脳脊髄液減少症患者のつぶやき、「とりあえず、生きてみよか・・・。」

過去から現在へ、脳脊髄液減少症、体験克服記。

今夜、NHKスペシャルで「黒い雨」

2012年08月06日 | つぶやき

本日、NHKスペシャルで「黒い雨」が放送される。

「黒い雨」 活かされなかった被爆者調査

ぜひ、皆さんで見て考えてほしい。

 

今から67年前の今日、広島に原子爆弾が落とされた。

いくつもの罪のない人たちの命が奪われ、

生き残った者も、放射線による障害に苦しめられ続けた。

今も、当時の被ばくでの後遺症に苦しむ人たちがいる。

昨年のこの時期も、当時自分たちは原爆投下後の放射能を帯びた「黒い雨」を浴びたことを証明し、

自分たちの症状が原爆症であることを証明するために頑張っている

高齢の人たちの存在を知った。

自分が長年苦しんできた症状と、原爆との因果関係を、病んだ、障害を負った患者本人が

証明しなければならない過酷さ、残酷さ、理不尽さは、私も想像できる。

 昔から、弱者切り捨ての国の姿勢は、

どんな病、症状であっても、

なんら変わらないのだと感じた。

 

過去から何も学ばず、また、同じことで弱者を苦しめ続ける

この国の将来に失望する。

 

 

原爆症と認められない患者さんたちが、

高齢化してもなお声を上げ続けることに触れるたび、

その気持ちが痛いほど伝わってきて、

胸をしめつけられる。

 

私たちも交通事故での衝撃が原因で、脳脊髄液が徐々に漏れていたのに、

症状が、事故後すぐでなかったことや、

症状が脳脊髄液漏れだと気づくのが遅かったために、(それは被害者のせいではないのに)

事故との因果関係を、自分で証明しなければならない、

そういった状況が私たちと似ている。

 

水俣病でも、原爆症でも、交通事故での髄液漏れでもそうなのだが、

原因があって症状が出たのに、

それに、なかなか気付けなかったのは、患者のせいではないのに、

症状があって、医師を受診していたのに、

自分の症状とその原因の因果関係に一部の患者が気づいても、

家族の助けもなく、自分ですべて、その因果関係を証明せよというのは、

あまりにも過酷な話だ。

 

自分で気づくことさえできない人もいる中、

気づき、声を上げたのは、全体の患者のごく一部にすぎないことは想像できるはずなのに、

その気づいて声を上げたごくごく一部の人たちの訴えですら、退けられる。

 

脳脊髄液減少症体験者の生の声が活かされていないのは、

脳脊髄液減少症の診断基準を見てもそうだ。

 

原爆症でも、水俣病でも、脳脊髄液減少症でも、

症状や病名は違っても、

ただでさえ苦しい症状に加えて、

さらに「原因と症状の因果関係を認めない」ことで、

人々を苦しめ続けることには、なんら違いはないと思う。

 

過去の人々を苦しめた過ちから、なんら学ぶことなく、

同じことを繰り返し続けているようにしか、

私には思えない。

 

脳脊髄液減少症を発症した当時、

その時代に、日本中の医師が、外傷性の髄液漏れの存在なんて

知らない時代、

患者は苦しい身体症状で働けなくなったり、

訴える気力も体力も奪われていたりで、

生きるのもやっとで、

脳脊髄液漏れでの高次脳機能障害で、闘うための知恵さえ、低下している人間にとって、

その後に、髄液漏れと気づいたからといって、

当時の原因と自分との症状の因果関係を「自分自身で証明せよ」というのは

あまりにもひどすぎる話だ。

 

今後は、

たとえば、

「自分の症状はその原因しか考えれらない。」と自分で気付くことができた人は、

 

せめて、

国営の熱意あふれる弱者が頼れる第三者調査機関があって、

そこに電話一本かければ、健康で、行動力あふれる、探偵みたいな鋭い洞察力と、

正義感あふれる患者救済寄りの調査員が無料で調査して、証明してくれるような、仕組みを作ってもらいたい。

 

それなら、患者に代わって声を上げ、精神的、経済的、肉体的に助けてくれる家族がいない孤独な人たちであっても、

このような理不尽な災難に見舞われても、

救われる可能性もあるかもしれない。

 

しかし、現実にはまだ、そんな夢物語の支援策は一切なく、

「病の症状でヨレヨレの病人に、自分で証明せよ、自分で申請に来い」という国の姿勢は

あまりにも冷たいと感じる。

 

放射能を帯びた黒い雨を浴びた証拠、

それをいつ、どれだけ、どこで浴びたかと正確な記録と、

その証明、

当時の症状を示すカルテ、

当時の自分の日記、

症状を証明する写真、

家族や仲間たちの証言、

 

あの原爆投下後の人々が生き延びるので必死の中、

どうやってそれらの証拠を残せるというのだろうか。

それを、どうやって、今見つけ出し、証明できるというのか。

 

病に伏してもなお、タフな記者のような行動力と、

どんな環境にあっても証拠を残す努力をしたものしか、

認められないということにならないか。

 

つまり、病人が、自分が病気になった原因を、自分で証明せよというのは

本来、無理な話なのだ。

 

原爆症や水俣病の未認定問題に触れるたび、

 

外傷性脳脊髄液減少症の概念のない時代に交通事故で髄液漏れを起こし、

症状に苦しめられながらも、事故との因果関係が認められない

私たち患者の理不尽さと、とても似ている気がする。

最近の交通事故での脳脊髄液減少症患者さんはまだ恵まれている。

病名がある時代の事故で、医師も知っていて、早く診断に至れるのだから。

診断までの時間が長ければ長いほど、原因と症状の因果関係を証明することは難しくなってくる。

 

福島の原発事故でも、今後同じような問題が起こってくる気がして、恐ろしいと思う。

 

交通事故被害者での脳脊髄液減少症患者の多くは、

どんなに理不尽さを感じてはいても、

自分では訴えを起こすことも体力的、気力的、経済的に無理な患者が多い中、 

脳脊髄液減少症を最近発症した患者さんの中の、

ごく一部の家族の理解と支援に恵まれた人たちのみが、

家族が本人に代わって訴えを起こし、熱心に闘ってくれている。

本人に代わって親身になって声を上げ、必死で、交通事故と症状の因果関係を訴えても、

裁判所はその訴えを退けつづけてきた。

 

全体のごく一部の、精神的、経済的、肉体的支援者の家族がいてさえ、こうだ。

だもの、誰の支援もない、病に伏した脳脊髄液減少症患者たちは、

声を上げることすらできないまま、泣き寝入りだ。

なんと残酷なことか。

 

 

原爆症の教訓も、水俣病の教訓も、

少しも現在に生かされていない。

 

人がさらに人を苦しめることを、

もう、そろそろやめる時期じゃないか。

 _________________________

6月26日 朝日新聞 「被爆地域拡大認めず」

体験者の訴えしりぞける。長崎地裁

 

6月26日 西日本新聞

「被爆体験者」敗訴 長崎地裁 被爆者と認定せず

 

長崎県保険医協会

被爆地域拡大に関する質問状

 

長崎県保険医協会

「被爆体験者」訴訟の判決に関する見解

 

実際に体験した人の生の声よりも、

一度も体験したこともない人が

机上で考えたことが、真実としてまかりとおる、

そんなバカなことを続けていたら、この国はダメになるんじゃないかい?

体験者の言い分はみな「金目当ての詐欺師」「人はみな悪人」という思考が、

今も最優先でまかり通り、

「体験者の中にある、圧倒的にあるはずの真実」はすべて封印してしまうような

司法制度はおかしいんじゃないかい?

 

今後は、「体験者の言い分と、存在するデータ、最近わかってきた事実をすり合わせて、

大きなズレがなければ、体験者の言い分を優先してくれるような

司法に、改革してもらいたい。

そのためには、

法律を変えることが必要なのかもしれない。

 

現在の司法は、大昔の日本の歴史から続く、

拷問や、自白強要による、過去のいまわしいいきすぎた人権侵害、冤罪を多数生んだ時代に、

人権を保護するためにできたような気が私はしてならない。

だから、訴える方より、訴えられた方の人権や、

被害者より、加害者の人権の方が、手厚く守られているような気がする。

本来、人を理不尽な仕打ちから守るための、人権を保護しようと生まれた仕組みが、

最近では履き違えられ、加害者の人権ばかりが優先して守られていている気がする。

 

脳脊髄液減少症に関する訴訟にしても、

皆が手を組んで必死で、加害者をかばい、

被害者の人権が、ぜんぜん守られていないと感じる。

 

とにかく、過去の歴史から学んで、

過ちは繰り返さないでほしい。

 _________________________

毎日新聞 2012年7月2日被爆体験者訴訟:原告395人が福岡高裁に控訴

 

毎日新聞 ナガサキ平和リレー 

被爆体験者「真実は必ず勝つ」(その1)

        「真実は必ず勝つ」(その2)

        「真実は必ず勝つ」(その3)

 

私も「真実は必ず勝つ」とは思っている。

でも、それは過去の歴史を見ても、その人の生きた時代に「勝つ」とは限らない。

ガリレオしかり、メンデルしかり。

 

今までの歴史を振り返ると、どんなに当時突拍子もない考え方、意見であっても、

その当時の科学ではどんなに証明が難しいものであったとしても、

その何十年後、何百年後かに、

「真実であるなら、それは必ず世の中に、世界中に認められる日がくる」いうことだ。

でも、

できれば、真実が認められるのは、早ければ早い方がいいに決まっている。

そのためにも、声を上げられる気力、体力、経済力、

余力のある人たちは、

黙っていてはいけないと思う。

 

 

                

 

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