次回は、そんな「〇〇村」へと向かう、
霊感に優れた6名の皆さんと僕さんとのポンチキ旅の話へと
展開していきます。
コレまた、いつもの様に!?
「夢物語」として笑って受け止めて頂ければ幸いでして。
ええ。ええ。(^^)
春のおとぎ話は、徒然なるままに続いていきます。
〇〇村とは「骨寺村」です。
正式名称は「骨寺村荘園遺跡(ほねでらむらしょうえんいせき)」
古来より、岩手県、
平泉町にある世界遺産「中尊寺」の所領として管理されて来た集落。
中尊寺には上の写真にある様な、
鎌倉時代に書かれた重要文化財の荘園絵図も保管されています。
中尊寺や毛越寺があまりにも有名な為、
二つの寺院からかなり離れた所にあるこの地は
一般には全く知られていない場所のようです。
実際に行ってみても目に止まるような物などは何ひとつ無く、
山間にひっそりと佇む、何の変哲も無い田園地帯。
よもやこの地が「魏志倭人伝」に記されている
邪馬台国の女王「卑弥呼」が住んでいた地であろうなどとは、
ヨホドのポンチキ人であっても夢にも思わないであろう、
とても穏やかな地。
そんな所を邪馬台国の中心地などと勝手に!
考えてしまう様になったきっかけは、
一年以上前のある日に起きた出来事からでした。
その出来事というのは、
実はこの「コタツとミカン」という記事で記していた事で。
その日の僕は、神様からの頼まれごとがあり、
自宅から程近い世田谷八幡宮へと向かったのでした。
リンク記事にもある様に、
神社へはお馴染みのポンチキねーさんも同行してくれて、
僕らは無事にその用事を済ますこともできたのですが、
この時の神社の上には美しい天からのサインがあったり、
境内の磐座の上では記事中のみゆきちゃんのイラストにもある様な
神様の笑顔を感じられたりもしていました。
そしてそんな神用が済んで「ホッ」とした僕らは、
帰り道にカフェに寄ることにしたのですが、
そのカフェですっかりリラックスしてしまった僕は、フト、
ついさっき迄居た「八幡神社」に関して、
長年考えて来た事を初めてねーさんに話したのです。
そもそも東北の八幡平(はちまんたい=やはたい)という場所こそが
邪馬台国の名前の名残であって。
全国に広がる八幡神社とは「やはたじんじゃ」であり、
それは邪馬台神社(やまたいじんじゃ)の呼称が変容したものであろう......と。
坂上田村麻呂という平安時代の武将が蝦夷征伐に赴いていた時に
「日本中央(ひのもとのまなか)」
と、弓の筈(はず)で書き記していたという伝説の場所も、
キットそのあたりだったと思うんだ......
何度も探しには行ったんだけど......ね、と。
するとその時。
いつもの事ではありますが、突然、
その場でねーさんに2柱の神様から言葉が降りだし、
両神とも異口同音に僕等にこんなことを言うのです......
「日本中央(ひのもとのまなか)とは骨寺村のことだ」
その後も神々は、
事あるごとに幾つかの言葉を降ろしてくれました。
「邪馬台国はスミで塗られたところだよ。
岩手の八幡平だよ。
八幡平の近くの骨寺村荘園だよ。」
いかにも!?といったちょっと不気味な感じもする骨寺村という名前。
調べてみると、決して八幡平のすぐ近く、ということでもありませんが、
しかし、
北上川に沿った現在の岩手県のエリアが一つの大きな王国であった可能性は
地形的にみても全然不思議なことでは無いな、とも。
八幡平から盛岡、花巻、奥州、平泉、一関......北上川は北の神の河。
そんな風にもミエテ来ます。
そして、僕等が骨寺村にいく決定打となった言葉が......
「◯◯◯◯神だ。
マナカ(日本中央)の話だな。
坂上田村麻呂は現神(アラガミ)だったからわかっていたよ。
八幡平(はちまんたい)は、ヤマタイと呼んでいた場所だよ。
骨寺村荘園になるずっと前だ。
せーーーかーーーいは、新しくなったから隅まで教えられるよ。
来年、コトシロヌシが出たら、北海道の前に岩手だな。
三鷹、熱海、真脇、富士、春になったら岩手、北海道だな。
夏までだよ。」
このブログでは未だコトシロヌシ(事代主神)さんの話は
記すことは出来ていませんが、この神様の言葉の後、
僕等は邪馬台国に向かう為に必要な準備と順番として、
先ずは神様の言う事代主のさんのお膝元である出雲、美保の地へと向かい、
そこでそれなりの神事と準備もして。
出雲も巡り。
それでよーやく、
晴れて邪馬台国へと向かう事が出来るようになりました。
「骨寺村荘園」へと向かう迄には、
実は結構長い「それなりの道のり」があるにはあった......
というワケでもあるのです。
そうして、一ノ関駅で待ち合わせた僕等7人は骨寺村に行く前に、
その領主でもある平泉の中尊寺へと向かうことにしました。
やはり、この地を旅するには
「奥州藤原氏」を無視するわけにはいかないのです。
途中、
「先ずは腹ごしらえ!」
ということで、
平泉駅前にある蕎麦の名店「芭蕉館」さんで
名物「平泉わんこそば」をしっかりと!
食べちゃったり。(^^)
ゴキゲンさんで♪(^^)/
こちらはお馴染み。
黄金の国、平泉を象徴する中尊寺の金色堂。
覆堂(おおいどう)の中には、
あまりに有名な黄金で作られた寺院が保存されています。
西暦1300年頃。西洋諸国の間で
「東の果てに黄金で出来た国、ジパングがある......」
という噂や伝説を生んだ「東方見聞録」。
冒険家マルコ・ポーロの口述を著した本。
マルコポーロは黄金の国の噂を中国で聞いていた様で、
見聞録の文章からは、
その情報の元が中尊寺や金色堂である可能性も指摘されています。
仮にそうだとすると、
一般的に奈良や春日大社とされている「シルクロード」の東の終点が、
実はもっと東の、東北地方の平泉であった......
ということになる可能性もあります。
そして、マルコポーロが中国で聞いたという、
そんな日本の噂を創り出した深奥にある要因には、
ソレ以前の時代から日本が中国(魏=ぎ)に
多量の金を贈っていた史実が関連していた可能性もあり、
それこそが「魏志倭人伝」に書かれている頃の邪馬台国ではなかったのか?
......などと、そんな想像までも膨んで来ます。
そもそも何故?
京の都で権勢を誇っていた藤原氏がこの東北の平泉に移り住んで来たのか?
その理由は未だにハッキリと分かってはいないようなのですが、
もしかしたら奥州藤原氏の遠祖である
「藤原頼遠(ふじわらのよりとお)」さんは、
田村麻呂(たむらまろ)同様に、古代、
この辺りの地がこの国にとって最も大切な場所であった事をちゃんと知っていて。
しかもその地は、既に遠く異国に迄噂が伝わっている様な
大量の金や鉄を産出している国でもあり。
様々な武器や用具をも生み出していた国であった事も知っていて。
そんな地を我が物にしようと、
そんな野心もあって都を後にしたのではないのか......!?と。
可能性としてはそんな風に考えられなくも無いわけです。
中尊寺と毛越寺でこの地を守る神々に骨寺村へ向かう旨の挨拶をしている間、
僕らの上空にはなんとなく不思議な雲がズーーーーーーッと......
いらっしゃいました......
どことなくアレ!?の様な?そんな雲さん。
僕等7人は重厚で不思議と暖かい、
「エ」も言われぬ空気に包まれていることを感じながら
骨寺村へと向かいました。
お話は「5」へと続きます。
☆シリーズ記事☆
「邪馬台国徒然」
「2」
「3」
霊感に優れた6名の皆さんと僕さんとのポンチキ旅の話へと
展開していきます。
コレまた、いつもの様に!?
「夢物語」として笑って受け止めて頂ければ幸いでして。
ええ。ええ。(^^)
春のおとぎ話は、徒然なるままに続いていきます。
〇〇村とは「骨寺村」です。
正式名称は「骨寺村荘園遺跡(ほねでらむらしょうえんいせき)」
古来より、岩手県、
平泉町にある世界遺産「中尊寺」の所領として管理されて来た集落。
中尊寺には上の写真にある様な、
鎌倉時代に書かれた重要文化財の荘園絵図も保管されています。
中尊寺や毛越寺があまりにも有名な為、
二つの寺院からかなり離れた所にあるこの地は
一般には全く知られていない場所のようです。
実際に行ってみても目に止まるような物などは何ひとつ無く、
山間にひっそりと佇む、何の変哲も無い田園地帯。
よもやこの地が「魏志倭人伝」に記されている
邪馬台国の女王「卑弥呼」が住んでいた地であろうなどとは、
ヨホドのポンチキ人であっても夢にも思わないであろう、
とても穏やかな地。
そんな所を邪馬台国の中心地などと勝手に!
考えてしまう様になったきっかけは、
一年以上前のある日に起きた出来事からでした。
その出来事というのは、
実はこの「コタツとミカン」という記事で記していた事で。
その日の僕は、神様からの頼まれごとがあり、
自宅から程近い世田谷八幡宮へと向かったのでした。
リンク記事にもある様に、
神社へはお馴染みのポンチキねーさんも同行してくれて、
僕らは無事にその用事を済ますこともできたのですが、
この時の神社の上には美しい天からのサインがあったり、
境内の磐座の上では記事中のみゆきちゃんのイラストにもある様な
神様の笑顔を感じられたりもしていました。
そしてそんな神用が済んで「ホッ」とした僕らは、
帰り道にカフェに寄ることにしたのですが、
そのカフェですっかりリラックスしてしまった僕は、フト、
ついさっき迄居た「八幡神社」に関して、
長年考えて来た事を初めてねーさんに話したのです。
そもそも東北の八幡平(はちまんたい=やはたい)という場所こそが
邪馬台国の名前の名残であって。
全国に広がる八幡神社とは「やはたじんじゃ」であり、
それは邪馬台神社(やまたいじんじゃ)の呼称が変容したものであろう......と。
坂上田村麻呂という平安時代の武将が蝦夷征伐に赴いていた時に
「日本中央(ひのもとのまなか)」
と、弓の筈(はず)で書き記していたという伝説の場所も、
キットそのあたりだったと思うんだ......
何度も探しには行ったんだけど......ね、と。
するとその時。
いつもの事ではありますが、突然、
その場でねーさんに2柱の神様から言葉が降りだし、
両神とも異口同音に僕等にこんなことを言うのです......
「日本中央(ひのもとのまなか)とは骨寺村のことだ」
その後も神々は、
事あるごとに幾つかの言葉を降ろしてくれました。
「邪馬台国はスミで塗られたところだよ。
岩手の八幡平だよ。
八幡平の近くの骨寺村荘園だよ。」
いかにも!?といったちょっと不気味な感じもする骨寺村という名前。
調べてみると、決して八幡平のすぐ近く、ということでもありませんが、
しかし、
北上川に沿った現在の岩手県のエリアが一つの大きな王国であった可能性は
地形的にみても全然不思議なことでは無いな、とも。
八幡平から盛岡、花巻、奥州、平泉、一関......北上川は北の神の河。
そんな風にもミエテ来ます。
そして、僕等が骨寺村にいく決定打となった言葉が......
「◯◯◯◯神だ。
マナカ(日本中央)の話だな。
坂上田村麻呂は現神(アラガミ)だったからわかっていたよ。
八幡平(はちまんたい)は、ヤマタイと呼んでいた場所だよ。
骨寺村荘園になるずっと前だ。
せーーーかーーーいは、新しくなったから隅まで教えられるよ。
来年、コトシロヌシが出たら、北海道の前に岩手だな。
三鷹、熱海、真脇、富士、春になったら岩手、北海道だな。
夏までだよ。」
このブログでは未だコトシロヌシ(事代主神)さんの話は
記すことは出来ていませんが、この神様の言葉の後、
僕等は邪馬台国に向かう為に必要な準備と順番として、
先ずは神様の言う事代主のさんのお膝元である出雲、美保の地へと向かい、
そこでそれなりの神事と準備もして。
出雲も巡り。
それでよーやく、
晴れて邪馬台国へと向かう事が出来るようになりました。
「骨寺村荘園」へと向かう迄には、
実は結構長い「それなりの道のり」があるにはあった......
というワケでもあるのです。
そうして、一ノ関駅で待ち合わせた僕等7人は骨寺村に行く前に、
その領主でもある平泉の中尊寺へと向かうことにしました。
やはり、この地を旅するには
「奥州藤原氏」を無視するわけにはいかないのです。
途中、
「先ずは腹ごしらえ!」
ということで、
平泉駅前にある蕎麦の名店「芭蕉館」さんで
名物「平泉わんこそば」をしっかりと!
食べちゃったり。(^^)
ゴキゲンさんで♪(^^)/
こちらはお馴染み。
黄金の国、平泉を象徴する中尊寺の金色堂。
覆堂(おおいどう)の中には、
あまりに有名な黄金で作られた寺院が保存されています。
西暦1300年頃。西洋諸国の間で
「東の果てに黄金で出来た国、ジパングがある......」
という噂や伝説を生んだ「東方見聞録」。
冒険家マルコ・ポーロの口述を著した本。
マルコポーロは黄金の国の噂を中国で聞いていた様で、
見聞録の文章からは、
その情報の元が中尊寺や金色堂である可能性も指摘されています。
仮にそうだとすると、
一般的に奈良や春日大社とされている「シルクロード」の東の終点が、
実はもっと東の、東北地方の平泉であった......
ということになる可能性もあります。
そして、マルコポーロが中国で聞いたという、
そんな日本の噂を創り出した深奥にある要因には、
ソレ以前の時代から日本が中国(魏=ぎ)に
多量の金を贈っていた史実が関連していた可能性もあり、
それこそが「魏志倭人伝」に書かれている頃の邪馬台国ではなかったのか?
......などと、そんな想像までも膨んで来ます。
そもそも何故?
京の都で権勢を誇っていた藤原氏がこの東北の平泉に移り住んで来たのか?
その理由は未だにハッキリと分かってはいないようなのですが、
もしかしたら奥州藤原氏の遠祖である
「藤原頼遠(ふじわらのよりとお)」さんは、
田村麻呂(たむらまろ)同様に、古代、
この辺りの地がこの国にとって最も大切な場所であった事をちゃんと知っていて。
しかもその地は、既に遠く異国に迄噂が伝わっている様な
大量の金や鉄を産出している国でもあり。
様々な武器や用具をも生み出していた国であった事も知っていて。
そんな地を我が物にしようと、
そんな野心もあって都を後にしたのではないのか......!?と。
可能性としてはそんな風に考えられなくも無いわけです。
中尊寺と毛越寺でこの地を守る神々に骨寺村へ向かう旨の挨拶をしている間、
僕らの上空にはなんとなく不思議な雲がズーーーーーーッと......
いらっしゃいました......
どことなくアレ!?の様な?そんな雲さん。
僕等7人は重厚で不思議と暖かい、
「エ」も言われぬ空気に包まれていることを感じながら
骨寺村へと向かいました。
お話は「5」へと続きます。
☆シリーズ記事☆
「邪馬台国徒然」
「2」
「3」
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