雨宮日記 2020年1月18日(土) 『資本論 第3巻』学習会が始まる
今日から『資本論 第3巻』浜松学習会が始まる。今日はガイダンス。月1回で次は第1章と第2章。ひさびさに参加できてうれしい。これからもずっと参加したい。
もちろんアシストしてくれる則子さんがいっしょに参加してくれてのことだけど。
共産党第28回大会が終わる。ネットで同時中継をだいぶ見る。ボクの評価は別に語る機会があると思う。
雨宮日記 2020年1月18日(土) 『資本論 第3巻』学習会が始まる
今日から『資本論 第3巻』浜松学習会が始まる。今日はガイダンス。月1回で次は第1章と第2章。ひさびさに参加できてうれしい。これからもずっと参加したい。
もちろんアシストしてくれる則子さんがいっしょに参加してくれてのことだけど。
共産党第28回大会が終わる。ネットで同時中継をだいぶ見る。ボクの評価は別に語る機会があると思う。
雨宮智彦古代史メモリー 9 20200117 古代史の本 『日本書紀』のテキスト、文庫本
記紀、つまり『古事記』『日本書紀』は、わたしたちが考えるような意味での歴史本ではありません。そうかといって小説や物語でもないと思います。
7・8世紀の古代信仰の時代、フィクションを書くような神をおそれぬ所行はできないと思います。彼らにできたのは彼らにつごうのいい「事実」「伝承」だけを書き残すことだけだったのではないでしょうか。
その痕跡は、正史『日本書紀』のほかにもう1冊『古事記』という本を誰かが秘かに残して室町時代まで隠しもっていてくれたおかげで、よくわかります。
もうひとつ『日本書紀』「神代紀」には「別書」という形でちがったテキストを残してくれています。これも貴重だと思います。
時間があれば、『古事記』『日本書紀』を読み耽りたいのですけど。
「古代史の本 『日本書紀』のテキスト、文庫本
2010年03月20日 16時56分22秒 | 古代史の本
日本古代史の基本文献の1つは「記紀」、つまり『古事記』『日本書紀』であることいn異論のある方はないと思います。
「あんなものは7世紀初めの創作で事実ではない」「天孫降臨とか神武東征とかうそだ」と考えている人がいたら、伝承を何の根拠もなく軽視しない方がいいと私は思います。
まず読んで批判すべき所は批判するのが筋道だと思います。
まず全文をきちんと読みましょう。
『古事記』の方は、文庫本や現代語訳がかなり出ていますが、『日本書紀』の方は、手軽な文庫本で読めるのは限られていますので紹介します。
おすすめは、講談社学術文庫で宇治谷孟(うじたに つとむ)さんの現代語訳で上下・2巻本で出ているテキストです。
『日本書紀 全現代語訳』、1988年第1刷発行で、私が買った2004年に第33刷ですから、かなり売れているのだと思います。
私が買ったときで1冊1150円+税、でした。
原文と現代語訳と注釈まで載っている文庫本は、やはり岩波文庫の5冊本ですね。私が買ったときで1冊1000円+税です。
なお『日本書紀』に続く古代日本の正史である『続日本紀』も同じ宇治谷さんの全現代語訳で、3冊本で出ています。
これも買って、通読することをおすすめします。」
雨宮日記 2020年1月16日(木) 学習会の講師をする
浜松市平和委員会の「会員例会 平和と戦争の映像を見る会」「航空自衛隊浜松基地のむかしと今」でした。写真と動画で映像を見るんだけど、ボク自身もいろいろ発見があった。
わからないことも、いっぱい出てきた。何より図式化する・地図化することがだいじかなあと思った。
もともと浜松市平和委員会の浜松基地パンフをつくるための学習会だけど、課題が見えてきた。
☆
暖冬といえど、外は寒いな。
☆
過去の日別ランキング
1月15日(水)
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1月14日(火)
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1月13日(月)
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1月12日(日)
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雨宮日記 2020年1月15日(水) 小正月です
今日は小正月(こしょうがつ)です。「しょうしょうがつ」ではありません。どんど焼きや成木責めや鳥追い、なまはげなどの農業予祝行事が全国でおこなわれます。
松城にいたころは高町の秋葉さんへ正月のものを焼きにいったものです。今でもやっているのかな。
熱海では14日から18日までの予定で共産党第28回大会が開かれている。主な報告は共産党のホームページで視聴できる。見て批判する価値はあると思う。
評価は大会後にするのが正確かと思う。
雨宮日記 2020年1月14日(火) 昨年の県被爆者の会60周年のビデオを創る
昨年11月の静岡県被爆者の会創立60周年記念行事のビデオを創り始める。今日ははじめの20分だけ完成。3時間だから、あと2時間40分ある。
毎回、今日くらい時間をかけるとするとあと8回かかる。3・1までにはできるかな。
☆
今日から共産党第28回党大会。18日までの予定。インターネット中継があるので、おもしろい。むしろ、今のように一部だけの、あいさつや報告だけではなく、全日程を中継するべきかとも思う。
そうすれば、なるほど共産党には裏も表もないんだなあと納得されると思う。
自伝のための破片 11 死者の思い出 Ⅲ
『零 ー サークル零 創刊号 ー』に書いた「詩のようなもの」のうち2つ目。ちなみに「Ⅰ」「Ⅱ」は書いてないと思う。
あのころ瀬戸内海で油の流出事故とかがあったろうか。それともボクの妄想詩なのか。
「死者の思い出 Ⅲ
藤井智則
けたたましい声でネコが鳴いたとおまえは言った
海鳥たちは行ってしまった 海の底へ
瀬戸内は冷い波が澱む
ドックはヒューヒューと歌う 機械的に
ナウマン象の牙のような細長い物体
暗黒の水底を群は消えゆく 彼方へ
瀬戸内を北西風が渡ってゆく
コンビナートは煙を吐き出す 暗雲に
けたたましい叫びで ネコが鳴いた
いや あれはサイレンなのだ 船を岩礁へ引き寄せる
白い巨大な空間の歪みから吹き出した油
油を取り巻くテレビカメラと怒りのおまえのその眼
一度死んだ死者がもう一度死ぬはずもない
またおれはネコの声を聞いた
ふりむくと茶色のネコが毛を震わせながら消えていった」
カテゴリー名変更
これまでのカテゴリー名「青い地球とオレンジの花」を「青い銀河とオレンジの花」に変更しました。
内容に変更ありません。
自伝のための破片 10 十一月の惑星詩 PARTⅠ
1975年春に浜松へ帰ってきた。1978年(昭和53年)5月に56ページの同人雑誌『零 ー サークル零 創刊号 ー』に詩のようなものを2つ書いた。
これはその1編。「藤井智則」はボクの以前のペンネーム。
下手な「詩のようなもの」だけど、当時の自分の気分は出ていると思う。
ちなみに「十一月の惑星詩 PARTⅡ」以降は、ついに書かれませんでした。いま書いてもいいな。
「十一月の惑星詩 PARTⅠ
藤 井 智 則
生誕は腐食の都市
半透明な耐熱ガラスのビル街で
ぼくたちは育った
空ははるかに灰青色に
治平から治平へ飛行体がよぎる
湖面に 陽の影は長く
波間を秋が去っていく
沼地の泥に沿って歩いていくと
赤茶けた岸にギラつく陽ざし
ほおをくすぐる風だけがさわやかで
地蜂がうなりをあげていた時間
沼蛙たちが合唱している
ビル街の窓から女たちが手をふっていた
午後 人々が路上を埋めつくした
ポプラのつったった夕ぐれ
枝のざわめきがぼくたちの口にのぼる
苦悩の六十年代からまだ近く
ゆきかう男はふりっむきもしないで
花屋のバラは血をしたたらせる」
雨宮日記 2020年1月12日(日) 可能性と選択
現実は1本の棒ではない。無数の偶然性・可能性があって必然性すら無数にあると思う。
「この道しかない」というのは思い込みか宣伝か大嘘だと思う。
現実は無数のバリエーションがあると思う。ボク自身も。
☆
始まったNHKテレビアニメ「」がおもしろい。妄想全開の高校アニメ部アニメ。主人公の3人娘がいいですね。
主人公描きの娘とメカ描きの娘とプロデューサー役の娘。3人が出会って「映像研」アニメが始まる。
まあいわば、ジブリが宮崎さんと高畑さんとプロデューサー役の鈴木さんが3人集まって生まれたようなもんですね。あれ?正解かなあ。
☆
父の介護ベッドを10日に入れました。いままでの低いソファーベッドがたいへんだったので。則子さんは少し楽になりました。
自伝のための破片 9 1973年1月の手帳の断片
「自伝のための破片 8 詩「ボール・ペンへのオード 19721126」」と同じページにはさまっていた手帳の断片。
その裏が「能率手帳 1973 昭和48年」とあるからボクの大学2年生の手帳の1月の「月間予定表」の前半分だけが残っている。
「3日 水 同窓会
5日 金 小寒
8日 月 授業開始
10日 水 代議員会.SK
12日 金 ZGR講演会」
注) 代議員会=学生自治会の代議員会
SK=党支部会議
ZGR=全学連
自伝のための破片 8 詩「ボール・ペンへのオード 19721126」
むかしの本のあいだから40数年ぶるにメモが出てきた。20才のころ書いた詩のようなもの。
たぶん心が膿んでいたころに書いたものだろうと思います。
「ボール・ペンへのオード 19721124 NOV.26修正
青いボール・ペン
紙の上に
流れ出る思想の時間
ペン先がとまる
脳の電子が
流れぬ思想の時間
対話によって
自己の思想を
世界の上にとどめる 人間
青いボールペンによって
ぼくの思想は
紙の上に とどまる
ああ また ぼくは ボール・ペンをなくした
ある秋の日の夜のこと」
雨宮智彦古代史メモリー 6 20200109 遠州の遺跡・寺社5 不動寺(秋葉山)の天狗は羽があって 20100223
遠州の遺跡・寺社5 不動寺(秋葉山)の天狗は羽があって
2010年02月23日 04時25分09秒 | 遠州古代史
浜松市浜北区の「不動寺」に行ってきました。
三方原台地の東の崖線に位置していて、台地の上は「万葉の森公園」になっています。
湧き出す泉があって、「弁天様」の社があって、「不動寺」の建物には、龍の彫り物がまきついていて、明らかに「水神信仰」です。
おもしろいのは「不動寺」の奥に、天狗の社があって、写真のような説明がされていることです。
「烏天狗(からすてんぐ)」は「大天狗」の弟子のようですが。
古代のシャーマンの鳥信仰とも関係ありそうです。
『日本書紀』「巻九 神功皇后 気長足姫尊」に「羽白熊鷲」が出てきたり、キリスト教のイメージで「天使に羽があって空を飛ぶ」こととも関係ありそうです。
「神功皇后紀」では熊襲「服従」のあと、荷物田村の羽白熊鷲という強健で翼があり高く飛べる人がいて、人民を掠めているので神功皇后が殺したとあります。
「羽の白い熊鷲」というのですから、まさに鳥シャーマンです。もちろん、実際に羽が生えていたはずはなく、そういう格好をしていた呪術師ということでしょう。」
新・本と映像の森 322 佐々大河『ふしぎの国のバード 1』ビームコミック、2015年
KADOKAWA、224ページ、定価本体620円。
コミックですけど、実際の旅行記をマンガにしたもの。傑作です。まだ旅行記の方を読んでないんですけど。
1878年(明治11年)5月20日に横浜に到着した若い女性冒険家、イザベラ・バードの日本旅行記。
若い男性通訳、伊藤鶴吉とともに東北から北海道の旅に出る。
好奇心に溢れたイザベラは蚤・虱にたかられながら、興味に満ちた日本の旅を続ける。
ボクがいちばん心に残ったのは、人夫の弥平さんからもらった木苺の味かなあと思います。
第1巻は横浜、江戸、糟壁(春日部?)、日光。
第2巻以後が楽しみです。
雨宮智彦古代史メモリー 5 20200107 遠州の遺跡・寺社4 早出町の薬師堂(早出薬師瑠璃光如来) 20100218
「遠州の遺跡・寺社4 早出町の薬師堂(早出薬師瑠璃光如来)
2010年02月18日 05時17分28秒 | 遠州古代史
我が家から近い早出町の「薬師堂(早出薬師瑠璃光如来)」に行ってきました。薬師観音さまのことだと思いますが、なぜか東向きです。
つまり、太陽が昇る方向を向いています。
薬師観音さまが女性なのか、男性なのか、よくわかりませんが、東を向くということは、古代の女性神信仰、たとえばアマテラス大神や卑弥呼信仰が変化して、観音様信仰になったということもあるのではないでしょうか。
この早出町の薬師堂には、軒の下に3匹の龍がからみついています。龍なり、もっと古型のヘビが女性であることは、古代史では普通の話です。
「瑠璃光」という言葉に記憶があったので、ネットで検索してみたら、山口県の「瑠璃光寺」の日本三大「五重塔」がありました。
これも同じ薬師如来です。
この五重塔の建設を題材に、女性小説家の「見残しの塔」という小説が書かれています。]
雨宮智彦古代史メモリー 4 20200106 遠州の遺跡・寺社3 山神社と蜆塚遺跡 20091121
「遠州の遺跡・寺社3 山神社と蜆塚遺跡
2009年11月21日 16時42分10秒 | 遠州古代史
1
浜松市の縄文時代と言えば蜆塚遺跡、蜆塚遺跡と言えば縄文時代、という風に浜松市民の頭の中には、縄文時代=蜆塚遺跡という等号ができていると思います。
その有名な蜆塚遺跡のすぐ南側、つまり蜆塚遺跡と浜松市博物館の間に、小さな神社があることはあまり知られていないと思います。
博物館の駐車場へ車を入れてすぐ北へ歩くか、それとも蜆塚遺跡の駐車場へ車を入れてすぐ南へ歩くかすると、その「山神社」が見えてきます。
祭神は大山ずみ命(おおやまずみのみこと)。
1982年に静岡県神社庁浜松支部が編集発行した『浜松市神社名鑑』(p54)では「当社は、その起源がが詳かではないが、往古より蜆塚遺跡の」と書いてあります。「往古」とはいつなのでしょうか。
山神社の祭神のオオヤマヅミ神は、佐々木高明さんの『日本文化の基層を探る』(NHKブックス)にあるように日本土着のおそらく南方系の海人の神です。オオヤマヅミの娘がコノハナノサクヤヒメです。佐々木さんは「南島系の海人の系統というのは」「本州南岸を黒潮にのって志摩から伊豆の三宅島、伊豆の三島と展開し」(p179)と書いています。
佐々木氏は年代を特定していませんが、伊豆諸島に少なくとも縄文時代から海人が展開しているのです。
蜆塚遺跡の住民をオオヤマヅミ神を信仰する南方系の漁民(海人)と推測することは空想でしょうか。縄文時代の「往古」から蜆塚の集落の横に山神社があったと考えるのは空想でしょうか。今後の具体的課題としたいと思います。
なお、山神社は東向きであり、当然太陽信仰の神社だと推測されます。
2
谷川健一さんは『青銅の神の足跡』(集英社、1979年)で「古い地名、伝承、氏族、神社。この四つを組み合わせることで、文献記録ではたどれない古代に遡行することができると考える。もとよりそこには考古学の助けが必要であるが。」と書いています。私は、これに共感するとともに「遺跡・古墳」も組み合わせて考えたいと思います。
なお、蜆塚遺跡のなかの南端部分に「蜆塚古墳」があることも付記しておきます。」