遠州の遺跡・寺社 55 東区和田町の貴船神社(木船神社)
遠州の銅鐸では、都田の「銅鐸の谷」が有名ですが,それ以外でも、三ヶ日や湖西や磐田郡敷地、そして天竜川下流の平野で銅鐸が出土しています。
和田町のJR東海道線沿いにある「ルミナリー・プレスクール」という保育園のすぐ横に、この小さな貴船神社があります。
この貴船神社の35mから40m南西で、1908年(明治41年)、畑を削り田んぼにする作業中に深さ2mから2個の銅鐸が出土しました。
三遠式銅鐸で、現在は東京の国立博物館にあります。1号鐸には鳥が描かれています。(浜松市博物館『浜松の銅鐸』2007年3月25日発行、による)
貴船神社に向かう方向は20度です。つまり、神社は南(180度)から20度西に振れていますが、これはこの付近の道路区画の方向なので、神社自体が道路に合わせて方向を建て替えたかもしれません。
おもしろいのは、この付近に、古代の「木船廃寺」があったことです。
ネットで「浜松市 木船廃寺」で検索すると、引っかかります。浜松市は,2010年に発掘調査をして、大量の瓦が出土、この木船廃寺が、飛鳥時代の7世紀後半から、奈良時代の8世紀後半まで100年以上存続したことを確認しました。
しかもこの近辺に「永田」という地名があり、この付近に古代の「長田」郡衙があったことが推定されました。
つまり、弥生時代の銅鐸から始まって、奈良時代の郡衙に至るまで、一カ所の土地に一貫していたことがわかったわけです。
はたして、弥生時代から奈良時代まで、人々の一貫性・同じ一族がずっとここにいた可能性はあるのでしょうか?
もちろん、同じ水田農業ですが、通常は弥生の銅鐸と、古墳時代・奈良時代とは断絶しているという歴史感覚が一般的です。
銅鐸圏の東の端の、ここ天竜川の沖積平野では、人々のゲノムは一貫して続いていたのでしょうか。
それとも弥生の先住民を征服して合流したか、それとも一掃したのか?
いまはまだ、真実はわかりません。
遠州の銅鐸では、都田の「銅鐸の谷」が有名ですが,それ以外でも、三ヶ日や湖西や磐田郡敷地、そして天竜川下流の平野で銅鐸が出土しています。
和田町のJR東海道線沿いにある「ルミナリー・プレスクール」という保育園のすぐ横に、この小さな貴船神社があります。
この貴船神社の35mから40m南西で、1908年(明治41年)、畑を削り田んぼにする作業中に深さ2mから2個の銅鐸が出土しました。
三遠式銅鐸で、現在は東京の国立博物館にあります。1号鐸には鳥が描かれています。(浜松市博物館『浜松の銅鐸』2007年3月25日発行、による)
貴船神社に向かう方向は20度です。つまり、神社は南(180度)から20度西に振れていますが、これはこの付近の道路区画の方向なので、神社自体が道路に合わせて方向を建て替えたかもしれません。
おもしろいのは、この付近に、古代の「木船廃寺」があったことです。
ネットで「浜松市 木船廃寺」で検索すると、引っかかります。浜松市は,2010年に発掘調査をして、大量の瓦が出土、この木船廃寺が、飛鳥時代の7世紀後半から、奈良時代の8世紀後半まで100年以上存続したことを確認しました。
しかもこの近辺に「永田」という地名があり、この付近に古代の「長田」郡衙があったことが推定されました。
つまり、弥生時代の銅鐸から始まって、奈良時代の郡衙に至るまで、一カ所の土地に一貫していたことがわかったわけです。
はたして、弥生時代から奈良時代まで、人々の一貫性・同じ一族がずっとここにいた可能性はあるのでしょうか?
もちろん、同じ水田農業ですが、通常は弥生の銅鐸と、古墳時代・奈良時代とは断絶しているという歴史感覚が一般的です。
銅鐸圏の東の端の、ここ天竜川の沖積平野では、人々のゲノムは一貫して続いていたのでしょうか。
それとも弥生の先住民を征服して合流したか、それとも一掃したのか?
いまはまだ、真実はわかりません。