴台、愚生の衷情を沿道に伝へて一臂〈イッピ〉の力を惜まれざらんことを 頓首
 大正六年六月十一日  森永太一郎
 伊豆国田方郡錦田村々長殿

 この手紙を出したとき、森永太一郎は、すでに五三歳。文中に「晩年」とあるように、当時の観念としては、すでに「老境」にあったと言える。
 たまたま、箱根葦ノ湯に逗留し、かつて、このあたりで財布と手帳を落としたことを思い出すとともに、これまでの苦難の人生を振り返り、感傷的な気分に浸ったのであろう。
 それにしても、なぜ森永太一郎は、失くした財布と手帳にこだわったのだろうか。この理由を考えることは難しくない。
 三二年前、財布と手帳を落とした森永太一郎は、本当はそれを探すために、道を引き返すべきだったのである。しかし彼は、そうしなかった。戻ってトウモロコシ畑を探しまわっていれば、畑の持ち主に不審の眼で見られ、トウモロコシを盗んだこともバレてしまう。そう考えて、戻るのを断念したのであろう。
 戻らなかったのではなく、戻れなかったのである。彼は、その後悔を引きづったまま、三二年間生きてきて、結局、その後悔が、こういう手紙になってあらわれたのであろう。

今日の名言 2013・9・14

◎非礼を敢てするものは思ひ内に余ればに御座候

 森永太一郎の手紙に出てくる言葉。非礼を詫びるとともに、みずからの「思ひ」の強さを強調する巧みな言い回しである。上記コラム参照。

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32年前に落とした財布を探そうとした森永太一郎

2013-09-13 04:08:19 | 日記

◎32年前に落とした財布を探そうとした森永太一郎

 一九五四年に出た『森永五十五年史』(森永製菓株式会社)という本がある。だいぶ前に、神保町の某古本屋(現在は廃業)で入手したものである。
 その冒頭に、森永製菓の創業者・森永太一郎の回顧録「今昔の感」がある。これがなかなか面白い。
 森永太一郎は、一八八五年(明治一八)故郷の佐賀県から、青雲の志を抱いて上京する。このとき、二一歳であった。ところが、箱根路を越えたところで、財布と手帳を落としたことに気づく。落とした場所に心あたりはあったものの、引き返すことはしなかったという。
 その後、森永太一郎は、森永製菓を創業し、一流会社に成長させるが、一九二七年(大正六)になって、なぜか、三二年前に失った財布と手帳のことを思い出し、落としたと思われる場所の村長に宛てて、その探索を依頼する手紙を書いた。
 森永は、回顧録「今昔の感」では、上京の際に財布と手帳を落とした事実、三二年後になって村長に手紙を書こうと思った動機などに触れていない。ただし、イラストという扱いで、村長への手紙が紹介されている。本日は、その手紙(前半部分)を紹介してみよう。

 初夏いよいよ御清安大賀此事〈コノコト〉に奉存候〈ゾンジタテマツリソウロウ〉
 未だ拝顔の栄を得ざるに唐突一箋さしあげ候段、太だ〈ハナハダ〉失礼の次第には候へど茲に是非とも貴台の御配慮を煩はして愚生の宿望を遂げ申度き〈トゲモウシタキ〉こと有之〈コレアリ〉候、御多忙中恐縮に堪へず候へ〈ソウラエ〉ども下記御一読御諒察奉願上〈ネガイアゲタテマツリ〉候
 却説〈サテ〉明治十八年秋九月、愚生九州の郷里を離れて東上の途にある際、嚢中素より〈モトヨリ〉銭なくして具さに〈ツブサニ〉旅愁を味ひつゝ、去る日、小夜〈サヨ〉の中山を未明に立ちて、入合〈イリアイ〉の頃、三島の宿を過ぎ、箱根路にさしかゝり候時は、早や日も暮れ果て申候
 夜の坂路〈サカミチ〉、覚束なくも辿り行き候処〈ソウロウトコロ〉、道の右側に一軒の出茶屋〈デヂャヤ〉これあり、夜分のことにて店片付けて人の気配もなく、床几〈ショウギ〉のみ其侭〈ソノママ〉に残されて候へば、愚生は疲れたる身を肱枕、しばし其処〈ソコ〉憩ひ申候、愧入る〈ハジイル〉追憶には候へど、時しも冷秋の夜気〈ヤキ〉身に迫りて、疲労と空腹とに堪へがたき候折柄〈オリカラ〉、月明りにも一と叢〈ヒトムラ〉の玉蜀黍〈トウモロコシ〉畑しきりに戦ぐ〈ソヨグ〉を彼方に認め候、愚生はこれを天与の糧〈カテ〉と打悦びて〈ウチヨロコビテ〉、其の二三を取り、枯れ柴、零れ〈コボレ〉松葉に火を点じて、炙りて食したることに有之候
 それから鮮からぬ〈スクナカラヌ〉力を得、お蔭を以て恙〈ツツガ〉なく函嶺を東に越へたるは夜明方〈ヨアケガタ〉にて候ひしが、不図〈フト〉懐中に財布と手帳の失はれたるに気着き申候、財布、素より銭を収めずと雖〈イエドモ〉、棄つるには余りに肌馴れて〈ハダナレテ〉貧に処し、手帳素より粗末なれども、録して旅中の恩情忘じ〈ボウジ〉がたきの芳名を列ねたり、遺失の場所は勿論かの玉蜀黍畑に候へ共、逆行せんには路〈ミチ〉太だ遠く、兎角く〈トカク〉思案の末、意を決し、目を瞑りて〈ツブリテ〉東上の歩を前め〈ススメ〉たることに御座候【以下は明日】

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貝を磨いて客を待った石州流茶道の家元

2013-09-12 03:14:50 | 日記

◎貝を磨いて客を待った石州流茶道の家元

 一昨日に続いて、本日も、佐藤義亮『明るい生活』(新潮社、一九三九)から。本日は、陸軍軍医総監として知られる石黒忠悳〈タダノリ〉が、茶道の家元を訪ね、懐石料理をふるまわれたときの話である。

◇貝を磨いて客を待つ
 石黒忠悳子爵が夫人と共に、その師事する石州流〈セキシュウリュウ〉茶道の家元某〈ナニガシ〉といふ宗匠を訪ねた時のことであります。子爵は、懐石料理に出された蜆汁〈シジミジル〉を見ますと、その貝はまるで珍奇な珠のやうな色沢〈イロツヤ〉をして、粒もよく揃つてゐるのです。
「これは何といふお見事な蜆貝でせう、どこからかわざわざお取り寄せになつたものでせうな。」
 子爵はかう尋ねますと、宗匠はほゝ笑んで、
「いやいや左様な面倒なものではありません。今朝ほど蜆売りから、三銭ばかりで買つたのです。」
「でもこんなお見事なものが……」
「それは、すこしでもお気持ちよく召上つていたゝけるやうにと、家内が粒の揃つたものを選んで、一つ一つ磨いただけのことです。」
 これを聞いた子爵は、宗匠夫妻の心づくしが嬉しく、美味一段と増す思ひだつたさうであります。料理は高価なばかりが御馳走でなく、たとへ三銭の蜆でも、それを一つ一つ磨く親切があつてこそ、金では買はれない滋味となあるのであります。
 昔から「庭に玉を敷いて友を待つ」といふ友情の深さを示す言葉がありますが、これは「貝を磨いて客を待つ」のであります。今日会へば、生前再び相見ることができないかも知れぬ。だから今日の客を一生にたゝ一度の大事な客と心得、誠意をこめてもてなさうといふ茶道の精神から出たものですが、何人もこの話を聞いては、頭が下らずにゐられますまい。

 これで全文である。これもまた、味わい深い話である。
 ところで、ここに出てくる石州流茶道の家元とは、誰なのであろうか。
 インターネットで調べてみると、石黒忠悳は、鎮信流〈チンシンリュウ〉(あるいは石州流鎮信派)の茶人として知られていて、同流の家元・松浦厚〈アツシ〉伯爵と親交があったことがわかる。ということであれば、この家元というのは、松浦厚とみて、まず間違いないだろう。
 ではなぜ、佐藤義亮は、松浦厚の名前を出さず、「石州流茶道の家元某」というような書き方をしたのだろうか。ウィキペディア「松浦厚」によれば、松浦家は、昭和初期に株の暴落で巨額の損失をこうむったという。石黒忠悳が松浦家を訪ねたのは、おそらくそのあとのことだったのではないか。伯爵夫人が、朝、シジミ売りから三銭でシジミを購ったなどと書けば、それを読んだ読者は、やはり松浦家は、そうとう苦しかったようだなどと憶測するであろう。だから佐藤義亮は、あえて松浦厚の名前を出さなかったものと考えられるのである。
 なお、松浦厚の夫人・益子は、元藩主の浅野長勲〈ナガコト〉の養女であった。久邇宮〈クニノミヤ〉家の良子〈ナガコ〉王女(のちの香淳皇后)は、ご成婚前に石州流茶道を習いたいと希望したが、これを受けて、久邇宮家に出向き、王女に鎮信流を教授したのが松浦益子であった(これは、石黒忠悳の推挙によるものという)。佐藤義亮が松浦厚の名前を出さなかったのには、こうした経緯が関わっていた可能性もあろう。

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出版ニュースによる『日本保守思想のアポリア』の書評

2013-09-11 07:12:50 | 日記

◎出版ニュースによる『日本保守思想のアポリア』の書評

 批評社の佐藤英之社長からの連絡によって、『出版ニュース』二〇一三年九月中旬号に、拙著『日本保守思想のアポリア』の書評が載ったことを知った。
 以下に、その書評を紹介させていただきたい。

 日本保守思想のアポリア 礫川全次著
 日本の保守思想の原典とはどこにあるのか。本書は、日本近代の保守思想について、原理的・歴史的な考察を通して、「近代日本に保守主義は存立しえない」根拠を「國體」という切り口と、「五箇条の御誓文」「大日本帝国憲法」という二つの事象を通じて論証する。まず、昭和天皇が敗戦に伴う改革の渦中において「五箇条の御誓文」に依拠しようとした意味の解明に始まり、明治新政府が、近代化・欧化とともに日本古来の文化を解体する一方で、「國體」=虚構のイデオロギーで新たな保守主義を創造するという明治維新のねじれに注目、このねじれがゆくゆく欧米列強を敵に回した戦争をもたらした必然が描かれる。伊藤博文に影響を与えたドイツ国家学者のシュタイン、帝国憲法の起草に当たった金子堅太郎の軌跡も併せ、保守思想のアポリアを探り、提示した労作。
B6判/195頁/1800円/批評社

 著者本人がコメントするのもどうかと思うが、著者の意図をよく汲み、主要な論点をあますところなく紹介した巧みな書評という印象を持った。

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