遠州の遺跡・寺社2 遠江「若倭部」の万葉歌と木簡
1 「麁玉郡若倭部」の兵士の歌
「万葉集」の中には、いまの静岡県西部、当時の「遠江」で読まれた歌が「東歌」として掲載されています。
「巻第二十」に、「天平勝宝七歳乙未の二月に、相替りて筑紫に遣わされた諸国の防人等の歌」があり、「4321」から7首、遠江の歌が載っています。
「4322」番が「主帳丁麁玉郡若倭部身麿」による次の歌です。
「わが妻はいたく恋らし 飲む水に影さえ見えて 世に忘られず」。
意味は、「わたしの妻は かなり私を恋しているらしい 私の飲む水に 妻の面影さえ見えて どうしても 忘れることができない」
現代的に考えると、かなり屈折した表現ですが、この古代兵士、性は「若倭部」、名は「身麿」の、遠く筑紫、つまり九州へ送られるときに、故郷に残してきた妻への、切々とした思いが伝わってきます。
「麁玉郡」は「あらたまぐん」と読みます。古代の遠江の地名で、浜松市では、「有玉郡」または「有玉神社」として残っています。
「若倭部身麿」は、解説書に従っていまのことろ「わかやまとべむまろ」と発音しておきます。
この「若倭部」の名前が付いた神社が浜北市にはあります。宮口の庚申寺のすぐ横に、現在は「八幡神社」という名前ですが、明治維新までは「若倭部神社」でした。
2 伊場木簡の「若倭部」
浜松市東伊場の弥生から律令にいたる複合遺跡「伊場遺跡」で出土した「伊場木簡」の中に、「若倭部」の名前が現れています。
伊場木簡では、若倭部の姓をもつ人名は24例に達し、宗宣部(そがべ)・語部(かたりべ)のそれぞれ10例を倍以上上回っています。
(『静岡県史 通史編1 原始・古代』静岡県、p469)
その中に「已亥年五月十九日渕評竹田里若倭部連老末呂」と書かれた木簡があります。「已亥年」とは699年(文武三年)であり、「渕評」とは、伊場遺跡にあった「評役所」と推定されています。
つまり、古代の「若倭部」は、浜松市の伊場遺跡付近と、浜北市の宮口から浜松市の有玉にかけてと二カ所に拠点を持っていたか、それとも伊場遺跡付近から浜北市宮口付近まで広い範囲に分布していたかということになります。
「若倭部」は、『万葉集』という古代文献と、伊場木簡という古代の直接文字史料と、神社名という現代に残る資料と、3つの系統で確認されていることになるのです。
(「遠江と古代史の森」に2005年1月17日UPしたものを再録)
1 「麁玉郡若倭部」の兵士の歌
「万葉集」の中には、いまの静岡県西部、当時の「遠江」で読まれた歌が「東歌」として掲載されています。
「巻第二十」に、「天平勝宝七歳乙未の二月に、相替りて筑紫に遣わされた諸国の防人等の歌」があり、「4321」から7首、遠江の歌が載っています。
「4322」番が「主帳丁麁玉郡若倭部身麿」による次の歌です。
「わが妻はいたく恋らし 飲む水に影さえ見えて 世に忘られず」。
意味は、「わたしの妻は かなり私を恋しているらしい 私の飲む水に 妻の面影さえ見えて どうしても 忘れることができない」
現代的に考えると、かなり屈折した表現ですが、この古代兵士、性は「若倭部」、名は「身麿」の、遠く筑紫、つまり九州へ送られるときに、故郷に残してきた妻への、切々とした思いが伝わってきます。
「麁玉郡」は「あらたまぐん」と読みます。古代の遠江の地名で、浜松市では、「有玉郡」または「有玉神社」として残っています。
「若倭部身麿」は、解説書に従っていまのことろ「わかやまとべむまろ」と発音しておきます。
この「若倭部」の名前が付いた神社が浜北市にはあります。宮口の庚申寺のすぐ横に、現在は「八幡神社」という名前ですが、明治維新までは「若倭部神社」でした。
2 伊場木簡の「若倭部」
浜松市東伊場の弥生から律令にいたる複合遺跡「伊場遺跡」で出土した「伊場木簡」の中に、「若倭部」の名前が現れています。
伊場木簡では、若倭部の姓をもつ人名は24例に達し、宗宣部(そがべ)・語部(かたりべ)のそれぞれ10例を倍以上上回っています。
(『静岡県史 通史編1 原始・古代』静岡県、p469)
その中に「已亥年五月十九日渕評竹田里若倭部連老末呂」と書かれた木簡があります。「已亥年」とは699年(文武三年)であり、「渕評」とは、伊場遺跡にあった「評役所」と推定されています。
つまり、古代の「若倭部」は、浜松市の伊場遺跡付近と、浜北市の宮口から浜松市の有玉にかけてと二カ所に拠点を持っていたか、それとも伊場遺跡付近から浜北市宮口付近まで広い範囲に分布していたかということになります。
「若倭部」は、『万葉集』という古代文献と、伊場木簡という古代の直接文字史料と、神社名という現代に残る資料と、3つの系統で確認されていることになるのです。
(「遠江と古代史の森」に2005年1月17日UPしたものを再録)