雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 9月16日(水)の1 戦争法で国会緊迫、東京へ行きたい

2015年09月16日 21時24分11秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 9月16日(水)の1 戦争法で国会緊迫、東京へ行きたい

 戦争法案が参議院特別委員会で、今日採決という事態です。

 東京へ行けるなら行きたいけど、父の食事があるから行けません。

 こんな緊迫した事態なのに、テレビでは「臨時特集番組」もありません。

 テレビは、国民の緊迫した関心に対して、かなり反応が弱いです。

  ☆
 
 今日は午後6時から、特別委員会だそうです。

 民主党は「委員会開会阻止」で物理的抵抗、バリケードをするそうです。

 「頭悪いなあ」と言う感じです。「心と精神を働かせて抵抗しろよ」と思います。

 委員会で発言するのが議員の役割ですよ。

  ☆

 委員会で議員に「最後の発言」をしてほしいと思います。

 民主党は、議員の権利を放棄しています。

本と映像の森 316 テレビ「デス・ノート」11回で完結

2015年09月15日 19時20分59秒 | 本と映像の森
本と映像の森 316 テレビ「デス・ノート」11回で完結

 「コミック版」のことを前に書きましたが、これは9月13日(日)に完結した「テレビ版」。

 後半の3回位を見たのですが、Lの後を継ぐニアとメロの別の人間を、1つの人間の多重人格と設定しちゃうし、コミックとはストーリーまで、まったく違ってしまいます。

 最終回の終わり方は主人公ライト(キラ)の敗北と●で終わるのですが、「人間を支配する神」願望に固執するライトは人格まで変わってしまった描き方で、違和感がありました。

 血まみれの時間、火事の時間伸ばしすぎ。

 ライトの主張する「犯罪が激減しているから僕は正義なのだ」というのは結果論ですね。「① 殺人行為 → ② 悪人が死ぬ → ③ 犯罪がヘル」

 つまり、ライトの行為 ①②は正義ではありません。

 疑問の一つ。ライトは何故、自分で「死に神の目」を持とうとしなかったのか?Lやニアの本名を、すぐに知ることができたろうし、そうすれば簡単にライトの勝ちだった。

 そうしなかった理由は簡単。ライトの勝ちで漫画はすぐ終わってしまうから。

雨宮日記 9月15日(火) 浜岡原発パンフ編集でした

2015年09月15日 19時13分46秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 9月15日(火) 浜岡原発パンフ編集でした

 第1次原稿の直し。まだまだ続きます。

 会場は、ガラス戸の前が緑の森で、涼しい風が吹いていて極めて快適です。

 会場には大きなイチョウの木があって、いま、黄色いギンナンがいっぱい落ちています。

 ギンナンを拾いに来る人がいるそうです。

雨宮家の歴史40 父の自伝史「『落葉松』第5部 Ⅱ-39 長兄の戦時死亡宣告」

2015年09月15日 19時08分08秒 | 雨宮日誌
雨宮家の歴史40 父の自伝史「『落葉松』第5部 Ⅱ 39 長兄の戦時死亡宣告」


 (二十二)長男戦死長女爆死我は罹災
     尚神仏を信ぜよと言うか
  ( 昭和四十八年 )

 その日は、街路樹のニセアカシアの白い花から、甘い匂いが風に乗って店の中にまで漂って来る初夏の明るい日であった。遠縁の年配の女性が訪ねて来て、父にいわゆる新興宗教への入信を一生懸命勧めていた。二、三時間は粘っていただろうか。それに対する答えがこの歌である。長男も長女も、私の、もの心着いた頃には家にはおらず、その動静は戦後亡くなったということを知ってからである。

 長男英一に召集令状が来たのは、昭和十九年八月で、その時三十三才、三才と一才の男の子の父親であった。埼玉県与野(浦和と大宮の間で今はさいたま市になっている)の病院の介護士で、そこの看護婦の初野美(よし)と結婚していた。美さんの話では「浜松だというから東京の浜松町かと思っていた」と言う。

 英一は強度の近眼で、丙種の第二国民兵だった。四十五才まで召集される時代だったから、三十三才は若い方かも知れない。衛生兵で、豊橋陸軍病院へ入隊した。が、ここは集合地で、軍装を整えると北満へ派遣された。戦後「あなたのお兄さんの渡満の準備の服装などを手伝ってあげた」と言う、三方原在住の豊橋陸軍病院勤務だった人が訪ねて来たことがある。且ては精鋭を誇った関東軍も、殆どが南方戦線へ転出されて、その補充であった。

 「二十一年九月三十日 午後未知ノ人来リ英一ハ新京ノ病院ニ栄養失調デ入院中ノ事、ソシテ余リ軽クハナイトノ事ナリ」(父の日記より)

 私はその日の午前九時九分発の下り列車で、朝日塩業へ赴任のため出発したばかりであった。もしも私がその場におれば、もっと良く事情を聞けたかも知れないが、その事を知ったのは、光から帰ってからであった。

 北満にいる筈だった英一が、なぜ新京の病院に入院していたのであろうか。

 関東軍は、二十五万人の在満日本人の根こそぎ動員で、二十四ヶ師団と員数は揃えたが、老兵が多く銃剣なしの丸腰兵隊も十万人に及んだ。

 八月九日、ソ連軍の進入と共に、関東軍司令部は新京より南東方の通化に移転を決めた。このため奥地の開拓地や一般の居留民は置き去りになって、ソ連軍の暴行や略奪の犠牲となった。英一の所属する部隊も、南下の途中新京駅に到着した。英一は飲料水の補給のため、水筒を持って列車から出たが、殺到する一般市民を避けるため、列車はすぐに出発してしまった。英一が帰って来た時は、もう列車の姿は見えなかった。

 こうして英一の新京における放浪が始まった。ソ連軍は一般兵士をシベリアへ送っているが、英一はそれを免れているところを見ると、どこかの病院へもぐり込んでいたのかも知れない。

 二十年の十一月にソ連軍は引き揚げて行き、中国共産党の八路軍が入ったが、一週間程で替わりに国府軍が入って来た。

 年が替わり、二十一年の初頭以来、長春(新京)は国共内戦により両者が入れ替わっていたが、五月二十四日、米式装備のビルマ歴戦の精鋭部隊といわれた正規の国府軍が入城した。

 満州の政治情勢も安定したかに見えたこの時期に、日本人の故国への引き揚げが、故廬島(ころとう)経由で七月から始まった。この第一回引き揚げは十月まで続き、長春の日本人二十余万人は六千人にまで減った。全満では百五十五万人のうち、65%の百万人が帰国した。二十一年九月三十日に英一の消息をもたらしてくれた人は、実にこの時の引揚者だったものと思われる。英一は動けないほどの重体だったのだろうか。

 二十二年に入り、第二次送還を始め、長春の日本人は八百人程になった。それも二十三年夏頃までには、三分の一か半数は亡くなった。

 年が経って、日本政府は昭和三十四年「未帰還者に関する特別措置法」を制定し、生死が判別できない者に対し「戦時死亡宣告」を請求する権限を厚生大臣に与えた。実施は都道府県知事に委任した。実際に死亡した者ならいいが、これには多くの日本人残留孤児が含まれていた。

 英一もこれにより、昭和三十五年十月六日「戦時死亡宣告」が確定し、昭和二十三年八月十二日死亡と見なされると、戸籍から抹消された。国はこの死亡の日を、どういう根拠があって定めたのか分らないが、栄養失調で重態だと聞いた日から二年も生きていたことになる。

 二十二年十月、八路軍は日本人の強制送還が済むのを待っていたかのように攻勢を始め、長春を包囲し、吉林の豊満ダムの長春への送電線を切断した。長春は、電気・ガス・水道が止まり、二十万の国民党軍と一般市民は閉じ込められて陸の孤島となってしまった。長春市内では。あちこちに餓死者が出始めた。

 長春市内の国府軍と、包囲する八路軍の間に、約一キロメートルの幅でドーナツ状の真空地帯が出来ていた。これを「チャーズ」と呼んでいた。「チャーズ」とは、孔子の時代から軍隊が守る重要な関所のことである。

 国府軍の開門は割合自由で、簡単に出られたが、一度出ると再び入ることは出来なかった。反対に八路軍の開門は厳重で、殆ど出ることは不可能であった。このため、この真空地帯に十数万の市民がひしめきあい、食糧が無いため、三十万人ほどの人が命を落し、この世の地獄の様相を呈していた。

 「チャーズ」については、①遠藤誉、②武田英克、③同氏の私家版の三冊があるが、両氏とも、奇蹟的にチャーズを脱出出来た人である。その「チャーズ」に入った日が、③で八月十二日となっている。(因に盗作ではと裁判沙汰になった山崎豊子の『大地の子』では八月十二日に設定している。)英一の死亡推定日時が八月十二日であることは、因縁を感ぜざるにはおれない。

 長春はこのあと、十月十九日陥落し、中華人民共和国が二十四年十月一日成立した。

 なお、親戚の鈴木林太郎氏(「第二部 15」参照)も一年早く、昭和三十五年三月「戦時死亡宣告」が出されている。

雨宮日記 9月14日(火)の6 堤防の決壊は川の側でなく市街地の側から!

2015年09月14日 23時05分15秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 9月14日(火)の6 堤防の決壊は川の側でなく市街地の側から!

 テレビで、民放の特集番組で、あまりにも面白い事実を報道していたので紹介します。

 これはNHKのニュース番組では、報道されませんね。いま、NHKのニュースは、掘り下げ、分析が足りなくて、ボクはほとんで見ていません。

 深く分析する報道をしてくれる、民放の昼間の「ひるおび」とか「ミヤネや」とかが面白いです。

 大雨の時に、川の堤防が決壊するのは、川が増水して堤防がその圧力で破壊されるのかと思っていました。そうではありません。実験では、まず川の数位が高くなって、堤防を20センチくらいで川水が外に溢れ出します。

 すると川の側ではなくて、堤防の川と反対側。市街地の側の土がみるみる削られてしまい、堤防全体が破壊されてしまうのだそうです。

 最終的に、深さ数メートルで堤防が破壊され、川水が市街地に大量に流れ込みます。

 

 

雨宮日記 9月14日(月)の5 阿蘇山も中規模噴火、まさに「大地狂乱の時代」

2015年09月14日 22時55分30秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 9月14日(月)の5 阿蘇山も中規模噴火、まさに「大地狂乱の時代」


 今日午前、阿蘇山が噴火、まさに「大地狂乱の時代」です。

 阿蘇山にしろ、桜島にしろ、霧島崋山にしろ、何万年前に「破局カルデラ噴火」を起こしています。数万年経って、九州全体、西日本全体に影響がおよぶような破局噴火が、いつ起きても不思議ではありません。

 日本人は、歴史時代、いちおう文字の残っている「邪馬台国」の「弥生時代」からとしましょうか。2千数百年のあいだ、破局カルデラ噴火を経験していないのですから、経験していないことは「火山噴火予知」しようがありません。

 「予知」とは破局噴火を経験して始めて「観測した数値」から「破局噴火という結果」、つまり「原因 → 結果」を推定できます。

 まだ火山の地下のマグマの動きさえ、科学は解明できていません。

 日本列島で、最後の「破局カルデラ噴火」が起きたのは、7300年前の縄文時代に起きた「鬼界アカホヤ噴火」です。この噴火によって九州の縄文文化は全滅して、東から移住してきた別の縄文文化に置き換わりました。
 
 「アカホヤ火山灰」は、関東にまで広く分布しています。

 阿蘇山が最後の破局噴火をしたのは、約9万年前です。9万年経って、阿蘇山の破局噴火マグマが再び、活動を始めても何の不思議もありません。

 明日にも、阿蘇火山が数万年前の破局カルデラ噴火をおこしても、不思議ではない時代になっているのです。

 桜島火山のある姶良カルデラが最後の破局噴火をおこし、北朝鮮や東北地方まで火山灰を降らせたのは、今から2万6千~9千年前です。
 
 姶良カルデラが再び破局噴火を起こすのは、今ではなく、もっと未来かも知れませんが、いま、噴火しないと断言できる火山科学者は1人もいないと思います。

 もしいたら、紹介しますので、ご連絡ください。


雨宮日記 9月14日(月)の4 ボクは「行動半分、報道半分」

2015年09月14日 22時25分49秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 9月14日(月)の4 ボクは「行動半分、報道半分」

 むかし35年前、1980年の10月に浜松平和委員会機関紙「青い地球」を「ぼく、作ります」と宣言して実行してから2005年頃までに、324号くらいを発行しました。

 つまり、ぼくの人生って、「アマチュア報道記者・アマチュアジャーナリスト」なんですね。記事と紙面を高めるために、自分を鍛えてきたと思います。

 その途中で、20年前くらいに、静岡県平和委員会のためにビデオ制作(ビデオ撮影、編集は京くんとタッグを組んで)を覚えて、ビデオ作品を作っていました。

 浜松市平和委員会は、ぼくは昨年まで10年間の空白期間があるので、その間は、主に「浜松市原水協」と「基地のない平和な浜松をつくる会」などで活動していました。

 いずれにしてもボクの平和運動40年近くは「行動半分、報道半分」で帰ってからのまとめに苦労した40年近くでした。

 「雨宮智彦のブログ」も、「ピース浜松」も、「静岡県平和委員会 平和のかがり火」も、その延長線上にあります。

 ぜんぶ大事にして、はぐくんで行きたいと思います。

 誰か、この「平和をはぐくむ」大事業を共に担って、参加してくれる人を探しています。

 個人1人で「やれない」とは絶対、言いません。

 でも、平和を守るのは、大勢の力です。大勢の事業にしていけたら、嬉しいです。

 

雨宮日記 9月14日(月) 戦争法案反対スタンディングでした

2015年09月14日 21時43分54秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 9月14日(月) 戦争法案反対スタンディングでした

 夕方、則子さんと2人で電車に乗り、JR浜松駅前の「戦争法案反対」スタンディング宣伝行動に参加しました。
 
 参加したと言っても、ぼくは大きな三脚をリュックに入れて、ビデオ撮影でした。

 ビデオ撮影と言っても、編集ビデオではなく、1,2分の細切れビデオを撮って、その画像をユーチューブに掲載する予定です。

 詳細は「ピース浜松」に記事を載せます。

 明日にはビデオを載せる予定。

 やはり大きな三脚は快適。ぶれも無く、方向転換も自由にできます。

 

雨宮家の歴史39 父の自伝史「『落葉松』第5部 Ⅱ-38 母の死」

2015年09月12日 22時24分52秒 | 雨宮日誌
雨宮家の歴史39 父の自伝史「『落葉松』第5部 Ⅱ-38 母の死」

  第五部 肉親を送る

Ⅱ 38 母の死

 私が朝日塩業を退職して浜松へ帰ったのは、前述の通り母の病気のためであった。塩業は結局、この後解散する運命にあったから、時期的にはよかった。

 母は既に遠州病院に入院していた。院長はのちに東田町に小児科医院を開く詫間(たくま)先生であった。母は胃を患っていたが、胃は切らずに薬で散らす治療であった。その代わり、その度に輸血が必要で、末弟や静大教育学部の学生のアルバイトで賄っていた。大晦日には退院して、昭和三十九年まで保っていたから、効果はあったのだろう。

(二十) 癌とは知らずそそくさと病院へ
      いで生きて遂に帰らぬ老妻あわれ
( 昭和四十年 )

 その母が再び発病したのは昭和三十九年の六月九日であった(後述するが三十三年から松城町に移っていた)。近所の医師は「心配ない」の一言であったが、あまりあてにならないので、新町に住んでいた渡辺医師に来診を頼んだ。

 新町にいた時、私はよく熱を出して寝込んだが、先生はいやな顔もせず、夕方外来が済んでから、医療道具の入った鞄を下げて、下駄の音をさせて気さくに立ち寄ってくれた。浜松でも指折りの名医で、待合室(診察室に続く廊下だったが)は、いつも混み合っていた。先生は、現在も健在のようで、平成十四年度の浜松の高額納税者にその名を連らねている。

 六月十七日、レントゲンを撮るため、母は父とタクシーで渡辺医院へ向った。一週間後往診に来た先生は、母に手術を勧めた。この時、病名は分っていたと思うが、母には知らせなかったと思う。

 「幽門閉塞」で胃と十二指腸を結ぶところが腫瘍で塞がってしまい、食物が通らなかったのである。それでも、私が光から帰って来た時から、十年近くは何ともなかったのだから、不思議なものである。日本人の通例で、塩気の多い漬物を好んで食べていたからかも知れない。

 私は一週間毎に薬を取りにいっていた。先生は、盛んに手術を勧めるが,母は頑固に拒否していた。それはそうだろう。誰もお腹など切られたくない。私も前立腺ガンの時、切ると言われたら断ろうと思っていた(「49 ガンの発見」)

 母は元気さを見せるためか、起きている方が多くなった。しかし、遂に躰がついて行かれず、観念したか梅雨の明けかかった七月二十二日、手術の決心をした。母にとっては死ぬ覚悟だった。

 月末の七月二十九日午前十時、医師会中央病院(今の県西部医療センター)へ入院した。再発以来五十日目であった。

(二十一) 裏山に木を切る音し病室に
         妻は額に手をあてており
( 昭和三十九年 )

 その頃は、まだ病院の周りは自然のままであった。病院には、日中、父、私の妻、妹、弟夫婦たちと、誰かが交代で詰めていた。私は店番と配達に追われて、なかなか見舞いに行けず、やっと入院して十五日目の八月十二日午後行った。母は「わたしは畳の上で死にたい」とつぶやいた。私に返す言葉はなかった。

 手術は美甘外科医の執刀で八月二十一日に行われた。胃の三分の二ぐらい取ったという。手術後は一進一退で、私が行った時、妻の押す車椅子で院内を廻っていた。医者から、いつまでも寝ていてはいけない、起きて動くように言われたという。しかし、手術は七十二才の母にとっては,心臓に多大な負担を与えたようである。

 ちょうど、私の妻が付き添っていた九月七日の昼頃、母は突然「アッ」と虚空をつかむように手をあげて動かなくなってしまった。妻はとっさにベッドの枕元のブザーを押した。医局員がとんで来て、母の上に馬乗りになって心臓マッサージを始めた。しかし、母の呼吸は回復しなかった。

 十二時四十分「危篤」の電話が入り、すぐさま父たちが病院へかけつけたが、間に合わなかった・臨終に立ち会ったのは私の妻一人であった。その妻が三十年後の平成七年、その同じ病院の副院長の金子医師に痴呆の診断を受ける身になるとは、夢にも思わざることであった。

 斎藤茂吉の第一歌集『赤光(しやくこう)』(大正二年刊)に「死にたまふ母」五九首の一連作がある。私の父の歌とは比較にならないが、私の感動した二首を記して亡き母への餞(はなむ)けとしたい。

 のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にいゐて
       足乳根の母は死にたまふなり

 わが母を焼かねばならぬ火を待てり
天つ空には見るものもなし

 九月九日、自宅で葬儀が行われ、初七日の一四日、西来院へ納骨された。二年前の三七年には祖母まつが八十九才の長寿で永眠している。

 昭和三九年という年は、経済の高度成長期に当たり、店も順調に伸びて、今まで苦労した母を旅行にでも連れて行ってと思っていた矢先であった。十月十日に東京オリンピックが開催され、東海道新幹線が大阪まで開通、東名高速道路建設など日本中が上向きの時代であった。病院への支払い代は八万七千余円であった。その年の私の市民税申告所得額は三十五万円だった。

 (智彦注釈 「第5部 肉親を送る」という内容の必要から昭和39年(1964年)という年に叙述が飛んでいる。戦後すぐの苦労は「第6部 戦後の始動」で語られる。「第7部 (節三さんの妻・光子さんの)老人性痴呆」と「第8部 (節三さんの)前立腺ガン」で、『落葉松』は一応完結します。全53章です。
 その後、父が毎年、浜松市の『市民文芸』に投稿し、入選が続いた「Ⅲ 後編 文藝評論」に続きます。)



雨宮日記 9月12日(土)の2 夜は次の朝の準備

2015年09月12日 22時12分50秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 9月12日(土)の2 夜は次の朝の準備

 夜、家へ帰ってきて台所に行ったら、炊飯器を次女が洗ってあったので、ボクが朝のためにお米2合を洗いました。水を入れて洗っているところに次女が来て、「お父さん、2合でいいよ」と言うので「2合だよ。すぐ炊いていい?」と言うと「予約で朝でいいよ」と。

 ぼくが「おじいちゃんのおかゆを作らないといけないのだけど」と言うと、冷蔵庫の中の残り飯を出してくれたので、その半分くらいで、ボクがオカユを作りました。

 翌朝の味噌汁は、お父さん1人だけなので手抜きして、インスタント味噌汁を準備しておきました。

 

雨宮日記 9月12日(土) 今日は午後から1日中、ビデオ編集

2015年09月12日 21時53分33秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 9月12日(土) 今日は午後から1日中、ビデオ編集

 今日は京夫妻宅で、午後から1日中ビデオ編集に没頭しました。

 午後は被爆者証言の第3巻です。4人目・5人目で初めてお二人とも女性です。しかも84才の同年令で、被爆当時は14才。2人同席して聞いたので、当時、広島の同じ近所に住んでいたことがわかりました。

 今でいうと中学2年生。中学1年生の年令が学校の授業で、14才の4月から工場に「勤労動員」で働きに行ったそうです。Sさんは飛行機の部品を作っていたそうです。

 しかも恐るべき事に、工場で働いているのに「給料」など1円も、いや一銭もですかでなかったそうです。日本全体が超ブラック企業、暗黒社会だったんですね。

 ボクがあらかじめ撮影テープを見て、「00分05秒から01分27秒まで」という挿入するデータを作っていきました。それを京くんに編集してもらうだけなので、1時半から4時前までに最初の荒編集を終えました。

 あとは補正するのと、場面転換の仕上げ、タイトルなどや地名や説明文字を入れる作業です。

 9月中には終えます。そうしたら、新たに第4回の撮影です。

  ☆

 父の夕食のために、いったん帰って、父の夕食の準備をして、また5時ごろ、京夫妻宅へ。

 今度は、9月5日の第3回「ラブ&ミュージック」の荒編集。冒頭の導入部(タイトルの前に入る印象的な映像、いわゆる見る人の心をとらえる「つかみ」です)には、1回目と2回目に使ったパーカッションのパレードではなく、「パフォーマンス」でぼくたちが印象に残った3つの演奏を使いました。

 平和の運動には、こういう「文化」があるけど「安倍」「戦争推進」の側には何の文化性もないと思います。「殺し屋賛美」は文化になりません。「反文化」です。

 最初に沖縄の「エイサー」(磐田の人です)、2番目に「純ギター演奏」、3番目に「よさこい」を使いました。

 今日は午後8時頃に終了、「パート 1 準備」の途中まで数分を編集。

 映像に幼い子供と犬の映像をふんだんに使えました。ビデオ撮影の教訓の1つ、やっぱり「子どもと動物の映像は最強」ですね。
 
 帰りがけ、京くんと「ビデオ撮影に適当な三脚とその値段」について論議しました。