加藤周一さんが言う「ぜいたく」「ぜいたく」贅沢と言えば、何を想像されるでしょうか? 海外旅行が、すでに贅沢とは呼べないくらいになって久しい今、何を以て贅沢とするかは、意外に難しい問いなのか...
霊的な教育。霊的とは、スピリチュアル、ということですね。
1998年に改定された、WHO(世界保健機関)の「健康」の定義によれば、
Health is a dynamic state of complete physical, mental, spiritual and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.
この霞が関の翻訳はウソとゴマカシに満ちています。mental とspitirualを一緒くたにして「精神的」と訳してしまってますからね(http://www.japan-who.or.jp/commodity/kenko.html)。
人間が健康でいるためには、「霊的にも幸せ」である必要があることがハッキリしている時代です。
内村鑑三は、中江藤樹の章で、WHOと同様に、身体と心と霊の事情に合わせて、薫陶することが、教育において大事だと言います(岩波文庫版の鈴木俊朗先生の翻訳では、「霊的」ではなくて、「精神的」と訳されている)。
内村鑑三が強調している中江藤樹先生の教育の特色は、「感化」でしょう。しかも、感化しようなどと言うスケベ根性で感化するのではありません。自分が感化しているなどとは思わないで、感化するのが、藤樹先生の感化でした(岩波文庫版、p.135)。その昔、児童自立支援施設、教護院が、「感化院」と呼ばれていた、その「感化」です。これって、単なる知識の伝授でもなければ、カリキュラムの完全実施でもない訳でしょ。感化と言えば、相手が感じることでしょうから、知的て言うよりも、感性的。客観的と言うよりも、人格的。人格の香りを子ども等が感じて、その、すぐには言葉にならない感じを、育んでいくことでしょう。これは、エリクソンが繰り返し ” a sense of ~ “ と言ってきていることと完全に重なりますね。
私に言わせたら、霊的な教育とは、まずは、センス senseの教育だ、ということになりますね。ですから、それは、文字ではなくて、いわば、不立文字で伝えるものでしょう。