雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

遠州の遺跡・寺社3 山神社と蜆塚遺跡

2009年11月21日 16時42分10秒 | 遠州古代史
遠州の遺跡・寺社 山神社と蜆塚遺跡


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浜松市の縄文時代と言えば蜆塚遺跡、蜆塚遺跡と言えば縄文時代、という風に浜松市民の頭の中には、縄文時代=蜆塚遺跡という等号ができていると思います。
 その有名な蜆塚遺跡のすぐ南側、つまり蜆塚遺跡と浜松市博物館の間に、小さな神社があることはあまり知られていないと思います。
 博物館の駐車場へ車を入れてすぐ北へ歩くか、それとも蜆塚遺跡の駐車場へ車を入れてすぐ南へ歩くかすると、その「山神社」が見えてきます。
 祭神は大山ずみ命(おおやまずみのみこと)。
 1982年に静岡県神社庁浜松支部が編集発行した『浜松市神社名鑑』(p54)では「当社は、その起源がが詳かではないが、往古より蜆塚遺跡の」と書いてあります。「往古」とはいつなのでしょうか。

 山神社の祭神のオオヤマヅミ神は、佐々木高明さんの『日本文化の基層を探る』(NHKブックス)にあるように日本土着のおそらく南方系の海人の神です。オオヤマヅミの娘がコノハナノサクヤヒメです。佐々木さんは「南島系の海人の系統というのは」「本州南岸を黒潮にのって志摩から伊豆の三宅島、伊豆の三島と展開し」(p179)と書いています。
 佐々木氏は年代を特定していませんが、伊豆諸島に少なくとも縄文時代から海人が展開しているのです。

 蜆塚遺跡の住民をオオヤマヅミ神を信仰する南方系の漁民(海人)と推測することは空想でしょうか。縄文時代の「往古」から蜆塚の集落の横に山神社があったと考えるのは空想でしょうか。今後の具体的課題としたいと思います。
 なお、山神社は東向きであり、当然太陽信仰の神社だと推測されます。

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 谷川健一さんは『青銅の神の足跡』(集英社、1979年)で「古い地名、伝承、氏族、神社。この四つを組み合わせることで、文献記録ではたどれない古代に遡行することができると考える。もとよりそこには考古学の助けが必要であるが。」と書いています。私は、これに共感するとともに「遺跡・古墳」も組み合わせて考えたいと思います。

 なお、蜆塚遺跡のなかの南端部分に「蜆塚古墳」があることも付記しておきます。

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