雨宮日記 9月11日(金)の2 9・11ですが則子さんが酢ばすを作りました
今日は9・11です。
それと全く関係はありませんが、則子さんが夕食後、「酢ばす」を作りました。
自動車の「バス」では有りません。
はす(蓮)の酢漬けです。
次女は「暖かい方が好き」と言って、できたての暖かい酢ばすをパクパク食べていましたが、ぼくは冷やした冷たい方が好きですね。
今日は9・11です。
それと全く関係はありませんが、則子さんが夕食後、「酢ばす」を作りました。
自動車の「バス」では有りません。
はす(蓮)の酢漬けです。
次女は「暖かい方が好き」と言って、できたての暖かい酢ばすをパクパク食べていましたが、ぼくは冷やした冷たい方が好きですね。
雨宮日記 9月11日(金)の1 朝から夕方まで浜岡原発パンフ編集
昨年7月末から始めた浜岡原発永久停止裁判静岡県西部の会の、浜岡原発パンフ編集、1年かかって、やっと終わりが遠くに見えてきたところまできました。もちろん、今も、ほとんど作り直し、というページもあります。
西部の会が責任を持って編集・発行するパンフですので、個人見解とならないようにかなり激論もしなければなりません。
ぼくの書いたページも、今日は「1テーマ」ほとんど出直しとなりました。
もちろん、よりよくするために、ぼくも喜んで再書き直しです。
ぼくの書いたページに、誤植で「何回トラフ巨大地震」とあったので、みんなで爆笑し合いました。
ぼく「南海トラフ巨大地震が、何回あったかは、難解な質問ですね」
☆
こういう朝から夕方までの、ほとんど「合宿気分」の楽しみは、みんなで行く近くの「昼食」です。
今日は、定食屋に行き、5人みんなで「天ぷらランチ」を注文しました。注文すると、横に見える厨房で、その場で天ぷらを揚げているのが見えます。揚げているあいだ30分くらい待っていた、揚げたての天ぷら、すごくおいしかったですね。
食後のコーヒー付き、1080円は安いです。
ボクは天ぷら大好きで、自分でも自宅で天ぷらを時々揚げるのですが、お店のようにパリパリになりません。ふにゃふにゃで柔らかくなっちゃうのは何故か、市民研究者として研究してみます。
☆
いつもは父の夕食に間に合うように午後4時に終わって、慌てて帰るのですが、今日は、早番の則子さんにまかせましたので、終了時間をみんなの合意で伸ばして、5時15分頃までやりました。則子さん、ありがとうございます。いつも感謝しています。
かみさんに、手を合わせて祈ったりはしていませんが。
浜岡原発パンフ、ちょっとゴールが遠くに見えてきました。
「市民の、市民のための、市民のための浜岡原発パンフ」です。これパンフの中に入れようかな。
昨年7月末から始めた浜岡原発永久停止裁判静岡県西部の会の、浜岡原発パンフ編集、1年かかって、やっと終わりが遠くに見えてきたところまできました。もちろん、今も、ほとんど作り直し、というページもあります。
西部の会が責任を持って編集・発行するパンフですので、個人見解とならないようにかなり激論もしなければなりません。
ぼくの書いたページも、今日は「1テーマ」ほとんど出直しとなりました。
もちろん、よりよくするために、ぼくも喜んで再書き直しです。
ぼくの書いたページに、誤植で「何回トラフ巨大地震」とあったので、みんなで爆笑し合いました。
ぼく「南海トラフ巨大地震が、何回あったかは、難解な質問ですね」
☆
こういう朝から夕方までの、ほとんど「合宿気分」の楽しみは、みんなで行く近くの「昼食」です。
今日は、定食屋に行き、5人みんなで「天ぷらランチ」を注文しました。注文すると、横に見える厨房で、その場で天ぷらを揚げているのが見えます。揚げているあいだ30分くらい待っていた、揚げたての天ぷら、すごくおいしかったですね。
食後のコーヒー付き、1080円は安いです。
ボクは天ぷら大好きで、自分でも自宅で天ぷらを時々揚げるのですが、お店のようにパリパリになりません。ふにゃふにゃで柔らかくなっちゃうのは何故か、市民研究者として研究してみます。
☆
いつもは父の夕食に間に合うように午後4時に終わって、慌てて帰るのですが、今日は、早番の則子さんにまかせましたので、終了時間をみんなの合意で伸ばして、5時15分頃までやりました。則子さん、ありがとうございます。いつも感謝しています。
かみさんに、手を合わせて祈ったりはしていませんが。
浜岡原発パンフ、ちょっとゴールが遠くに見えてきました。
「市民の、市民のための、市民のための浜岡原発パンフ」です。これパンフの中に入れようかな。
雨宮日記 9月10日(木) 関東はおそるべき大雨。夜は平和委員会理事会に参加
関東は大雨で、鬼怒川が下流で決壊、恐ろしい光景がテレビ局のヘリから映し出されます。
自衛隊や消防のヘリが孤立した民家から人々を救出する光景が放映されてます。こういう「住民救助隊」としての自衛隊なら、私たち平和運動の人間(私、浜松市平和委員会事務局長です)でも、100%賛同できるのですが。
つまり、自衛隊に100%賛同、あるいは1005否定ではなく、具体的なやる項目毎に、これは賛成、これは反対、という態度を明確にするということです。
かなり面倒くさいですが、これが唯一の正しい態度であるとボクは思っています。
☆
人間が自然を完全にコントロールできるなんて慢心しては、いけませんね。このことは、もう少し研究したいと思います。
☆
夜は、則子さんと浜松市平和委員会理事会に参加。「参加」というより責任者ですので、神経は張り詰めています。いや、みんな、気心の知れた信頼できる仲間ですから。以前の会議に比べると、気は楽です。
日本平和大会イン富士山(静岡県御殿場市)への参加方法をどうするか、論議しました。この会議の途中まで、ボクも「マイクロバス」あるいは「ワゴン車数台」で参加、と考えていたのですが。
討議のなかで、思いがけなく、JR東海道線・御殿場線で参加するのが、財政リスクもないし、何十人でも行けるので、いいのではないか、という交通手段が浮かんできました。
考えて見れば、広島・長崎の世界大会へは、JRですからね。それに比べれば、御殿場は静岡県内で、すごく近いです。
「戦争法案」反対の活動も討議しました。
1人100枚ビラ配り、志都呂町のYさんは近所に200部配ったら、なぜかビラに書いてあるボクの住所ではなく、Yさんの自宅に3人の方が署名用紙を埋めて届けてくれました。すごい!前代未聞ですね。
関東は大雨で、鬼怒川が下流で決壊、恐ろしい光景がテレビ局のヘリから映し出されます。
自衛隊や消防のヘリが孤立した民家から人々を救出する光景が放映されてます。こういう「住民救助隊」としての自衛隊なら、私たち平和運動の人間(私、浜松市平和委員会事務局長です)でも、100%賛同できるのですが。
つまり、自衛隊に100%賛同、あるいは1005否定ではなく、具体的なやる項目毎に、これは賛成、これは反対、という態度を明確にするということです。
かなり面倒くさいですが、これが唯一の正しい態度であるとボクは思っています。
☆
人間が自然を完全にコントロールできるなんて慢心しては、いけませんね。このことは、もう少し研究したいと思います。
☆
夜は、則子さんと浜松市平和委員会理事会に参加。「参加」というより責任者ですので、神経は張り詰めています。いや、みんな、気心の知れた信頼できる仲間ですから。以前の会議に比べると、気は楽です。
日本平和大会イン富士山(静岡県御殿場市)への参加方法をどうするか、論議しました。この会議の途中まで、ボクも「マイクロバス」あるいは「ワゴン車数台」で参加、と考えていたのですが。
討議のなかで、思いがけなく、JR東海道線・御殿場線で参加するのが、財政リスクもないし、何十人でも行けるので、いいのではないか、という交通手段が浮かんできました。
考えて見れば、広島・長崎の世界大会へは、JRですからね。それに比べれば、御殿場は静岡県内で、すごく近いです。
「戦争法案」反対の活動も討議しました。
1人100枚ビラ配り、志都呂町のYさんは近所に200部配ったら、なぜかビラに書いてあるボクの住所ではなく、Yさんの自宅に3人の方が署名用紙を埋めて届けてくれました。すごい!前代未聞ですね。
雨宮日記 9月9日(水)の5 原爆と人間展感想の打ち込み完了
夏の「原爆と人間展」、浜松・浜北・湖西の来場者の感想の打ち込み完了しました。これで、紙でプリントアウトして校正し、感想集に印刷できるように形を整えて、印刷します。
A4版でほぼ12ページ。偶数ページでないと冊子には、なりませんからね。
則子さんに「ごくろうさまです、って言って」と要請しました。
則子さん「ごくろうさまです。ありがとう」。
夏の「原爆と人間展」、浜松・浜北・湖西の来場者の感想の打ち込み完了しました。これで、紙でプリントアウトして校正し、感想集に印刷できるように形を整えて、印刷します。
A4版でほぼ12ページ。偶数ページでないと冊子には、なりませんからね。
則子さんに「ごくろうさまです、って言って」と要請しました。
則子さん「ごくろうさまです。ありがとう」。
雨宮家の歴史38 雨宮の父の自伝史「『落葉松』第4部 Ⅱ-37 台風」
台風というと、先ず思い出されるのは「伊勢湾台風」である。明治以後、最大の台風で、五千余人の死者、五十万戸の建物が被害を受けた。その他に「狩野川台風」「洞爺丸台風」「第二室戸台風」、戦前では大阪を直撃した「室戸台風」があった。
戦後の混乱期と占領軍の支配下にあって、余り知られていない台風があった。「枕崎台風」である。
敗戦直後の昭和二十年九月十七日、九州薩摩半島南端部の枕崎に上陸し、一晩で九州を横断して、瀬戸内海から中国山地を猛スピードで通り抜けた。枕崎測候所での最低気圧は,午後二時、九一六・三ミリバール(伊勢湾台風は九二九・五三ミリバール)であった。最大瞬間風速も六二・七メートルを記録した。五〇㍍を超すと屋根瓦が飛ぶというから、枕崎付近の家屋は殆んど倒壊した。
通信施設も途絶してしまって、中央気象台への連絡も出来ず、台風情報を一般に知らせることが出来なかった。戦時中は、気象情報の公開は一切禁止されていたから、その惰性も残
っていたのだろう。
速度も速かったから、アッという間に風が吹き、川が出水して氾濫して、山津波が起きるという情況であった。光でも島田川が氾濫して、宮本顕治の家も一階は水に沈んでしまった。この時の模様は「播州平野」に詳しい。ちょうど百合子が滞在していた時であった。
死者三七五六名のうち、広島県で三千余名にもなった。広島市も各河川が出水して、デパート福屋も地下一,二階も水に埋もれてしまった(「35 中村住宅二二六号」参照)鉄道も山陽線・山陰線・呉線など殆ど冠水したり、線路が流されて不通となった。
私が朝日塩業に赴任するために光市に行ったのは、ちょうど一年後だったから、枕崎台風の痕跡はもうなかった。
もう一つ、枕崎台風による思いがけない副産物があった。光の東に当たる室津半島の先端に長島がある(衣川さんの出身地、祝島の隣島である)。距離にして光より南東海上十五キロ、枕崎台風の二、三日後、その長島の岩場に一隻の魚雷艇が、海岸に突き刺さるように直角に乗り上げていた。干潮になって磯遊びに来た近在の子供たちが見つけた。光基地の残留隊員がかけつけてハッチを開けると。胡座(あぐら)をかき、眠るように死んでいる一人の人間を見つけた。艇内は機器で横にもなれなかった。人間魚雷「回天」である。
敗戦直前の七月二十五日、訓練中に大水無瀬島の近くの海上から消息を絶った海軍予備少尉和田稔であった。捜索作業が続けられたが見つからず,戦争が終わり、基地隊も解散してしまったので、和田は行方不明のままだった。それが九月十七日の枕崎台風の猛烈な波により、海底に突っ込んでいた魚雷が浮きあがり、波に乗って長島へ流れ着いたのである。残留隊員の手により、和田の遺体は荼毘(だび)に付され、遺骨は直属上官上山春平中尉によって、沼津の実家に届けられた。
「回天」研究は、戦後の私の根底思想の一つであり、和田稔『わだつみの声消えることなく』(角川書店)の私の感想文が、静岡新聞社より読書感想文コンクール入賞作品として受賞した。(「Ⅲ 2」所収)
帰浜してから、光は四回訪れているが、徳山沖の大津島にある「開店記念館」へ訪問がまだ残っている。しかし、健康上実現の可能性は少ない。
二十六年十月十四日、私の初めて体験する大きな台風が、山口県を襲った。「ルース台風」である。
昭和二十八年まで占領軍により、台風には女性の名前がつけられていた。風のかみさんである。キャサリン・キティ・ジェーンなどがあった。台風は決まって夜やって来るのも不気味であった。
この夜、私は四帖半の部屋の硝子戸が吹き飛ばされないように、必死で抑えていた。雨戸はなかったから、激しい風雨が硝子窓に叩きつける。硝子でも破られたらおしまいである。幸い無事だったけれども、長男は腰をぬかして、這っていた。子供心にもこわかったのであろう。
工場の方にも被害があった。これが会社の命取りになったのであるが、枝条架が一基、木柱が折れるなどしてぺしゃんこに潰れてしまったのである。枝条架は三基あったから、残りの二基で命脈は保っていたが、会社を解散せざるを得なくなるのは時間の問題であった。
私も、母が胃を患って入院する事態となり、父より帰浜を促されていたので、十月一杯で退社することに会社と了解がついた。
( 第5部に続く )
台風というと、先ず思い出されるのは「伊勢湾台風」である。明治以後、最大の台風で、五千余人の死者、五十万戸の建物が被害を受けた。その他に「狩野川台風」「洞爺丸台風」「第二室戸台風」、戦前では大阪を直撃した「室戸台風」があった。
戦後の混乱期と占領軍の支配下にあって、余り知られていない台風があった。「枕崎台風」である。
敗戦直後の昭和二十年九月十七日、九州薩摩半島南端部の枕崎に上陸し、一晩で九州を横断して、瀬戸内海から中国山地を猛スピードで通り抜けた。枕崎測候所での最低気圧は,午後二時、九一六・三ミリバール(伊勢湾台風は九二九・五三ミリバール)であった。最大瞬間風速も六二・七メートルを記録した。五〇㍍を超すと屋根瓦が飛ぶというから、枕崎付近の家屋は殆んど倒壊した。
通信施設も途絶してしまって、中央気象台への連絡も出来ず、台風情報を一般に知らせることが出来なかった。戦時中は、気象情報の公開は一切禁止されていたから、その惰性も残
っていたのだろう。
速度も速かったから、アッという間に風が吹き、川が出水して氾濫して、山津波が起きるという情況であった。光でも島田川が氾濫して、宮本顕治の家も一階は水に沈んでしまった。この時の模様は「播州平野」に詳しい。ちょうど百合子が滞在していた時であった。
死者三七五六名のうち、広島県で三千余名にもなった。広島市も各河川が出水して、デパート福屋も地下一,二階も水に埋もれてしまった(「35 中村住宅二二六号」参照)鉄道も山陽線・山陰線・呉線など殆ど冠水したり、線路が流されて不通となった。
私が朝日塩業に赴任するために光市に行ったのは、ちょうど一年後だったから、枕崎台風の痕跡はもうなかった。
もう一つ、枕崎台風による思いがけない副産物があった。光の東に当たる室津半島の先端に長島がある(衣川さんの出身地、祝島の隣島である)。距離にして光より南東海上十五キロ、枕崎台風の二、三日後、その長島の岩場に一隻の魚雷艇が、海岸に突き刺さるように直角に乗り上げていた。干潮になって磯遊びに来た近在の子供たちが見つけた。光基地の残留隊員がかけつけてハッチを開けると。胡座(あぐら)をかき、眠るように死んでいる一人の人間を見つけた。艇内は機器で横にもなれなかった。人間魚雷「回天」である。
敗戦直前の七月二十五日、訓練中に大水無瀬島の近くの海上から消息を絶った海軍予備少尉和田稔であった。捜索作業が続けられたが見つからず,戦争が終わり、基地隊も解散してしまったので、和田は行方不明のままだった。それが九月十七日の枕崎台風の猛烈な波により、海底に突っ込んでいた魚雷が浮きあがり、波に乗って長島へ流れ着いたのである。残留隊員の手により、和田の遺体は荼毘(だび)に付され、遺骨は直属上官上山春平中尉によって、沼津の実家に届けられた。
「回天」研究は、戦後の私の根底思想の一つであり、和田稔『わだつみの声消えることなく』(角川書店)の私の感想文が、静岡新聞社より読書感想文コンクール入賞作品として受賞した。(「Ⅲ 2」所収)
帰浜してから、光は四回訪れているが、徳山沖の大津島にある「開店記念館」へ訪問がまだ残っている。しかし、健康上実現の可能性は少ない。
二十六年十月十四日、私の初めて体験する大きな台風が、山口県を襲った。「ルース台風」である。
昭和二十八年まで占領軍により、台風には女性の名前がつけられていた。風のかみさんである。キャサリン・キティ・ジェーンなどがあった。台風は決まって夜やって来るのも不気味であった。
この夜、私は四帖半の部屋の硝子戸が吹き飛ばされないように、必死で抑えていた。雨戸はなかったから、激しい風雨が硝子窓に叩きつける。硝子でも破られたらおしまいである。幸い無事だったけれども、長男は腰をぬかして、這っていた。子供心にもこわかったのであろう。
工場の方にも被害があった。これが会社の命取りになったのであるが、枝条架が一基、木柱が折れるなどしてぺしゃんこに潰れてしまったのである。枝条架は三基あったから、残りの二基で命脈は保っていたが、会社を解散せざるを得なくなるのは時間の問題であった。
私も、母が胃を患って入院する事態となり、父より帰浜を促されていたので、十月一杯で退社することに会社と了解がついた。
( 第5部に続く )
雨宮日記 9月9日(水)の4 夕方、「秋を探して」2人で散歩しました
台風が去って、静かな青空になったので、夕食後、則子さんと「秋を探して」馬込川の土手を散歩しました。
堤防から2m下のラインに流れてきた草がいっぱいあって、そこまで水が来た証明です。
ニュースでは、東区の安間川や南区で冠水がひどかったようです。
☆
9月の花がいっぱい咲いていました。
花の名前は則子さんも知りませんでした。「君の名は」
台風が去って、静かな青空になったので、夕食後、則子さんと「秋を探して」馬込川の土手を散歩しました。
堤防から2m下のラインに流れてきた草がいっぱいあって、そこまで水が来た証明です。
ニュースでは、東区の安間川や南区で冠水がひどかったようです。
☆
9月の花がいっぱい咲いていました。
花の名前は則子さんも知りませんでした。「君の名は」
雨宮日記 9月9日(水)の3 晴れ間が見えて、馬込川の水位も下がりました
午前11時、雨は完全に止み、風はまだ少しありますが、空に晴れ間が見えてきました。
馬込川の水位も平常にはまだですが、かなり下に下がってきました。
☆
写真はこの時間ではなく、午後の青空です。
午前11時、雨は完全に止み、風はまだ少しありますが、空に晴れ間が見えてきました。
馬込川の水位も平常にはまだですが、かなり下に下がってきました。
☆
写真はこの時間ではなく、午後の青空です。
雨宮日記 9月9日(水)の2 風は強いけど雨は止みました
午前9時、風は強いけど、雨は止みました。
雲間から日が差しました。
新聞によれば東区は安間川が溢れて大変だったようです。
台風は、もうじき愛知県へ上陸でしょうか?
午前9時、風は強いけど、雨は止みました。
雲間から日が差しました。
新聞によれば東区は安間川が溢れて大変だったようです。
台風は、もうじき愛知県へ上陸でしょうか?
雨宮日記 9月9日('水)の1 午前7時、台風が浜松に近付いてます
おはようございます。起きました。台風18号は、午前7時に浜松の南南西70kmで1時間に35kmの速度だそうです。
自宅では、うなっている台風風ですがそんなに強くありません、雨も小雨です。
馬込川も曳馬川も昨日より水位は低いです。
ニュースでは南区や東区で冠水があるようです。
鉄道は、かなり乱れていますが遠鉄電車は走っています。
おはようございます。起きました。台風18号は、午前7時に浜松の南南西70kmで1時間に35kmの速度だそうです。
自宅では、うなっている台風風ですがそんなに強くありません、雨も小雨です。
馬込川も曳馬川も昨日より水位は低いです。
ニュースでは南区や東区で冠水があるようです。
鉄道は、かなり乱れていますが遠鉄電車は走っています。
雨宮日記 9月8日(火)の5 ボクの肩が痛い、腰が痛い‥‥
腰の痛いのは「本屋の職業病」で長いあいだ、治らなかったのですが、最近、良くなってきて、歩く姿勢もよくなりました(自己賛美ですが)。
たぶん則子さんに聞けば「まだ智彦くんの歩く姿勢へんですよ」と言うと思います。
☆
ところが最近、肩が痛くなって、肩こりなんて、64年間、したことがないのです。
頭がクリアーに過ぎて、たぶん、過労状態で、指を使いすぎているんだと思います。
今までとちがい、ずっとパソコンを打っていられるので。
これは労働災害、労災ですね。
30年前に、則子さんが事務局長で、ボクが事務局員で、「浜松労災打ち切り撤回裁判」を粘り強くやった当人なのに。
自分がそうなるとは、まさか思わないんですね。
☆
パソコンを打つ時間を制限しないといけないのかな。
ボクにとって「考える」「思考する」とは「パソコンを打つ」「思考を文字に固定する」ことです。
ちょっと、制限するのは、つらいですね。
腰の痛いのは「本屋の職業病」で長いあいだ、治らなかったのですが、最近、良くなってきて、歩く姿勢もよくなりました(自己賛美ですが)。
たぶん則子さんに聞けば「まだ智彦くんの歩く姿勢へんですよ」と言うと思います。
☆
ところが最近、肩が痛くなって、肩こりなんて、64年間、したことがないのです。
頭がクリアーに過ぎて、たぶん、過労状態で、指を使いすぎているんだと思います。
今までとちがい、ずっとパソコンを打っていられるので。
これは労働災害、労災ですね。
30年前に、則子さんが事務局長で、ボクが事務局員で、「浜松労災打ち切り撤回裁判」を粘り強くやった当人なのに。
自分がそうなるとは、まさか思わないんですね。
☆
パソコンを打つ時間を制限しないといけないのかな。
ボクにとって「考える」「思考する」とは「パソコンを打つ」「思考を文字に固定する」ことです。
ちょっと、制限するのは、つらいですね。
雨宮日記 9月8日(火)の4 夜になって小雨になりました
午後7時、ボクが窓を開けて「小雨になったね」
則子さん「小雨になったのは、前からだよ」
浜松の1時間雨量を知るにはネットで「アメダス 浜松」と検索すると、一番上に、浜松のその日の1時間気象データがでます。
リアルタイムで見れるわけです。
http://www.jma.go.jp/jp/amedas_h/today-50456.html
なお、川の水位情報もリアルタイムで見れます。たとえば「浜松 馬込川 水位」で検索すればヒットしたと思います。
午後7時、ボクが窓を開けて「小雨になったね」
則子さん「小雨になったのは、前からだよ」
浜松の1時間雨量を知るにはネットで「アメダス 浜松」と検索すると、一番上に、浜松のその日の1時間気象データがでます。
リアルタイムで見れるわけです。
http://www.jma.go.jp/jp/amedas_h/today-50456.html
なお、川の水位情報もリアルタイムで見れます。たとえば「浜松 馬込川 水位」で検索すればヒットしたと思います。
雨宮家の歴史37 雨宮の父の自伝史「『落葉松』第4部 Ⅱ-36 長男と次男の出生」
たいへん、お待たせしました(待ってないか)。「落葉松」再開します。
夏になり、虹ヶ浜は海水浴客で賑わった。ここはキャンプ場もある。夕食を済ますと、山陽線の踏切りと国道を横切って、静かになった虹ヶ浜の波打ち際にゴザを敷いて、周防灘の彼方に沈んでいく真っ赤な太陽を見ながら、暗くなるまで座っていた。
妻が躰の異変に気づいて、病院に行ったのは梅雨に入りかけた頃であったが、予定日は来年の三月初めと分かった。産婆さんは.自転車に乗って気軽に往診に来てくれていた。お腹が小さいから女の子だろうという。女の子か、それならちょうどよい、白百合寮の名を取って「百合子」とつけようと二人で話し合っていた。「百合子」という名については、もう一つの理由があった。
光市産の宮本顕治の妻も百合子であり、十七才の時「貧しき人びとの群れ」で作家として出発し、戦後も「播州平野」をいち早く出版していた。「播州平野」には、顕治の実家の島田の家や。叔父の野原の家のことが出てくる。百合子は顕治が釈放されるまでの十二年間に、九回も光を訪れている。ちょうど枕崎台風に襲われて水害に会い、釈放された顕治に会うべく帰京することが描かれている。
奇遇なことに、妻の光子は百合子に会っているのである。妻の池袋の家は巣鴨拘置所の近くであった。現在、サンシャインビルが建っている所は、拘置所の跡地である。(「48 巣鴨拘置所」参照)。顕治はこの巣鴨に拘置されて裁判中であり、百合子は週一回は面会に来ていた。刑務所や拘置所の収監者たちは、食料・日用品・衣類など自弁が認められており、それらを家人からの依頼で届けることを業とする差入屋が,刑務所や拘置所には必ずあった。
光子はその差入屋に勤めていた。百合子はよく気がつく、しっかりした女性であり、同じように面会に来る家族たちからも慕われて何くれとなく面倒をみてやっていた。弁護士の関係者や、差入屋に働く人たちに心づかいを配り、光子は百合子から帯止めをもらっている。空襲で池袋一帯が焼けてしまった時、刑務所だけは米軍も戦後処理を考えてか焼け残り、戦犯を収容する「巣鴨プリズン」となった。
こんな訳で女の子なら「百合子」は既定事実尾のようなものであった。しかし、三月十二日、生まれたのは男の子であった。光子の母が東京から出産の手伝いに来ていた。化粧石鹸がなくて、進駐軍のものを闇で買っておいた。男の子なら男の子でよいが、男の名前までは考えていなかった。
結局、即席で「百合子」が「由利夫」になってしまったが、本人が何と思っているか、有り難くない名前だと思っているかもしれない。学生時代から演劇活動をしているが、芸名「なか としお」で通している。私の「節三」も三月三日生まれだったので、節句の三月より考えたものであろうか、私は不幸な日に生まれたものだと思っている。
五月二十日は結婚記念日であるが、室積の普賢寺の祭日でもある。この寺は漁師たちの安全を守るための寺であり、「普賢祭」と言って昔より近在の漁師たちが舟で集まって大賑いである。戦前の鴨江寺のお彼岸のようであった。この日、由利夫を光子がねんねこで背負って、初めて外出した。
よちよち歩きのようになる前から、衣川さんが毎日、自分の子供のようにさあっと連れていってしまう。衣川さんの子供は小学生で昼間は用がないので専ら由利夫のお守りをしてくれる。可愛くて仕方ないのである。自分の子供のようなものであった。その衣川さんも主人は既に亡く、奥さんは息子と下関にいるが,九十才は超えたと思う。
夏には、まだ光子の妹で、まだ独身だった千代子が一人でやってきた。二人は少女時代から、学校へも、勤めにも一緒に行く仲良しであったが正確は全然反対で、光子はおとなしかったが千代子は気が強く、それで気が合ったのかも知れない。見合いをしても大抵断っていた。一日、由利夫を連れて皆で宮島に遊んだ。
一年おいた昭和二十六年八月二十七日、次男の信和が生まれた。今度は私の父母が揃って来た。信和の出生前に、由利夫は父に連れられて北九州の小倉へ行き、デパートで玩具の電車を買って貰いご機嫌であった。ある日、私は父母を伴って宮島へ出かけ。ゆっくりして貰った。宮島はいつ行っても観光客で賑やかである。私は光を去ってからもを含めて、宮島を五回訪れている。
父は仕事の都合で先に帰り、母は次男の出産後しばらくして徳山から急行で帰った。ホームから客車まで入って見送った。生憎満席だったが、そばの男性が立って籍を譲ってくれた。母が浜松へ着くのは翌朝である。こんなに長い一人旅などしたことはない母を心配したが、譲ってくれた男性に感謝した。
< 次回は「台風」>
偶然、明日は東海・近畿に台風が接近しますね。
たいへん、お待たせしました(待ってないか)。「落葉松」再開します。
夏になり、虹ヶ浜は海水浴客で賑わった。ここはキャンプ場もある。夕食を済ますと、山陽線の踏切りと国道を横切って、静かになった虹ヶ浜の波打ち際にゴザを敷いて、周防灘の彼方に沈んでいく真っ赤な太陽を見ながら、暗くなるまで座っていた。
妻が躰の異変に気づいて、病院に行ったのは梅雨に入りかけた頃であったが、予定日は来年の三月初めと分かった。産婆さんは.自転車に乗って気軽に往診に来てくれていた。お腹が小さいから女の子だろうという。女の子か、それならちょうどよい、白百合寮の名を取って「百合子」とつけようと二人で話し合っていた。「百合子」という名については、もう一つの理由があった。
光市産の宮本顕治の妻も百合子であり、十七才の時「貧しき人びとの群れ」で作家として出発し、戦後も「播州平野」をいち早く出版していた。「播州平野」には、顕治の実家の島田の家や。叔父の野原の家のことが出てくる。百合子は顕治が釈放されるまでの十二年間に、九回も光を訪れている。ちょうど枕崎台風に襲われて水害に会い、釈放された顕治に会うべく帰京することが描かれている。
奇遇なことに、妻の光子は百合子に会っているのである。妻の池袋の家は巣鴨拘置所の近くであった。現在、サンシャインビルが建っている所は、拘置所の跡地である。(「48 巣鴨拘置所」参照)。顕治はこの巣鴨に拘置されて裁判中であり、百合子は週一回は面会に来ていた。刑務所や拘置所の収監者たちは、食料・日用品・衣類など自弁が認められており、それらを家人からの依頼で届けることを業とする差入屋が,刑務所や拘置所には必ずあった。
光子はその差入屋に勤めていた。百合子はよく気がつく、しっかりした女性であり、同じように面会に来る家族たちからも慕われて何くれとなく面倒をみてやっていた。弁護士の関係者や、差入屋に働く人たちに心づかいを配り、光子は百合子から帯止めをもらっている。空襲で池袋一帯が焼けてしまった時、刑務所だけは米軍も戦後処理を考えてか焼け残り、戦犯を収容する「巣鴨プリズン」となった。
こんな訳で女の子なら「百合子」は既定事実尾のようなものであった。しかし、三月十二日、生まれたのは男の子であった。光子の母が東京から出産の手伝いに来ていた。化粧石鹸がなくて、進駐軍のものを闇で買っておいた。男の子なら男の子でよいが、男の名前までは考えていなかった。
結局、即席で「百合子」が「由利夫」になってしまったが、本人が何と思っているか、有り難くない名前だと思っているかもしれない。学生時代から演劇活動をしているが、芸名「なか としお」で通している。私の「節三」も三月三日生まれだったので、節句の三月より考えたものであろうか、私は不幸な日に生まれたものだと思っている。
五月二十日は結婚記念日であるが、室積の普賢寺の祭日でもある。この寺は漁師たちの安全を守るための寺であり、「普賢祭」と言って昔より近在の漁師たちが舟で集まって大賑いである。戦前の鴨江寺のお彼岸のようであった。この日、由利夫を光子がねんねこで背負って、初めて外出した。
よちよち歩きのようになる前から、衣川さんが毎日、自分の子供のようにさあっと連れていってしまう。衣川さんの子供は小学生で昼間は用がないので専ら由利夫のお守りをしてくれる。可愛くて仕方ないのである。自分の子供のようなものであった。その衣川さんも主人は既に亡く、奥さんは息子と下関にいるが,九十才は超えたと思う。
夏には、まだ光子の妹で、まだ独身だった千代子が一人でやってきた。二人は少女時代から、学校へも、勤めにも一緒に行く仲良しであったが正確は全然反対で、光子はおとなしかったが千代子は気が強く、それで気が合ったのかも知れない。見合いをしても大抵断っていた。一日、由利夫を連れて皆で宮島に遊んだ。
一年おいた昭和二十六年八月二十七日、次男の信和が生まれた。今度は私の父母が揃って来た。信和の出生前に、由利夫は父に連れられて北九州の小倉へ行き、デパートで玩具の電車を買って貰いご機嫌であった。ある日、私は父母を伴って宮島へ出かけ。ゆっくりして貰った。宮島はいつ行っても観光客で賑やかである。私は光を去ってからもを含めて、宮島を五回訪れている。
父は仕事の都合で先に帰り、母は次男の出産後しばらくして徳山から急行で帰った。ホームから客車まで入って見送った。生憎満席だったが、そばの男性が立って籍を譲ってくれた。母が浜松へ着くのは翌朝である。こんなに長い一人旅などしたことはない母を心配したが、譲ってくれた男性に感謝した。
< 次回は「台風」>
偶然、明日は東海・近畿に台風が接近しますね。
雨宮日記 9月8日(火)の3 上島2丁目の水路の水位も上昇
上島2丁目の郵便局や遠鉄タクシーの横を南北に流れる水路です。
これも上昇、まだ溢れる水位ではありませんが、以前、集中豪雨で氾濫して保育園が床上浸水したところです。
要注意の水路です。
上島2丁目の郵便局や遠鉄タクシーの横を南北に流れる水路です。
これも上昇、まだ溢れる水位ではありませんが、以前、集中豪雨で氾濫して保育園が床上浸水したところです。
要注意の水路です。
雨宮日記 9月8日(火)の2 小さな曳馬川も水位上昇
あまり聞かない名前だと思いますけど、曳馬川は細い水路で、高林のイシグロのあたりから東南に流れて、遠鉄電車・助信駅の北を超えて、クリエイトのあたりから南に曲がり、八幡中の東を通り、野口公園のあたりで馬込川に注ぐ川です。
ここもかなり上昇しています。
以後、明日にかけて何か変化があればレポートします。
停電してもバッテリーで打てますからね。
あまり聞かない名前だと思いますけど、曳馬川は細い水路で、高林のイシグロのあたりから東南に流れて、遠鉄電車・助信駅の北を超えて、クリエイトのあたりから南に曲がり、八幡中の東を通り、野口公園のあたりで馬込川に注ぐ川です。
ここもかなり上昇しています。
以後、明日にかけて何か変化があればレポートします。
停電してもバッテリーで打てますからね。