雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 7月22日(日) 午後は放射線の学習会に、夜は録画番組や山のお医者さんドラマを見ました

2012年07月22日 20時00分43秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 7月22日(日) 午後は放射線の学習会に、夜は録画番組や山のお医者さんドラマを見ました

 午後は、新日本婦人の会とい女性団体が企画してくれたお医者さんの聞間元(ききま・はじめ)さんの放射線の学習会に出かけました。則子さんに「そろそろ出かける?」というと「え?なんだっけ」と暑いので忘れていたようでした。

 時間も少し間違えていて、2時からと思って1時半過ぎに行くともう講演が始まっていました。アイミティの2階の第2講座室は満員でした。講義も詳しくて、まとまっていて、良かったです。

 夜は録画しておいたNHKの福島2号機・3号機の爆発過程を検証した番組を見ました。必用な物が届かない、12ボルトのバッテリーが必用なのに2ボルトしか届かない、しかたなく各自の通勤用の車のバッテリーを使ったとか。原発そのものはある程度頑丈(ほんとはそうではないのですが)、周囲の配管はBクラスでそこが外れた可能性やら、今でも各地の原発で解決されない課題を取り上げていました。

 印象的なのは、アメリカでは州政府に原発事故専用の化学救援部隊があって、原発事故を想定して装備を持ち訓練をしていることです。

 日本政府や県にはそういう専門部隊はあるのでしょうか?

  ☆

 午後9時から山のお医者さんドラマです。見たら報告します。これは、前回見たのが面白かったので、つまり「孤島」診療所の山岳版ですね。もっとも「コトー診療所」は見てないんですけどね。主人公(だと思う)若い男性医師は、都会にいる上司の医師の娘=婚約者と別れて、この山岳診療所の女性看護師(かなりきつい人)とうまくいくのなら、いいですね。

 


雨宮日記 7月21日(土) 今日は会議も行動もなくてやっとチラシ・ニュースを完成印刷

2012年07月22日 19時52分57秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 7月21日(土) 今日は会議も行動もなくてやっと原発の学習会チラシ・と原発裁判ニュース「希望 第3号」を完成印刷しました

 今日も暑いですが、日本列島ではなぜか大雨の地域もいくつかあります。梅雨の後の猛暑と、大雨が混在しているのが異常気象のゆえんでしょうかl。

 今日は、8月12日から3団体で共催で企画した大山先生の放射能と原発学習会のちらしと浜岡原発裁判西部ニュース「希望 第3号」を簡単に1ページだけにして完成、印刷しました。

 コジマ電器に行って、パソコンで打ち出すラベル用紙を買って(100枚3500円です)、名簿を修正して打ち出して、則子さんに「あとは、お願いします」と渡して、あとは則子さんの作業です。よろしくおねがいします。

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 福島原発で下請け業者が作業員の測定器を蔽って数値を低くする「鉛の袋」を作っていたことが判明しましたが。なんでもありなんですね。何のための測定器なんだか、わからなくなってしまいました。

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 夜は、毎年の船越と曳馬中の花火でした。今年は、曳馬中の中学生の自死があったので、とりわけ、花火が哀切に感じられます。この花火を見ている子どもたちや大人たちの多くが、いのちのことを考えたのではないかと思います。

 「どーんと鳴った花火だ きれいだな」と歌う花火と命の切なさ、短さに。

 

 


遠州の遺跡・寺社・地名 86の2 東区市野町2321番地の熊野神社の宝筺印塔

2012年07月22日 19時16分09秒 | 遠州古代史

遠州の遺跡・寺社・地名 86の2 東区市野町2321番地の熊野神社の宝筺印塔

 熊野神社の敷地内の北東隅、正面から入って社殿の右奥にあります。

 「宝筺印塔」の「筺」は「はこ」で、昔、インドのアショカさんという王様が、お釈迦さん(仏陀さん)のお骨(仏舎利)を8万4千の塔に分割して国のあちこちに建てたという故事に基づいて建てられています。

 もっとも日本で中に入れるのはお骨ではなくて仏典で、「宝筺印陀羅尼経」というお経が収められています。

 この塔は高さ約3m、江戸時代の延享三年(1746年)に建設されました。

 (2012年7月訪問)

 


雨宮日記 7月20日(金) 暑いです…午後、起きれず、危うく遅刻しかけて…

2012年07月21日 06時09分57秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 7月20日(金) 暑いです…午後、起きれず、危うく遅刻しかけて…

 起きていても暑く・・寝ていても暑く・・。今日は午後の3時から会議でしたが、午後2時前に、目が覚めて、慌てて飛び起きました。

 昔はやった言葉ですが「全国的に、夏」です。なのに、列島の一部では、大雨という異常気象です。

 玄関の横の部屋で、ウサギの豆子さんといっしょにグタッと横になっていた則子さんに「遅れるよ」と声を掛けて、急いで家を出ました。それでも、遠鉄電車の2時36分には乗れなくて、48分に乗りました。

 「遠州病院」駅で降りて、はままつ共同法律事務所の会議室へ。3時を数分過ぎていました。浜岡原発永久停止裁判の事務局会議では、いろいろ、できることと可能性と、何がやれるか、いろんな角度から論議しました。

 ぼくや則子さんのやれることも、まだまだ、いろいろ、ありそうです。それで則子さんを「事務局副責任者」に提案しました。次回の役員会で論議してもらいますが、こういう時に「私なんかできません」「そういうガラじゃないです」と、普通の反応で逃げることをしない、則子さん、素敵です。

 会議を終えて、事務所を出たら、則子さんが「上着持ってこなかったので、寒かった」と。

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 帰りの道や電車の中で、中学校のいじめ問題をいろいろ話しました。やはり、今、ぼくたち調査をしたいと思います。もちろん、発表を前提としてですが。則子さんの人脈で、いろんな人とじっくり話し込みたいと思います。

 

 


雨宮日記 7月19日(木) 寝ても暑くて…起きても暑くて…ウサギさんもグタッと…

2012年07月20日 06時12分57秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 7月19日(木) 寝ても暑くて…起きても暑くて…ウサギさんもグタッと…

 真夏日は気温30度以上で、「猛暑日」は気温35度以上だそうです。『季節と暮らす365日』によれば、2007年に「猛暑日」が制定されたのだそうです。

 今日は浜松市天竜区佐久間町で、気温37度でした。

 こういう日は、朝、深夜勤務から帰って来たボクも眠れなくて、不眠になります。ウサギも豆子さんも、玄関の横でベターーっと伸びています。

  ☆

 則子さんが数日前から、冬は暑いままで飲む玄米茶を冷蔵庫に冷やしてくれてるので、ありがたく飲ませていただいてます。おいしいです、ありがとう。

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 夜は、ぼくは学習協の例会へ。則子さんは新婦人の例会へ。お互い、これからやることができました。ボクは秋から「資本論」第2巻の学習会を始めます。

 則子さんは曳馬中の自死問題で調査を始めるので、ボクも協力します。つまり、ボクは則子さんの「参謀」「秘書」なので「案を出しなさい」「策を建てなさい」ということです。こういうので、どうですか?でも、決断と勇気がいりますよね。周囲から批難ごうごうかもしれませんが、でもいじめられた子どもたちのために、譲れません。

 自殺問題も、原発問題も、同じです、と思います。


遠州の遺跡・寺社・地名 86 東区市野町2321番地の熊野神社

2012年07月19日 05時57分44秒 | 遠州古代史

遠州の遺跡・寺社・地名 86 東区市野町2321番地の熊野神社

 この熊野神社は、与信小と東名高速の中間、東西に走る姫街道の東の端、笠井街道にぶつかる手前にあって、姫街道の北側に面しています。つまり、神社は南向きです。

 2012年7月18日(水)の暑い日に則子さんと行きました。かなり広い境内で、子どもたちが何人も遊具で遊んでいます。神社と言うより公園的な部分がありますね。北東には「南公会堂」というのもあって、ちょうど中年男性が玄関から出てきて鍵を掛けて車ででかけるところでした。

 祭神は、伊ざなみ命(いざなみのみこと)さん、事解男命(ことさかおのみこと)さん、速玉男命(はやたまおのみこと)さんの3柱です。つまり、以前に紹介した西区高塚町の熊野神社は祭神は、伊佐奈岐命(いざなぎのみこと)さんなので、ちょっと違います。

 遠州の遺跡・寺社・地名 74 南区高塚の熊野神社(大きな椎の木があります)2012年05月18日 20時33分19秒 | 遠州古代史

 熊野神社は、浜松市内に他にもあるので、訪ねていきたいと思います。

 今日は、浜松市東区役所が編集発行した『浜松市東区 歴史と文化が香るまち』(カラー版、裏は「東区 史跡 ガイドマップ」)を見て訪ねました。5月に東区役所を平和行進実行委員会で訪ねて区長さんと懇談した時にいただいたものです。こういうのが、各区にあるといいですね。

 姫街道は、ここから東にもつながっているのか、よくわかりません。

 もしかしたら、この熊野神社が「姫街道」の出発点でしょうか?古代の道は「神社」=「聖地」と「神社」=「聖地」を結ぶ、というのは何の事実的根拠もない単なるファンタジーですが、可能性はあるでしょうか?

 いや、そうではなく、元々、道とは集落と集落を結ぶものだとすれば、この市野町のあたりにあった古代集落から出発しないと?どこでしょうか?神社があれば、近くに集落があるに決まってますよね。え?決まってる?

 神社と集落の関係について、研究した研究者はいるでしょうか?

 ぼくは、① 古代集落遺跡、② 古代首長墓地=古墳、③ 古代宗教跡地=神社、の3つの同等性と、3つが近くに分布する可能性を追求したいと思います。

 師匠は、谷川健一さん(テキストは『青銅の神の足跡』)です。遠州の遺跡・寺社3 山神社と蜆塚遺跡 2009年11月21日 16時42分10秒 | 遠州古代史 で紹介済みですが、本としてはきちんと「古代史の本」で紹介してませんね。別途、書きます。

 


雨宮日記 7月17日(火)の2 「いじめ」「自死」問題の解決のために必用な「心」は

2012年07月18日 06時03分21秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 7月17日(火)の2 「いじめ」「自死」問題の解決のために必用な「心」は

 なぜ身近なクラスメートを虐めるのか、というと、やはり自分が家で身近な両親に虐められたから?でしょうか。

 というより、いじめっ子の人格は、その周りに十分に心が育っていなくて、傷つき安い人格がそのまま外界に露出しているので、いじめっ子は、少しのストレスで人格が過剰反応してしまって、身近な同じ人格を虐めてしまうのではないでしょうか。

  ☆

 人間の子は、生まれてから、たくさんの人や、たくさんの自然を体験して、その体験を自分の中にいっぱい取り込んで、自分の元の人格のまわりに、自分の体験や思考からなる「心」という外界と交信するインターフェイスを作っていきます。

 この交信装置が、十分に深く安定的にできれば、子どもでも大人でも、どんな逆境にも耐えられるのだと思います。

 たとえば、幼いときに、両親からいっぱい愛されること。

 保育園で子どもどうしで、楽しく、いっぱい遊ぶこと。

 小さい頃に、自然の中でいっぱい遊ぶこと。

 同じようないじめを受けても、それに抵抗できる子や、それから逃げられることの出来る子、そういう子ばかりではなくて、心が育っていない子は、人格自体が大きな打撃を受けてしまうのではないでしょうか。

  ☆

 自分の人格の周りに、十分な心が育っていると、どんな悲しいとき、苦しいときでも、自分の心の中に潜っていって、そこで、自分をじっくりと休める心の深さがあります。

 でもその深さがないと、ナイーブな人格が、冷たい現実に直接触れてしまい、すごくストレスが増幅されてしまいます。

  ☆

 写真は馬込川の堤防の横に咲いていたネムの花です。


 


雨宮日記 7月17日(火) 浜松市の浜松基地対策協議会代表委員会を傍聴

2012年07月18日 05時41分53秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 7月17日(火) 浜松市の浜松基地対策協議会代表委員会を傍聴

 全国的に梅雨明け、真夏です。

 昼間、寝ていても寝れません。暑いので早めに目が覚めました。午前11時に目が覚めて、シャワーを浴びて、スッキリして、もう一度寝ました。

 午後1時過ぎ、でかける準備を終えて、則子さんに「行く?」と言うと「もう行くの?」と言うので、新婦人事務所にも寄らないといけないので時間がないよと言うとようやく準備を始めました。実際に車で家を出たのは午後1時20分頃ごろで、とても寄っていると市役所にギリギリになってしまうので、後にしてもらいました。

 市役所の今日は日の照らない駐車場へ車を置いて、市役所8Fの全協室へ。「傍聴です」と申し出ると、住所と氏名を書かされて、資料をもらいます。住所と氏名を書くなら、来年の基地対策協議会を開くときには、ちゃんと「前回は傍聴ありがとうございました。今回も傍聴においでください」という案内を出すのが、商売の常識だろうと思います。

  ☆

 午後2時開会。傍聴は、ぼくと則子さんと、いつも傍聴している有玉のAさんの3人。新聞記者は2人かな。市長さんが議長です。通常の報告と承認のあと、「その他」の議題は、小啓子市議だけが質問をしてました。他の市議さんは、一切発言なしです。ほんとです。

  ☆

 夜は、もう締め切りの、国民大運動実行委員会の浜松市への要求案を修正して書き加えました。いくつも団体代表を兼ねているので、たいへんです。そろそろ、これくらいかな…。

 最後に「出世都市」問題を書き足しました。

 則子さんの部屋でパソコンを打っていたら(夜10時頃?)、則子さんがお風呂から上がってきて、ぼくが灯りを付けて仕事をしているから窓を大きく開けて風を入れて眠れない、みたいなことを言ったので、ぼくもちょっとムッとして、黙って灯りを消して他の部屋に行きました。それっきり、戻らずに、深夜の仕事に行きました。

 暑いと、余計なけんかをしてしまいます。なお、けんかはいじめではなく、対等平等の実力行使(肉体は使いません)なので、必用なけんかは、ためらいません。夫婦は仲良しグループではないので。

 学校や集団でいわれる「みんな仲良く」というのは、ボクラ(雨宮夫妻)は、否定します。

 もちろん「いじめ」を「けんか」と称するのは論外ですが。

 
 

 

雨宮日記 7月16日(月) 東京で「反原発 17万人集会」という報道に感動!

2012年07月17日 05時58分49秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 7月16日(月) 東京で「反原発 17万人集会」という報道に感動!

 17日朝の朝刊をちらっと見たラ「中日新聞」と「しんぶん赤旗」で東京で17万人という1面でした。他の新聞はまだ見てません。

 その記事の中で「さよなら原発、おやすみアトム」という言葉がありました。

 そうですねえ。同感です。「鉄腕アトム」さんも、おやすみしてください。

 則子さま、ぼくたちも、今、やっていることだけでは、足りないと思います。ぼくたちが「もっと」何ができるか、考えてアイデアを出しますので、よろしく。 

  ☆

 橋下大阪市長さんは、反保守・反政府と思っていたら、いつのまにか、野田さんに共感して、野田首相さんも、橋下さんを評価しちゃってました。

 たしかに野田さんは、中途半端な民主党から完全転向して、原発推進・消費税率アップ、TPP参加、と国民生活を破壊する点で、まったくぶれがないですね。

 だから橋下さんが共感するのでは、橋下さんも、たんなるバカですか。

 橋下さんは信長さんか、秀吉さんかと思っていましたが、だんだん足利義昭さんみたいに、支離滅裂になってきました。あーあ、です。

  ☆

 今日17日も暑いです。熱中症にならないように、体内に水を補給しましょう。

愛知の遺跡・寺社・地名 1 岡崎市の大樹寺(その1) 山門は岡崎城を向いてます

2012年07月17日 05時31分45秒 | 浜松静岡郷土史
愛知の遺跡・寺社・地名 1 岡崎市の大樹寺(だいじゅじ)(その1) 山門は岡崎城を向いてます

 今年4月8日に愛知県岡崎市(長女の夫の故郷)を訪ね、長女の夫のお父さん・お母さん・弟さんと長女夫妻、ぼくたちの7人で岡崎市内を案内してもらった時の記録です。少しづつ整理しながら書いていきます。豊橋付近は、ぼくたちだけで行って見たいと思っています。

 静岡県と同じように、愛知県も興味深い遺跡・寺社がいっぱいあります。

 今日は第1回目で、徳川家康さんが桶狭間の戦いで今川義元さんが戦死した後、最前線から撤退して最初に岡崎に入って駐屯した、松平氏の菩提寺である大樹寺です。

 つまり、戦場から直接、岡崎城に進撃せずに慎重に行動した先が、大樹寺です。

 松平元康さんの「自立」の出発点となった記念すべき歴史的ポイントです。

 山門から外を見ると、岡崎城が見えます。山門が、その当時にあったのかどうかは、わかりません。

 宮城谷昌光さんの『古城の風景 Ⅱ 一向一揆の城・徳川の城・今川の城』身長文庫、p35~40に紹介されています。

  ☆

 なお「浜松と遠州の歴史 徳川・織田・豊臣の謎を考える 1」2012年04月10日、で、岡崎城・大樹寺~鳳来寺山~駿府城~久能山東照宮が同じ東西線上に並ぶ、同緯度であることを指摘しておきました。

 この謎の出発点です。

 べつの言い方でいうと「風水思想」になりますが、これも追求していきたいと思います。

 

雨宮日記 7月16日(月)早朝 東の空に、金星・木星・月・アルデバランの4星の台形が

2012年07月16日 07時01分16秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 7月16日(月)早朝 東の空に、金星・木星・月・アルデバランの4星の台形が

 ここ数日、浜松も雨で、星も見えなかったのですが、16日の朝、短時間だけ、東の空が晴れました。

 金星と木星と三日月とアルデバランの4星が、見事に台形に並んで見えました。

 うまくデジカメで撮影できたかな。

 映っていたら、ここに夜、アップします。


雨宮日記 7月15日(日) 締め切りが近づいてきて、だんだん焦ってきました

2012年07月16日 06時50分09秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 7月15日(日) 締め切りが近づいてきて、だんだん焦ってきました

 夕食前、則子さんと、いつもの時々行く、馬込川の散歩にでかけました。家のそばの三浦橋から北へ、十軒橋を通過して八幡瀬橋で東の岸へ行き、南下、約2kmくらいでしょうか。

 ツバメが空気を切っていったり、ウスバキトンボが滑空していたり、合歓の花が咲いていたり、そんな自然を楽しんで、帰って来ました。夫婦の貴重な時間でした。

 「締め切り」が、あと少しです。「国民大運動浜松実行委員会」の浜松市への要求提出が、あと数日なので、焦ってきました。

 家にいると集中できないので(という名目で)、夕食後、喫茶店へ行って過去の要求書をぜんぶ読み返しました。

 すこし目鼻がついてきたので、アイスコーヒー400円いっぱいで、ねばった喫茶店から家へ戻ってきました。


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 則子さんとテレビの特集「いじめ」を見ました。なんとも、加害者も、学校も責任逃れで、がっかりする感じ。横で、次女のIさんが見ていて、あきれた表情をしていました。

 わが曳馬中学の校長先生がインタビューに答えていました。でも、学校の責任で解明するんじゃなくて、第3者委員会に依頼するのでは、学校は責任はないのですか?

 それとも、責任を負えない無能力者ですか?

 
 

雨宮日記 7月14日(土) 長女のIさんが来たので父の本の装丁をお願いしました

2012年07月16日 06時38分48秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 7月14日(土) 長女のIさんが来たので父の本の装丁をお願いしました

 長女のTさんが家へ来てくれたので、来年3月に発行予定の、ぼくの父(Tさんの祖父)の本の装丁(カバー)を作って欲しいと依頼しました。

 タイトルの「落葉松」だけでなく森や自然をイメージして、緑や青で描いて欲しいと依頼しました。

 そうか、森と水かな。緑と青です。

 青も使えば、Tさんの得意な「水」のイメージも描けるかも。

 つまりIさんが絵を描いてもらい、Tーさんの夫のTさんに文字を書いてもらいたいということです。話をしてみるということで、帰って行きました。

 8月4日の大歳神社の花火に遊びに行く約束もしました。うわあ、娘夫妻っていいですね。

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 九州では豪雨です。やはり異常気象、こういう豪雨で馬込川が決壊する時も、来るのかも。

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 則子さんは、ウサギの豆子の絵だけではなくて、あじさいの青の絵まで描きました。新境地ですねえ。夫として嬉しいです。


 

本と映像の森 216 池澤夏樹さん著『パレオマニア 大英博物館からの13の旅』集英社文庫

2012年07月14日 19時42分30秒 | 本と映像の森
本と映像の森 216 池澤夏樹さん著『パレオマニア 大英博物館からの13の旅』集英社文庫、集英社、2008年(平成20年)8月25日第1刷~2011年9月10日第3刷、529ページ、定価857円+消費税、原著2004年単行本

 大英博物館は無料です。その大英博物館にある世界の遺物から「男」が好みの13点を選んで、その遺物が現存した現地を旅する本です。

 博物館と現場をいったりきたりする素敵な遺物と男、現地と博物館の「対話」の本です。

 ギリシャのオトメの像、ナイルの船、イランの獅子、北米のサンダーバードの木像、ケルト人の死体、ウルの王墓の山羊象、アナトリアの銀の牝牛、新羅の優しい石仏などなど…。

 お勧め本です。できたら大英博物館へ行って…。

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 京都でおしえている美大の先生が、美術と対話する、1時間でも2時間でもじっと見て対話することを呼び掛けています。そうするとだいたい、美術館の館員がとんできて、追い出されるそうですが。

 絵とは、絵の解説を読んで絵を見て「なるほど」と立ち去るものではない…と。そのとおりだと思います。

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 なお「パレオマニア」とは「古代妄想狂」のことです「誇大妄想」に等しい?かも。

 

浜松と遠州の歴史 徳川・織田・豊臣の謎を考える 3 徳川家康さんの東照宮の謎

2012年07月14日 06時09分03秒 | 浜松静岡郷土史
浜松と遠州の歴史 徳川・織田・豊臣の謎を考える 3 徳川家康さんの東照宮の謎

 つい数日前に、NHKラジオ第1の「深夜便」で、久能山東照宮のことを紹介していました。

 ぼくもまだ久能山東照宮には行ったことがないので、初耳でしたが、家康さんのお墓は、実は西を向いているのだそうです。つまり、当時、対立していた豊臣系の大名の多い西日本を向いていたようです。

 お墓が西を向いているというのは、たとえば西に向いている出雲大社と同じで、興味深いです。

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 そして家康さんは、生地の岡崎城から浜松城、江戸城とどんどん東へ向かっていったのに、なぜお墓が西を向いているかというと、一つは、夕陽と死に向かっているということでしょうか。

 もう一つは天皇家の初代、神武天皇さんは、最初、西から大阪湾に攻め込んで見事敗北、南へ逃れて、熊野から北上して、近畿中枢の敵に東側から、つまり「太陽を背に」して闘って日本の支配者になりました。

 同じことをしたのが、天智朝廷に反乱をおこした天武さんです。天武さんは、吉野から尾張へ脱出して、関ヶ原付近で天智朝廷に東から、つまり太陽を背にして攻撃して勝利します。

 この2例を家康さんは、心に深く刻んでいたように思います。なぜ?は、別途、考えます。

 ① 家康さんが岡崎から浜松へ侵攻したとき、西から曳馬城を攻めないで、いったん東へ陣を置いてから東から西へ攻めた
 ② 三方原の武田信玄との決戦でも家康は東から西へ攻撃を仕掛けた
   (ただし、このときは失敗でした)
 ③ 関ヶ原のたたかいでも、家康さんサイドは東から攻撃しています。これはもちろん同じ場所で闘った天武天皇をまねたものです。
 ④ 豊臣家との大阪城の決戦でも、家康さんサイドは、東から攻めています。

 織田・徳川連合軍のたたかいである、姉川のたたかいや、長篠のたたかいでは、東西軸ではなくて、織田=徳川が南側になっていt、東西原則からはずれています。織田信長さんは、方角など「迷信」(信長さんにとって、です)は、余りきにしなかったんでしょうね。

 江戸時代の終わり、徳川家の終わる鳥羽伏見のたたかいでは、こういう話とは逆に、徳川が西から攻撃していますから、負ける運命だったんでしょうね(?!)。

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 14日の夜の捕捉

 三方原戦争(通常「三方原の戦い」と呼んでますが、軍事史的に「戦争」と呼ぶことにします)は家康さんからは東から西に攻める、通常なら日を背負った戦争ですが、武田信玄さんの方が霊的に一枚上手で戦争開始を引き延ばして夕方にしたので、逆に家康さんにとっては「太陽を攻める戦争」になってしまいました。

 ただし、この日に晴れていたかどうかは、確認していませんが。