礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

『虎の尾を踏む男達』を葬ったのは誰か

2024-05-26 06:13:38 | コラムと名言

◎『虎の尾を踏む男達』を葬ったのは誰か

 当ブログ、今月21日の記事「植草圭之助の『わが青春の黒沢明』を読んだ」の冒頭で、私は次のように書いた。

 当ブログでは、黒澤明監督の東宝映画『虎の尾を踏む男達』のことを、何度か話題にした。この映画は、1945年(昭和20)に製作されながら、GHQの検閲に引っかかり、1952年(昭和27)4月まで公開が許されなかったという。

 このうち、「GHQの検閲に引っかかり」とあるところは、通説に従ったのである。しかし、黒澤明は、その著書『蝦蟇の油 自伝のようなもの』の中で、この通説を否定している。『虎の尾を踏む男達』を葬ったのは、GHQではなく、日本の検閲官だというのである。
 同書の中から、関係する部分を引いておきたい。引用は、岩波現代文庫(2001年8月)より。

 さて、この「虎の尾――」が、とんだ事になった。その話には、また検閲官が登場する。
 アメリカ軍は、日本に進駐すると、日本の軍国主義退治を始めたが、その一環として、司法警察や検閲官を馘首した。
 ところが、それなのに、私は検閲官に呼び出されたのである。
 「虎の尾――」について、異義がある、と云うのだ。
 これには、森さん(岩雄、当時製作担当重役)も呆れて、私を呼ぶや、今や、検閲官連中には、とやかく云う権限は無い、乗り込んでいって、思う存分やっつけて来い、と云った。
 これまで、癇癪持ちの私には何事にもおだやかにおだやかにと云っていた森さんが、存分にやっつけて来い、と云うのだから、森さんも余程、この検閲官の呼出しは、腹に据えかねたのだろう。
 私は、森さんにそう云われて、喜び勇んで出掛けた。
 さすがに、検閲官は内務省を引払って、別の場所に集っていたが、書類をブリキ缶で燃やし、椅子の足を鋸〈ノコギリ〉で切って薪をつくっているその有様は、尾羽〈オバ〉打ち枯らした権力者の、見るも哀れな末路の眺めであった。
 しかるに、奴等は、まだ威張るのはやめられず、高飛車に私を詰問した。
 「この〝虎の尾――〟という作品は何事だ。日本の古典的芸能である歌舞伎の〝勧進帳〟の改悪であり、それを愚弄するものだ」
 これは、今、誇張して書いているのではない。一言一句、正確に書いている。奴等の言葉は、忘れようと思っても、忘れられるものでない。
 この奴等の詰問に対して、私は次のように答えた‘
 「〝虎の尾――〟は、歌舞伎の〝勧進帳〟の改悪だ、と云われるが、私は、歌舞伎の〝勧進帳〟は、能の〝安宅〟の改悪だ、と思う。
 また、歌舞伎を愚弄するものだ、と云われるが、私には全くその意志はないし、どこが その愚弄に当るのか、さっぱり解らない。その点について、具体的に指摘してもらいたい」
 検閲官一同、暫く黙っていたが、その一人が次のように云った。
 「〝勧進帳〟に、エノケンを出す事自体、歌舞伎を愚弄するものだ」
 私「それは、可笑しい。エノケンは立派な喜劇俳優です。それが出演しただけで、歌舞伎を愚弄した事になる、という言葉こそ、立派な喜劇俳優のエノケンを愚弄するものである。喜劇は悲劇に劣るのですか。喜劇俳優は悲劇俳優に劣るのですか。ドン・キホーテの お供にサンチョ・パンサという喜劇的な人物がついているが、義経主従にエノケンの強力という喜劇的な人物がついていて、何故、悪いのですか」
 少し論旨が混乱しているが、私は、カッとなってまくし立てた。
 すると、検閲官の中のエリート臭をプンプンさせた若僧が、嚙みついて来た。
 「とにかく、この作品は、くだらんよ。こんなつまらんものを作って、君、どうする気だ」
 私は、溜りに溜った忿懣【ふんまん】を、その若僧に叩きつけた。
 「くだらん奴が、くだらんという事は、くだらんものではない証拠で、つまらん奴がつまらんという亊は、大変面白いという事でしょう」
 その検閲官の若僧の顔色は、青、赤、黄、の三原色に変化した。
 私は、その顔を暫く見物してから、席を立ってさっさと帰って来た。
 しかし、そのおかげで、「虎の尾――」は、G・H・Qから、上映禁止を喰【くら】った。
 日本の検閲官が、撮影中の日本映画の報告書から「虎の尾――」だけを削除したからだ。 そのため、「虎の尾――」は、未報告の非合法作品として葬られたのである。
 しかし、三年後、G・H・Qの映画部門の担当官が「虎の尾――」を見て、大変面白がって、その上映禁止を解除してくれた。
 面白いものは、誰が見ても、面白いのだ。
 勿論、つまらん奴を除いての話だが。〈270~273ページ〉

 黒澤監督による、以上の証言についてのコメントは次回。

*このブログの人気記事 2024・5・26(9・10位に極めて珍しいものが入っています)

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8月15日に黒澤明監督が目撃したこと

2024-05-25 02:12:37 | コラムと名言

◎8月15日に黒澤明監督が目撃したこと

 本日も、当ブログにおける過去の記事を再掲し、それに補足を加えたい。本日、再掲するのは、2015年3月8日の記事「エノケンの狂騒的な踊りが意味するもの」である。

◎エノケンの狂騒的な踊りが意味するもの
【前略】
 ところで、中村秀之氏は、前掲の本〔『敗者の身ぶり』岩波書店、2014〕の中で、次のように書いていた(二三~二四ページ)。
【一行あき】
 ……製作開始が八月一五日以前であると信じるべき理由はない。それどころか、映画公社の記録によれば九月に入ってからクランク・インしたという可能性さえあるのだ。すでに述べたとおり、上映禁止やその解除についても、黒澤明の回想は記録が示す経緯や日付と一致しない。『蝦墓の油』の少なくとも『虎の尾を踏む男達』のくだりは事実とは別個の一つの話として受けとめるべきだろう。
 そこであらためてそのような視点から読んでみると、目を引くのは、「日本は戦争に敗けて、アメリカ軍が進駐し」という記述に見られるような「八月一五日」の欠落である。ただし、一九四五年八月一五日の出来事が書かれていないということではない。すぐあとの「日本人」と題されたセクションに、次の一節がある。
《私は、一九四五年八月十五日、天皇の詔勅のラジオ放送を聞くために、撮影所へ呼び出されたが、その時歩いた道の情景を忘れる事が出来ない。
往路、祖師谷〈ソシガヤ〉から砧〈キヌタ〉の撮影所まで行く商店街の様子は、まさに一億玉砕を覚悟した、あわただしい気配で、日本刀を持ち出し、その鞘を払って、抜身の刃をじっと眺めている商家の主人もいた。
 詔勅が終戦の宣言である、と予想していた私は、この有様を見て、日本はどうなる事かと思った。
 しかし、撮影所で終戦の詔勅を聞いて、家へ帰るその道は、まるで空気が一変し、商店街の人々は祭りの前日のように、浮々とした表情で立ち働いていた
 これは、日本人の性格の柔軟性なのか、それとも虚弱性なのか。》
『蝦墓の油』の文章で目立つのは、頻繁に改行が施され、結果として余白がとても多くなっていることである。しかし、空隙は本文中にも見出される。この引用文は八月一五日の出来事を語りながら、そこに肝心の「八月一五日」が欠けている。すなわち、「天皇の詔勅のラジオ放送」に対する語り手自身の心情が何も書かれていないのだ。放送の前後の周囲の人々のふるまいを、ほとんど高みから見下ろすように観察し、批評的な考察を加えているだけである。【以下略】
【一行あき】
 やや、引用が長くなったが、ここで注目したいのは、下線を引いた「商店街の人々は祭りの前日のように、浮々とした表情で立ち働いていた」という部分である。終戦の放送の前までは、一億玉砕を覚悟しているかに見えた商店街の人々が、放送のあとでは、祭りの前日のように浮々としていた(少なくとも、黒澤監督の眼には、そう映った)というのである。
 エノケンの「多幸症的で狂騒的」な踊りは、黒澤監督のそうした「観察」に基づく演出だったのではないだろうか。改めて、この場面を再生してみると、音楽(服部正)もまた、いかにも解放的であることに気付く。やはりこの映画は、「敗戦直後」にふさわしい作品であり、終戦直後の日本人によって観賞されるべき映画だったと思う。

 以上が、2015年3月8日の記事である。以下は、その補足。
 敗戦の前後、黒澤明は、小田急線の祖師ケ谷大蔵駅の近くに住んでいた。祖師ケ谷大蔵駅と成城学園前駅は、ともに、東宝の撮影所の最寄り駅である(祖師ケ谷大蔵駅は、成城学園前駅より、一駅、新宿寄り)。
 黒澤明は、1945年8月15日、撮影所へ呼び出され、終戦の玉音放送を聴いた。その行きと帰りに、祖師ケ谷大蔵駅の商店街を通ったが、玉音放送の前と後とで、商店街の空気が一変していることに驚いた。
 この体験が黒澤監督をして、『虎の尾を踏む男達』の脚本修正、製作再開を決意させたのである。『虎の尾を踏む男達』の製作が始まったのは、あくまでも戦争末期である。中村秀之氏が説くように、敗戦直後に企画が生まれ、製作が開始されたわけではない。

*このブログの人気記事 2024・5・25(9・10位は、いずれも久しぶり、8位に極めて珍しいものが)

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この映画のモチーフは敗戦と天皇の処遇か

2024-05-24 01:00:20 | コラムと名言

◎この映画のモチーフは敗戦と天皇の処遇か

 黒澤明監督は、戦後版『虎の尾を踏む男達』に、どういう着想を盛り込んだのか。この作品に、どういうメッセージを託そうとしたのか。
 この問題については、もう一度、関係文献に当たった上で検討しなければならないところだが、今、ほかに調べ物があって、その余裕がない。
 とりあえず今回は、当ブログにおける過去の記事を、ふたつ引用し、それぞれに若干の補足を加えることにしたい。本日、引用するのは、2015年2月25日の記事「映画『虎の尾を踏む男達』(1945)と東京裁判」である。

◎映画『虎の尾を踏む男達』(1945)と東京裁判
 今月二二日〔2015・2・22〕の東京新聞書評欄は、中村秀之氏著『敗者の身ぶり――ポスト占領期の日本映画』(岩波書店、二〇一四年一〇月)を採り上げていた(小野民樹氏評)。また、同日の毎日新聞書評欄は、矢作俊彦氏著『フィルムノワール/黒色影片』を採り上げていた(池澤夏樹氏評)。
 この二冊の本には、共通点がある。それは、黒澤明監督の映画『虎の尾を踏む男達』(一九四五年九月製作、一九五二年四月公開)が登場することである。ふたつの書評においても、評者はそれぞれ、この黒澤作品について言及している。
 かつて私は、DVDで、『虎の尾を踏む男達』を鑑賞したことがある。畏敬する映画評論家の青木茂雄氏が、かねて、この映画を激賞していたからである。見てみて、大河内傳次郎の演技には感心したが、映画自体は、それほどの傑作とは思えなかった。
 ところが、小野民樹氏(大東文化大教授)は、前記書評の中で、次のように書いている。
《一九五二年四月二十八日に、「案外ひっそり」と独立を回復した以後の数年間「ポスト占領期」の日本映画の重厚な考察である。まずは、独立四日前に公開された『虎の尾を踏む男達』の不思議なラストシーン。著者はこの映画撮影中に8・15を知ったという黒澤明自身の流布した「神話」を文献資料によって覆し、敗戦の心境が既に読み込まれた映像だと論証する。義経はいまだ処遇不安定な天皇で、大空に溶け込んでいった弁慶ら臣下の軍人達は調達した強力〈ゴウリキ〉を置き去りにしたのだ。》
 これは、注目すべき指摘である。特に、「大空に溶け込んでいった弁慶ら臣下」という指摘に驚いた。私は、中村秀之氏の『敗者の身ぶり』という本は、まだ読んでいない。しかし、同書には、どうもそういうことが書かれているようなのだ。
 一方、池澤夏樹氏は、前記書評の中で、この映画を「進駐軍が公開を禁じたことで知られる作品」と紹介していた。寡聞にして、その事実も知らなかった。
 いずれにしても、この『虎の尾を踏む男達』という映画は、もう一度、見てみる必要があると思って、一昨日、しまってあったDVDを再び取り出した。
 インターネット情報によれば、冒頭、タイトルの下に、「1945年9月製作」という文字が出るという話だったが、私の持っているDVD(コスモ・コンテンツ)では、その字が出なかった(「東宝」という社名も出なかった)。
 再度、これを観賞してみると、細かいところまで神経が行き届いた映画であった。脚本(黒澤明)やカメラ(伊藤武夫)が、きわめて高いレベルにあることも確認できた。
 さて問題は、ラストシーンである。たしかに「不思議なラストシーン」である。
 一行は、富樫の使いの者(清川荘司)から酒の提供を受ける。たちまち、野外で酒宴が始まる。榎本健一演ずる「強力」も深酒し、その場に寝入ってしまう。ふと目を覚ますと、山伏たち一行がいない。思わず、エノケンが走り出すところで、エンドマーク。
 このとき、空にたなびいている雲が、実に不気味である。やはり、山伏たち一行は、「大空に溶け込んで」しまったのか。ということは、仁科周芳〈ニシナ・タダヨシ〉(のちの十代目岩井半四郎)演ずるところの源義経もまた、「大空に溶け込んで」しまったのか。それとも、源義経のみは、東北へ向かって旅を続けたのか。
 前引のように、この映画において源義経は、「いまだ処遇不安定な天皇」に擬されているらしい。ということであれば、この映画のモチーフは、敗戦とそれにともなう天皇の処遇とである。「安宅関」は、これから始まるであろう「東京裁判」を予見したものということになるが、はたしてこの見方は妥当か。

 以上が、2015年2月25日の記事の全文である。
 中村秀之氏は、「弁慶ら臣下の軍人達」が「大空に溶け込んでいった」と見立てたが、DVDを見なおしたところ、この見立てには無理があると思った。源義経、そして弁慶らの臣下は、エノケンを置き去りにして旅立ったと見るほうが自然であろう。
 一方、この映画を「敗戦の心境が既に読み込まれた映像」とする中村氏の見方は当たっていると思う。源義経を「いまだ処遇不安定な天皇」とする捉え方も鋭い。おそらく黒澤明監督は、戦中版『虎の尾を踏む男達』に、そういう着想を盛り込むことで、これを、戦後版『虎の尾を踏む男達』に改編しようとしたのであろう。
「安宅関」は、これから始まる「東京裁判」を予見したものと書いたが、これは、あくまでも礫川の仮説である。この仮説に従うと、弁慶らの臣下は、富樫左衛門(とがしのさえもん)の部下たちによって、安宅関に連れ戻されたという見立てが可能になる(源義経は、東北への旅を続ける)。

*このブログの人気記事 2024・5・24(8・9・10位に珍しいものが入っています)

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脚本修正によって『虎の尾を踏む男達』の戦後版が

2024-05-23 03:00:25 | コラムと名言

◎脚本修正によって『虎の尾を踏む男達』の戦後版が

 ここで、映画『虎の尾を踏む男達』についての情報を整理しておきたい。 

 1 インターネット情報によれば、映画の冒頭、タイトルの下に、「1945年9月製作」という文字が出るという。私が鑑賞したDVD(コスモ・コンテンツ)では、その文字が出ない(「東宝」という社名も出ない)。
 2 出演者のひとり十代目岩井半四郎は、1994年に、この映画のクランクインは、敗戦直後の8月20日だったと証言している。岩井半四郎の当時の芸名は仁科周芳(にしな・ただよし)。映画では、源義経を演じた。
 3 東宝で長く助監督をつとめ、後にシナリオライターとなった廣澤榮(えい)は、敗戦直後の8月20日に、撮影が「再開」されたと書いている。廣澤がその時に撮影現場で聞いた話によると、クランクインは、敗戦直前の7月下旬だったという。
 4 黒澤明監督は、敗戦直後、数日間で『虎の尾を踏む男達』の脚本を書き上げたと述べているが、脚本は、すでにできていたのではないか。黒澤監督は、敗戦直後、数日間で『虎の尾を踏む男達』の脚本に修正を加え、その上で製作を再開したというのが真相に近いと思われる。
 5 この映画のラストは、義経・弁慶らの一行が、野外で酒宴を催す場面である。ここで、エノケン(榎本健一)扮するところの「強力」が、狂騒的な踊りを見せる。深酒して寝入ってしまったエノケンが目を覚ますと、すでに誰ひとりいない。夕暮れが迫るなか、一行を追って、エノケンが走り出すところで、エンドマーク。

 これらの情報を総合すると、次のようなことが言えるだろう。
『虎の尾を踏む男達』が企画されたのは戦争末期。脚本ができ、キャスティングなども決まっていた。戦争末期、すでに撮影が開始されていた可能性も否定できない。
 敗戦直後、黒澤明監督は、脚本の一部を修正した上で、同映画の製作を再開する。ラストの酒宴の場面は、この修正によって加えられたものであろう。エノケンを起用することも、この修正によって決まったのであろう。
 こうした修正は、敗戦という事態を踏まえたものであった。黒澤監督は、既存の脚本に、敗戦という事態を象徴するような着想を盛り込んだ。戦争末期に企画された『虎の尾を踏む男達』は、戦後版『虎の尾を踏む男達』として、生まれ変わったのである。
 では、黒澤監督は、戦後版『虎の尾を踏む男達』に、どういう着想を盛り込んだのか。この作品に、どういうメッセージを託そうとしたのか。

*このブログの人気記事 2024・5・23(9位になぜか細江逸記)

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『虎の尾を踏む男達』は、一度、製作中止になった

2024-05-22 00:59:22 | コラムと名言

◎『虎の尾を踏む男達』は、一度、製作中止になった

 脚本家の植草圭之助は、その著書『わが青春の黒沢明』(文春文庫、1985)の中で、戦争末期における黒澤明について、いろいろと語っている。
 同書の53ページ以下を引用してみよう。

 私が初めて書いたシナリオ『母の地図』は東宝の島津保次郎〈ヤスジロウ〉の演出で映画化され、興行成績は最高だったが、朝日新聞の映画欄で当時、自ら情報局の旗振りをも って任じ映面批評の権威、帝王的存在を誇っていた津村秀夫(ペンネーム=Q)から批判をうけた。
 作品のクライマックスである、母親役の杉村春子と末娘の原節子が、出征する次男役の大日方伝〈オビナタ・デン〉を見送るシーンがあまりにリアリズムで暗すぎること、原節子と恋人役の森雅之との恋愛が生ま生ましく悲劇的であり過ぎるという二点を挙げ、この種の映画をつくる監督も作者も非国民である、今後、心を改め国策の線に即した作品づくりに挺身すべきであるときめつけられていたのだ。
 東宝へ移籍する前も松竹蒲田撮影所時代から庶民映面の代表的演出家で、〝巨匠〟とか〝オヤジさん〟の異名で通ってきた島津監督はその後、私の顔を見ると、
「くさることはないよ。津村の野郎出会ったら首の根っこ叩き折ってやる。『母の地図』は芸術だよ。戦前ならベスト・テンものさ。それだけは自信持とう。帝王とか権威者だとか笑わせる。おれはね、ゼッタイに戦意昂揚や国策映画は作らねえぞ、たとえ、口が干上がってもな」
 豪放に笑い、私の肩を叩いた。
 私は慰められ、そのたびに自分の生き方に微か〈カスカ〉ながら自信を持つことができたのだ。あの日、黒沢から出されたシナリオの話を心に温かく感じながらも、すぐに彼の友情に応える返辞ができず、とにかく、生活が落着いたら読ましてほしい、ということで別れたのだったが――。
 演出部の部屋に入ると、スケジュール表の『黒沢組』の欄は空白になっていて連絡もつきそうになかった。
 傍〈ソバ〉で雑談していた二、三人の助監督の一人から、黒沢が最近、結婚したことを知らされた。
 黒沢の第二回監督作品――レンズ工場に動員された女子艇身隊の動労精神の美事さとその生態を描いた『一番美しく』のヒロイン役を演じた矢口陽子で、仲人は森田信義〈シンギ〉夫妻だったとのことであった。
 私が流転していたこの三カ月の間に黒沢は『虎の尾を踏む男達』が一時製作中止になったあと『続・姿三四郎』を撮り上げ、結婚式までしていたことを知って、戦況などに捉われずエネルギッシュに行動する、その超人間的な生き方に唸らされた。
「スイートホームは何処なの」と私は訊いた。
「祖師ヶ谷大蔵〈ソシガヤオオクラ〉の駅からちょっと入ったところ……行くなら地図書きますよ」
 とメモに略図を書いてくれたが、傍の一人が、
「いま東京にいないらしいですよ、ハネムーンかな……撮影もずーっと休みだし」
 と言った。それにつづいて、空襲が激しくなり俳優がスケジュール通りに集まらず、予定がまったくたたないのでどの組でも中止状態なのだという話になった。
 前途への不安から、みんな暗い顔附きになっていた。
 私は礼を言って部屋を出た。
 長身、白皙〈ハクセキ〉の黒沢明と清純女優の名に恥じないうつくしい矢口陽子との一対は、さぞ似合いであろうと思い、祝福すると同時に、言い知れぬ寂寥を感じていた。
 羨望というよりは、おれという人間は仕事の面でも、社会的人間としても、ちょうど小学校時代、運動会の徒競走でいつも出おくれたり、転んだりでビリッケツを走っていたように、人生マラソンでも、つねに、障害にぶつかり最後尾を走っている、という実感がつよく胸にきたのだ。

 長々と引用したが、注目していただきたかったのは、『虎の尾を踏む男達』に言及している部分である。植草圭之助は、この映画の製作が戦争末期に開始され、一度、「中止」になったと述べている。
 黒澤明監督の第一作は『姿三四郎』(1943年3月公開)であり、第二作は『一番美しく』(1944年4月公開)であった。植草によれば、『一番美しく』のあと、『虎の尾を踏む男達』の製作が始まったが、それが「一時製作中止」となり、結果として、黒澤の第三作は、『続・姿三四郎』(1945年5月公開)になったという。
 この植草の証言は信じてよいと思う。『虎の尾を踏む男達』は、戦争末期に製作が始まったが、何らかの理由で「一時製作中止」となり、その状態のまま、敗戦を迎えたということであろう。【この話、さらに続く】

*このブログの人気記事 2024・5・22

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