新・本と映像の森 224 藤原審爾(しんじ)『落ちこぼれ家庭 (上)』新潮文庫、1982年
藤原審爾さんは小説家。『死にたがる子』、『落ちこぼれ家庭』、『結婚の資格』の3部作の第2作。
評論家直作とその一人娘曜子。曜子は裕士と結婚を控えている。直作は妻に死別し森鷹枝とつきあっている。
裕士は名谷家の長男。名谷家は名谷夫妻と裕士の妹・高校生の宗子と弟・晴景の5人。
物語は発端で宗子が突然、家出するところから始まる。宗子といっしょに家出した少女アコの沢家も含めて3つの家庭のそれぞれが語られる。
以下、いろんな場面で語られる言葉のいくつか。
「休んだりのんびりしてはいけないということではないんだ。コンスタントというのも、それぞれの個性的な方法でたればいいんでね。……人間も目一杯生きることが、本性なのでね。自分の意識なんでね、意識をいきいき使えばいいんだ。……人類がこの社会環境で生きていくためには、それにたよるしかなかったので、そういう機能を人類は育てたのだよ。」(p69)
「いったいどこがいけないことなんだろう。
動物たちの場合は、個体の成熟からおこる第一義的な行為であって、あいまいな部分はない。しかし人間の場合は、ひどくあいまいである。人間にてっても、第一義的な行為であろことには違いないが、そういう風に端的にあつかわれない。
1人の少女が身体的に成熟したという現実を、二義的なものにあつかい、人間的な成長の部分的な条件とみんすことで、軽視する。
問題はこの軽視なのである。」(p118)
「その景子は、実際の景子ではなくて、彼自身が勝手に心の仲でつくりげた像なのである。その像と一緒に何十年も自分は暮らしてきたのではないか。」(p210)
「たいてい、いつもこれでなんとなく考えがまとまったような気がする。この2つの思いの組合せは、個別性と普遍性の組合せであり、分析と総合の組合せである。それでなんとなく考えたような気がし、結論をつかんだような気になるのである。
特徴のつかみかたが一面的であったり、概念そのものが浅薄なものであれば、むろん答えは誤ったものでしかないのだが、しかし考えたという気にはなれるのである。」(p214~215)
「意志的な行動派、自分にとっては意義のあることだけど、的確な行動になっているかどうかは、別のことでしょ。……自分のことは自分でちゃんとするというのは、とても聞こえがよいけど、わたしはそんなふうには子どもを育てなくてよ。……でも普通の頭と心の人でも、ぱっと夢中で助けるということが出来るのよ。それはそこにある状況と頭とがよく深く結びついている人なのね。状況がしなければならない行為を示しているのよね。示されたとおりにやればいいのよね。」(p270)
ボクたちが結婚する40年前のころに読んで考えさせられた。傑作だと思う。いま思えば、藤原審爾さんの提起は「家庭」の仲だけに限らず、仕事・家庭・趣味・集団・組織など人間活動のあらゆる面に摘要するのが正しいと思う。
家庭だけに議論を局限するのはボクは賛成しない。というより、それでこそ提案の趣旨が生きるのだと。
人生の全局面で気配りをしてこそ、その人の人生は「生きる」のだと思う。