◎斉藤勉さんの『中央本線四一九列車』を読む
2月14日の東京新聞記事は、カラー写真が四つも付いている。そのうちのひとつは、慰霊碑の前に立つ、「慰霊の会」の会長・斉藤勉さんの写真である。
ウィキペディアには、「湯の花トンネル列車銃撃事件」という項がある。同項によると、斉藤勉さんには、『中央本線四一九列車』(のんぶる舎、1992)という著書がある。
先週、私は、国立国会図書館に赴き、その『中央本線四一九列車』を閲覧してきた。取材、調査のゆきとどいた労作であった。
引用・紹介したい箇所はたくさんあるが、本日以降、第5章「小型機の列車空襲」の「三、旅客列車の削減と四一九列車の運行」を、何回かにわけて紹介してみたい。
三、旅客列車の削減と四一九列車の運行
列車の削減
国鉄の列車・電車の運行は戦局の悪化とともに混乱しはじめ、その混乱に空襲が拍車をかけていた。
一九四四年八月一六日には政府は応急運輸措置要綱を定め、輸送の円滑化をはかるため計画輸送の徹底がはかられたが、空襲に備えて疎開輸送が要請されたこともあって、計画輸送は空襲が本格化する前から混乱していた。
年が明けてから運輸通信省鉄道総局は、防空に加えて来るべき本土決戦に備えての義勇隊組織への移行準備を始めていた。二月になって、木土決戦準備が本格化し、組織の改変や施設の強化が求められたのに対し、大都市空襲によって幹線輸送が麻痺し、通勤、輸送施設が大きな打撃をうけた。さらに、小型機の空襲によって列車の運行自体が危険になっていった。このため、鉄道の計画輸送などはできず、「運行計画にもとづく列車の輸送自体が不可能となった。政府・軍部は六月ごろから本土決敝に備えて鉄道施設の軍事体制化を進めようとしていたが、疎開輪送を強化することなど貨物や人員の輪送の各種の緊急要請が繰り返し出されたために、これらが錯綜して軍事化も進められなかった。
【一行アキ】
全体としてみれば、空襲と本土決戦準備と、そして個々に生じて来る輪送要請と、この三者が、国鉄・私鉄の輪送体制を混乱におとし入れ、輪送力を麻痺させる原因となって いった。すでに計画輪送を突施することすら不可能となり、いわば「その日暮し」の輪送 体制をとるほかないという追いつめられた状態が全国にひろがっていくのである。(原田勝正『日本の鉄道』)
【一行アキ】
そうしたなかで旅客列車は運転本数が大幅に減らされていった。
一九四五年五月一日には「大空襲下における陸上輪送力の確保に関する要綱」に基づいて全国で第一次旅客列車削減が実施され、六月一〇日には第二次の削減が実施されて設定キロ数は二六万キロ前後となり、一九四二年一一月の設定キロ数から六〇パーセントの削減となった。
時刻表の改正は一九四二年一〇月をはじめに、この年の六月一〇日までに八回行なわれ、その都度旅客列車は減らされた。六月一〇日の改正では、一九四二年に対して四〇パーセントの減少となり、これは二〇年前、つまり一九二二、三年の状態と同じだった。急行列車は東海道本線の東京―下関間の一本を除いて全廃され、中距離、長距離列車の所用時間も増えた。(『週報』昭和二〇年六月、四四九号)
中央本線では一九四四年一二月一日には、新宿駅発の下り列車は午前六時二〇分の塩尻行列車を最初に甲府行が三本、提野行が四本、松本行が一本など計一〇本あり、八王子からも塩尻、大月、長野行きがそれぞれ一本ずつ出ていた。しかし、この年七月一日になると、八王子からの本数は変わらなかったものの、新宿駅発は名古屋行と長野行が各二本、松本、甲府、大月行がそれぞれ各一本の計七本に減らされていた。(東亜交通公社発行の時刻表による)〈254~256ページ〉【以下、次回】
2月14日の東京新聞記事は、カラー写真が四つも付いている。そのうちのひとつは、慰霊碑の前に立つ、「慰霊の会」の会長・斉藤勉さんの写真である。
ウィキペディアには、「湯の花トンネル列車銃撃事件」という項がある。同項によると、斉藤勉さんには、『中央本線四一九列車』(のんぶる舎、1992)という著書がある。
先週、私は、国立国会図書館に赴き、その『中央本線四一九列車』を閲覧してきた。取材、調査のゆきとどいた労作であった。
引用・紹介したい箇所はたくさんあるが、本日以降、第5章「小型機の列車空襲」の「三、旅客列車の削減と四一九列車の運行」を、何回かにわけて紹介してみたい。
三、旅客列車の削減と四一九列車の運行
列車の削減
国鉄の列車・電車の運行は戦局の悪化とともに混乱しはじめ、その混乱に空襲が拍車をかけていた。
一九四四年八月一六日には政府は応急運輸措置要綱を定め、輸送の円滑化をはかるため計画輸送の徹底がはかられたが、空襲に備えて疎開輸送が要請されたこともあって、計画輸送は空襲が本格化する前から混乱していた。
年が明けてから運輸通信省鉄道総局は、防空に加えて来るべき本土決戦に備えての義勇隊組織への移行準備を始めていた。二月になって、木土決戦準備が本格化し、組織の改変や施設の強化が求められたのに対し、大都市空襲によって幹線輸送が麻痺し、通勤、輸送施設が大きな打撃をうけた。さらに、小型機の空襲によって列車の運行自体が危険になっていった。このため、鉄道の計画輸送などはできず、「運行計画にもとづく列車の輸送自体が不可能となった。政府・軍部は六月ごろから本土決敝に備えて鉄道施設の軍事体制化を進めようとしていたが、疎開輪送を強化することなど貨物や人員の輪送の各種の緊急要請が繰り返し出されたために、これらが錯綜して軍事化も進められなかった。
【一行アキ】
全体としてみれば、空襲と本土決戦準備と、そして個々に生じて来る輪送要請と、この三者が、国鉄・私鉄の輪送体制を混乱におとし入れ、輪送力を麻痺させる原因となって いった。すでに計画輪送を突施することすら不可能となり、いわば「その日暮し」の輪送 体制をとるほかないという追いつめられた状態が全国にひろがっていくのである。(原田勝正『日本の鉄道』)
【一行アキ】
そうしたなかで旅客列車は運転本数が大幅に減らされていった。
一九四五年五月一日には「大空襲下における陸上輪送力の確保に関する要綱」に基づいて全国で第一次旅客列車削減が実施され、六月一〇日には第二次の削減が実施されて設定キロ数は二六万キロ前後となり、一九四二年一一月の設定キロ数から六〇パーセントの削減となった。
時刻表の改正は一九四二年一〇月をはじめに、この年の六月一〇日までに八回行なわれ、その都度旅客列車は減らされた。六月一〇日の改正では、一九四二年に対して四〇パーセントの減少となり、これは二〇年前、つまり一九二二、三年の状態と同じだった。急行列車は東海道本線の東京―下関間の一本を除いて全廃され、中距離、長距離列車の所用時間も増えた。(『週報』昭和二〇年六月、四四九号)
中央本線では一九四四年一二月一日には、新宿駅発の下り列車は午前六時二〇分の塩尻行列車を最初に甲府行が三本、提野行が四本、松本行が一本など計一〇本あり、八王子からも塩尻、大月、長野行きがそれぞれ一本ずつ出ていた。しかし、この年七月一日になると、八王子からの本数は変わらなかったものの、新宿駅発は名古屋行と長野行が各二本、松本、甲府、大月行がそれぞれ各一本の計七本に減らされていた。(東亜交通公社発行の時刻表による)〈254~256ページ〉【以下、次回】
*このブログの人気記事 2025・2・24(10位になぜか『キングコング』)
- 名前を記録することが後世につながる(斉藤勉さん)
- 列車銃撃空襲で、新たに犠牲者の身元が判明
- 「村八分」は明治になってから多発した
- 近親者の弔問客を利用できんか(福田耕)
- 憲兵の小坂君が味方なのかわからない(福田耕)
- うまくいったのは奇跡としか思えません(小坂慶助)
- これを機会にご冥福をお祈りしたい(三國一朗)
- 原田慶吉教授の遺稿を読む
- なぜ、明治になって村八分が多発するのか
- 小学生時代に見た傑作『キングコング』(1933)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます