雨宮日記 10月22日(土)の2 細江町で宗良親王のシンポ
今日は、北区細江町気賀の「みおつくし文化センターホール」で「宗良親王生誕700年記念 南北朝シンポジウム」というのがあったので、則子さんと車で出かけました。
事前に「12時に出ようね」と、おおまかな約束をしていても、則子さんは雨宮家の「4人家族」の「主婦」というより「家長=責任者」ですから、兎の食事を心配して、洗濯物の心配をして…とすぐには出発できないですね。
ぎりぎり開会の午後1時近くに会場に車で近づいたら、近くの臨時駐車場に案内されて、会場は満杯でした。
則子さんも、ぼくも戦後派なので、なにしろ南北朝内乱や、楠木正成や後醍醐天皇の基礎知識がなくて、そういう基本講演があってもよかったなと思いました。
ぼくたちより年上の世代が9割と見ましたが、どういうつてなのか、若い20代・30代に見えた人たちもいました。
この14世紀の「南北朝内乱時代」については、またきちんと書きたいですが、大事なのは「なぜ遠州が南朝の拠点になったのか」ということです。
報告・発言は、玉石混淆で、井伊之谷宮宮司さんの宗良親王(むねながしんのう)についての報告はよかったです。
次の三河の「研究者」という方の発言は、歴史なのか,伝説なのか、境目のない報告で、歴史なのか文学なのか、まるで浜松地方の「坂上田村麻呂伝説」や「曳馬城落城の時の椿姫抵抗伝説」のように思いました。
長慶天皇さんは、現在の学会ではその存在が認められていますが、それは南朝の存在した「吉野」での話で、「長慶天皇の宮が三河にあった」というのは、ほとんど「伝説」で、それが実在の歴史という主張なら、ほとんど「オカルト」の領域です。
地方自治体のからむ「歴史」の怖さは、一部の人は「東日流(つがる)外三郡誌」事件で身に染みたと思うのですが、いまだに懲りない人たちは、いっぱいいるのですね、と思いました。
収穫だったのは、浜松市南区の白羽にむねなが親王が嵐で漂着した伝説と、そのむねなが親王が今の浜松北校前の「三社神社」に立ち寄って「あわがゆ」を御馳走になった伝説ですね。おもしろいです。
今日は、北区細江町気賀の「みおつくし文化センターホール」で「宗良親王生誕700年記念 南北朝シンポジウム」というのがあったので、則子さんと車で出かけました。
事前に「12時に出ようね」と、おおまかな約束をしていても、則子さんは雨宮家の「4人家族」の「主婦」というより「家長=責任者」ですから、兎の食事を心配して、洗濯物の心配をして…とすぐには出発できないですね。
ぎりぎり開会の午後1時近くに会場に車で近づいたら、近くの臨時駐車場に案内されて、会場は満杯でした。
則子さんも、ぼくも戦後派なので、なにしろ南北朝内乱や、楠木正成や後醍醐天皇の基礎知識がなくて、そういう基本講演があってもよかったなと思いました。
ぼくたちより年上の世代が9割と見ましたが、どういうつてなのか、若い20代・30代に見えた人たちもいました。
この14世紀の「南北朝内乱時代」については、またきちんと書きたいですが、大事なのは「なぜ遠州が南朝の拠点になったのか」ということです。
報告・発言は、玉石混淆で、井伊之谷宮宮司さんの宗良親王(むねながしんのう)についての報告はよかったです。
次の三河の「研究者」という方の発言は、歴史なのか,伝説なのか、境目のない報告で、歴史なのか文学なのか、まるで浜松地方の「坂上田村麻呂伝説」や「曳馬城落城の時の椿姫抵抗伝説」のように思いました。
長慶天皇さんは、現在の学会ではその存在が認められていますが、それは南朝の存在した「吉野」での話で、「長慶天皇の宮が三河にあった」というのは、ほとんど「伝説」で、それが実在の歴史という主張なら、ほとんど「オカルト」の領域です。
地方自治体のからむ「歴史」の怖さは、一部の人は「東日流(つがる)外三郡誌」事件で身に染みたと思うのですが、いまだに懲りない人たちは、いっぱいいるのですね、と思いました。
収穫だったのは、浜松市南区の白羽にむねなが親王が嵐で漂着した伝説と、そのむねなが親王が今の浜松北校前の「三社神社」に立ち寄って「あわがゆ」を御馳走になった伝説ですね。おもしろいです。