もし国の記述に興味が湧いた方などがいましたら!?
是非、独自に探してみてもらえたら......なんて。
でも、その時のあなたは、
きっと立派な考古学者さんなのだと思うのです。(^ν^)ええ。
お話はもう少し続きます。
以下に、独創的過ぎる見解でもって、
魏志倭人伝に記されている古代国に対する現在の比定地を記してみます。
妄想に妄想を重ねた地域となりますが、一応、
プリリンねーさんの完全監修もいただきまして。ええ。
知識と過去時間を司るアノ神様の!?
確認も頂きやしたのでつ♪(# ̄ー ̄#)むふふのふ。
================================
①倭人は帯方(たいほう)の東南の大海の中に在り。
山島によって国邑(こくゆう)をなす。
=日本列島全体。
②対馬国(とまこく)=長崎県、対馬諸島。
③瀚海(かんかい)=東シナ海。
玄界灘(げんかいなだ)辺りも含まれた表現か。
④一大国(いきこく)=長崎県、壱岐島(いきのしま)。
⑤末廬国(まつろこく)=佐賀県、松浦市一帯。
⑥伊都国(いとこく)=福岡県、糸島市一帯。
⑦奴国(なこく)=福岡県、福岡市から宗像市、北九州市、
山間部では、いわゆる筑豊炭田(ちくほうたんでん)から
宇佐神宮辺りまでの一帯。
⑧不弥国(ふみこく)=熊本県、宇城市(うきし)一帯。砂川流域。
⑨投馬国(とうまこく)=静岡県、伊豆、堂ヶ島(どうがしま)一帯。
⑩邪馬台国(やまたいこく)
=岩手県、◯◯村を中心とした、
八幡平(はちまんたい)一帯も含む広大な地域。
⑪女王国より以北、その戸数、道里を略載を得べきも、
その余の旁国は遠絶にして、詳(つまびらかに)することを得べからず。
=八幡平(はちまんたい)以北、青森から北海道のエリア。
⑫斯馬国(しまこく)=宮城県、色麻町(しかまちょう)から仙台市、
名取市にかけた一帯。
色麻古墳群、念南寺古墳群(ねやじこふんぐん)。
名取には全長170メートル級の雷神山古墳なども。
⑬巳百支国(いわきこく)=福島県、いわき市一帯。
⑭伊邪国(いやこく)=福島県、郡山市から
弥栄(やさかえ)辺りまでの一帯。
「弥栄」は「いやさか」もしくは「いや」という名前であった可能性も。
中心地は東北エリア最大の前方後円墳を含む
大安場古墳群(おおやすばこふんぐん)か。
猪苗代(いなわしろ)は「伊邪の城」もしくは「伊邪の後ろ」か。
⑮都支国(ときこく)=茨城県、日立市(ひたちし)から
水戸市(みとし)の一帯。
いわゆる「常磐(じょうばん)」と呼ばれるエリア。
常磐は勿論「ときわ」と読む。
⑯弥奴国(みなこく)=栃木県、宇都宮市から
壬生町(みぶちょう)にかけた一帯。
⑰好古都国(ここつこく)=千葉県、九十九里(くじゅうくり)から
房総半島先端にかけての一帯。
要所は安房神社、三島神社、須崎神社、玉前神社など。
⑱不呼国(ふここく)=山梨県と静岡県の富士山一帯。
⑲姐奴国(さなこく?しゃな?)=静岡県、
浜松市の佐鳴(さな、佐鳴湖)から御前崎、焼津市、
静岡市の三保半島にかけての東海一帯。
⑳対蘇国(つそこく)=三重県、津市(つし)の一帯。
㉑蘇奴国(そなこく)=愛知県、江南市、蘇南(そなん)から
名古屋市一帯。
中心地は一宮、真清田神社(ますみだじんじゃ)辺りか。
㉒呼邑国(こおこく)=滋賀県、甲賀市から甲良町辺りを中心とした
琵琶湖回り一帯。中心地は多賀大社辺りか。
湖の王で「湖王国(こおうこく)」であった可能性も。
㉓華奴蘇奴国(かなそなこく)=神奈川県。
金沢地区を中心とする一帯。
「次に」という原文の記載順列を考えると違和感があるが、
僕のビジョンと神様の答えは一致。
㉔鬼国(きこく)=和歌山県、熊野市の鬼ヶ城、
木本神社(きもとじんじゃ)辺りから新宮市、
山間部はいわゆる熊野三山を含む一帯。
紀州という呼称の元となったエリア。
㉕為吾国(いごこく)=三重県、伊賀市一帯。
㉖鬼奴国(きなこく)=大阪府、大阪市を中心とする一帯。
いわゆる畿内(きない)。
㉗次に邪馬国(やまこく)=奈良県、奈良市。
いわゆる大和(やまと)。中心は春日大社。
㉘次に躬臣国(きしこく?くしこく?きゅうしんこく?)=和歌山県、
串本町一帯。
㉙次に巴利国(はりこく)=兵庫県、
播磨(はりま)地域を中心とした一帯。
㉚次に支惟国(しいこく、きいこく)=山口県、
防府市を中心とする一帯。周防(すおう)。
㉛次に烏奴国(うなこく)=愛媛県、
宇和島市(うわじまし)を中心とする一帯。
㉜次に奴國(なこく)=福岡県、福岡市から宗像市、北九州市、
山間部ではいわゆる「筑豊炭田(ちくほうたんでん)」から
宇佐神宮辺りまでの一帯。
㉝ここは女王の境界尽きる所なり。=邪馬台国の最西端が汝国。
地理的に朝鮮半島諸国や魏国(中国)との国境であり、
国家防衛的にも文化交流的にも最前線国であり重要国であった。
㉞その南に狗奴国(くなこく)有り。男子を王となす。
=汝国以南の九州。鹿児島を中心とする一帯。
=================================
どーでしょう。このポンチキさ加減。。(* ̄ー ̄*)
学会などからは永久追放されるであろうラインアップ。
でも神様との答え合わせでは、最初、90点!
というところまで一致しておりまちたの。
僕さん。マジ感激で。ええ。
ポンチキ・ポイントとしては、先ず、
これまで様々な人達に膨大な研究や議論をし尽くさせて来た
距離と方角に関して
「奴国以降の記述は、まぁ、曖昧だろう」
と完璧に割り切って考えている点です。
「何故曖昧な記述だと言うのか?」
というと、当たり前の事ではありますが、
倭人伝における記述はただでさえ不確実であろう、
想像しか出来ない遠い異国の地の話であるということと、
加えて、⑦の「奴国」以降の文章は、
全て「伝聞形式」で書かれているからです。
この文を書いた人、もしくは情報のソースとなった人は、
魏国(ぎこく)から九州北部までは確実に自らの足で辿り着いています。
なので国の名前も現在の地名とカナリ酷似もしていますし、
距離や方角の記述もそれなりの「まとまり感」があります。
しかしソコから先の倭国(日本)の情報に関しては、誰かに、
それは奴国の邪馬台国出張所の役人なのか?
もしくは町の人々なのか?
はわかりませんが、
とにかく人々から聞いた事を記している文字使いとなっているのです。
ここは絶対に見落とせないポイントです。
倭人伝の情報源となった人?人々?は、
海を越えて辿り着いた北九州で人々の話を聞いた後、
もしかしたら行きたかったであろう邪馬台国への道のりはカナリ長く、
険しいことを知り、
そしてほぼ間違いなく彼等は邪馬台国には行っていません。
そのまま引き返した感じ。
この辺りの事実の指摘は前回記事でも記した
「邪馬台国はどこにあったか?」
という本や、その他多くの書物などでも詳細に書かれて来ています。
ちなみに、
京都の龍谷大学に所蔵されている疆理図(きょうりず)と呼ばれる、
現存する最古の世界地図を以下に転載しますが......
どーでしょう。このポンチキさ加減。
日本は右下に描かれていますが、南北も逆になっています。
チョーーいい加減です。
これでも1402年に李氏朝鮮(りしちょうせん)国で作られた
正式な地図です。
魏志倭人伝の書かれた時代は、
この地図が作られた時より更に千年以上も前となります。
そんな時代に書かれた「未知の外国の旅行紀」で、
加えて「人から聞いた噂?話し?」でもあって。
そんな状況下にある記述の距離や方角を正面から相手にしていては
暗中模索の五里霧中。
邪馬台国の所在地など永遠に分からないとも思うわけなのです。
アチキわ。ええ。
そして、
次のポイントとしては⑦と㉜に「奴国」が「2回」出てくるところ。
これはもしかしたら、邪馬台国を一周して戻って来た!?
という表現である様にも考えられます。もしそうなら、
問題は一周した地が九州なのか?本州なのか?
はたまた......という点でしょうか。
その次は「邪馬台」の「台」の字が原本では「壹」と書かれていたり、
他の史書では「臺」と書かれていたりする問題。
壹は「イ」とも、壱(いち)の旧漢字ともされるようですが、
これも考え出すと迷宮入りになる様な事なので、
「基本通り壹や臺は台の古い形ということでいいじゃん!
リコーのコピー機無かったし!」
というこれまた安易な立場を選択。
興味のある人は今すぐ検索へGo!
そして最大、且つ最重要のポイントは⑩の「投馬国」のところです。
「南、水行二十日、投馬国」
と書かれているコノ記述が、
今もって邪馬台国は九州なのか?奈良なのか?
という議論の要因となっています。
詳しくはネット上でも様々な記述が見つかるとも思いますが、
この九州説や奈良説の場合、
ほぼ全てが投馬国に渡る前の⑧不弥国(ふみこく)が
北九州一帯に比定されています。
そんな主流となっている説に対し、
この自由気ままなポンチキブログにおいては、
⑧の不弥国(ふみこく)を熊本県の宇城市とし、
⑨の投馬国を伊豆の「堂ヶ島」としています。
その理由は、既に上に記した通り、
奴国以降の方角や距離などは完全に無視してい考えていることと、
倭人伝の著者にもし、
上の疆理図(きょうりず)の様なイメージがあるならば、
北は南となり、西は東になり......
南下して船で20日間旅して辿り着くという⑨の「投馬国」は、
「ザックリいえば、遠いとこなんだろー。。(*´ω`*)」
という程度で記述を受け止めると、
距離感としては関東辺りでフィットもして来ます。
さてさて、こちらわ、
学会から最も遠いとされる「ポンチキ界」にある、
夢想極まりない「雲完ブログ」です。
「シガラミもコダワリも、なーんにも無いのっ☆」
というソノ唯一の優位さでもって、
前出の本の作者でも、
他の誰であっても、
決して導き出すことのなかった、あまりに突飛でも無い
「邪馬台国の中心地」へと話を進めていこうと思います。
———————⑩邪馬台国(やまたいこく)
=岩手県、◯◯村を中心とした、
八幡平(はちまんたい)一帯も含む広大な地域—————
次回は、そんな「〇〇村」へと向かう、
霊感に優れた6名の皆さんと僕さんとのポンチキ旅の話へと
展開していきます。
コレまた、いつもの様に!?
「夢物語」として笑って受け止めて頂ければ幸いでして。
ええ。ええ。(^^)
春のおとぎ話は、徒然なるままに続きます。
ポンチキ旅の出発点は「お餅」で有名な岩手県、
一ノ関(いちのせき)駅。
この旅を一緒にしてくれた霊力溢れる6人の方々の愛称を入れておきますと、
一ノ関駅でのお出迎えと旅の同行サポートをしてくれた、
地元、東北在住の「Eri♀」さんと、「ま〜ゆ♂」さん。
わざわざ北海道から駆けつけてくれた「ミワン♀」さん。
そして、最早お馴染みの!?「iku♀」ちゃんと「miko♀」ちゃんと、
神の言葉を正確にトレースするポンチキ頭領の「プリリンねーさん」
不思議な事に、この皆さんは全員、
邪馬台国と何らかの深い魂的関わりを持っていた様でして。
もし、この方達のうち一人でも欠けていたら......
今回記している物語は、
今日のこの記事あたりで途切れていたと思います。
そんな宿命と役割を持った皆さんと一緒に貴重な旅が出来たことには、
今さらですが、僕は心より嬉しく、感謝もしています。
どーも僕は、
何かを考えていたり集中していたりする様な時は限りなく無表情になって、
無愛想さも極まる印象を人々に与えてしまう未熟者だったりもしますので、
実のところ、こんなふうに思っていたことも伝わっていなかったろうな......
とも思っているのです。
なので、この時のメンバーの皆さんには
改めて此処に感謝を記し置いておこうかと思います。
ありがとうございます(^^)
このブログのサブタイトルの言葉に嘘はありません。
いつの日か
「アイツはこんなこと考えていたんだ、、」
と、この記事を見つけてもらえればとても有難く、
心和らぎもするのです。
そして、そんなふうに人に見つけて貰える嬉しさは、
邪馬台国を命を賭して護り、
暮らしていた人々にとっても同じことではないか......
とも、思うのです。
☆シリーズ記事☆
「邪馬台国徒然」
「2」
是非、独自に探してみてもらえたら......なんて。
でも、その時のあなたは、
きっと立派な考古学者さんなのだと思うのです。(^ν^)ええ。
お話はもう少し続きます。
以下に、独創的過ぎる見解でもって、
魏志倭人伝に記されている古代国に対する現在の比定地を記してみます。
妄想に妄想を重ねた地域となりますが、一応、
プリリンねーさんの完全監修もいただきまして。ええ。
知識と過去時間を司るアノ神様の!?
確認も頂きやしたのでつ♪(# ̄ー ̄#)むふふのふ。
================================
①倭人は帯方(たいほう)の東南の大海の中に在り。
山島によって国邑(こくゆう)をなす。
=日本列島全体。
②対馬国(とまこく)=長崎県、対馬諸島。
③瀚海(かんかい)=東シナ海。
玄界灘(げんかいなだ)辺りも含まれた表現か。
④一大国(いきこく)=長崎県、壱岐島(いきのしま)。
⑤末廬国(まつろこく)=佐賀県、松浦市一帯。
⑥伊都国(いとこく)=福岡県、糸島市一帯。
⑦奴国(なこく)=福岡県、福岡市から宗像市、北九州市、
山間部では、いわゆる筑豊炭田(ちくほうたんでん)から
宇佐神宮辺りまでの一帯。
⑧不弥国(ふみこく)=熊本県、宇城市(うきし)一帯。砂川流域。
⑨投馬国(とうまこく)=静岡県、伊豆、堂ヶ島(どうがしま)一帯。
⑩邪馬台国(やまたいこく)
=岩手県、◯◯村を中心とした、
八幡平(はちまんたい)一帯も含む広大な地域。
⑪女王国より以北、その戸数、道里を略載を得べきも、
その余の旁国は遠絶にして、詳(つまびらかに)することを得べからず。
=八幡平(はちまんたい)以北、青森から北海道のエリア。
⑫斯馬国(しまこく)=宮城県、色麻町(しかまちょう)から仙台市、
名取市にかけた一帯。
色麻古墳群、念南寺古墳群(ねやじこふんぐん)。
名取には全長170メートル級の雷神山古墳なども。
⑬巳百支国(いわきこく)=福島県、いわき市一帯。
⑭伊邪国(いやこく)=福島県、郡山市から
弥栄(やさかえ)辺りまでの一帯。
「弥栄」は「いやさか」もしくは「いや」という名前であった可能性も。
中心地は東北エリア最大の前方後円墳を含む
大安場古墳群(おおやすばこふんぐん)か。
猪苗代(いなわしろ)は「伊邪の城」もしくは「伊邪の後ろ」か。
⑮都支国(ときこく)=茨城県、日立市(ひたちし)から
水戸市(みとし)の一帯。
いわゆる「常磐(じょうばん)」と呼ばれるエリア。
常磐は勿論「ときわ」と読む。
⑯弥奴国(みなこく)=栃木県、宇都宮市から
壬生町(みぶちょう)にかけた一帯。
⑰好古都国(ここつこく)=千葉県、九十九里(くじゅうくり)から
房総半島先端にかけての一帯。
要所は安房神社、三島神社、須崎神社、玉前神社など。
⑱不呼国(ふここく)=山梨県と静岡県の富士山一帯。
⑲姐奴国(さなこく?しゃな?)=静岡県、
浜松市の佐鳴(さな、佐鳴湖)から御前崎、焼津市、
静岡市の三保半島にかけての東海一帯。
⑳対蘇国(つそこく)=三重県、津市(つし)の一帯。
㉑蘇奴国(そなこく)=愛知県、江南市、蘇南(そなん)から
名古屋市一帯。
中心地は一宮、真清田神社(ますみだじんじゃ)辺りか。
㉒呼邑国(こおこく)=滋賀県、甲賀市から甲良町辺りを中心とした
琵琶湖回り一帯。中心地は多賀大社辺りか。
湖の王で「湖王国(こおうこく)」であった可能性も。
㉓華奴蘇奴国(かなそなこく)=神奈川県。
金沢地区を中心とする一帯。
「次に」という原文の記載順列を考えると違和感があるが、
僕のビジョンと神様の答えは一致。
㉔鬼国(きこく)=和歌山県、熊野市の鬼ヶ城、
木本神社(きもとじんじゃ)辺りから新宮市、
山間部はいわゆる熊野三山を含む一帯。
紀州という呼称の元となったエリア。
㉕為吾国(いごこく)=三重県、伊賀市一帯。
㉖鬼奴国(きなこく)=大阪府、大阪市を中心とする一帯。
いわゆる畿内(きない)。
㉗次に邪馬国(やまこく)=奈良県、奈良市。
いわゆる大和(やまと)。中心は春日大社。
㉘次に躬臣国(きしこく?くしこく?きゅうしんこく?)=和歌山県、
串本町一帯。
㉙次に巴利国(はりこく)=兵庫県、
播磨(はりま)地域を中心とした一帯。
㉚次に支惟国(しいこく、きいこく)=山口県、
防府市を中心とする一帯。周防(すおう)。
㉛次に烏奴国(うなこく)=愛媛県、
宇和島市(うわじまし)を中心とする一帯。
㉜次に奴國(なこく)=福岡県、福岡市から宗像市、北九州市、
山間部ではいわゆる「筑豊炭田(ちくほうたんでん)」から
宇佐神宮辺りまでの一帯。
㉝ここは女王の境界尽きる所なり。=邪馬台国の最西端が汝国。
地理的に朝鮮半島諸国や魏国(中国)との国境であり、
国家防衛的にも文化交流的にも最前線国であり重要国であった。
㉞その南に狗奴国(くなこく)有り。男子を王となす。
=汝国以南の九州。鹿児島を中心とする一帯。
=================================
どーでしょう。このポンチキさ加減。。(* ̄ー ̄*)
学会などからは永久追放されるであろうラインアップ。
でも神様との答え合わせでは、最初、90点!
というところまで一致しておりまちたの。
僕さん。マジ感激で。ええ。
ポンチキ・ポイントとしては、先ず、
これまで様々な人達に膨大な研究や議論をし尽くさせて来た
距離と方角に関して
「奴国以降の記述は、まぁ、曖昧だろう」
と完璧に割り切って考えている点です。
「何故曖昧な記述だと言うのか?」
というと、当たり前の事ではありますが、
倭人伝における記述はただでさえ不確実であろう、
想像しか出来ない遠い異国の地の話であるということと、
加えて、⑦の「奴国」以降の文章は、
全て「伝聞形式」で書かれているからです。
この文を書いた人、もしくは情報のソースとなった人は、
魏国(ぎこく)から九州北部までは確実に自らの足で辿り着いています。
なので国の名前も現在の地名とカナリ酷似もしていますし、
距離や方角の記述もそれなりの「まとまり感」があります。
しかしソコから先の倭国(日本)の情報に関しては、誰かに、
それは奴国の邪馬台国出張所の役人なのか?
もしくは町の人々なのか?
はわかりませんが、
とにかく人々から聞いた事を記している文字使いとなっているのです。
ここは絶対に見落とせないポイントです。
倭人伝の情報源となった人?人々?は、
海を越えて辿り着いた北九州で人々の話を聞いた後、
もしかしたら行きたかったであろう邪馬台国への道のりはカナリ長く、
険しいことを知り、
そしてほぼ間違いなく彼等は邪馬台国には行っていません。
そのまま引き返した感じ。
この辺りの事実の指摘は前回記事でも記した
「邪馬台国はどこにあったか?」
という本や、その他多くの書物などでも詳細に書かれて来ています。
ちなみに、
京都の龍谷大学に所蔵されている疆理図(きょうりず)と呼ばれる、
現存する最古の世界地図を以下に転載しますが......
どーでしょう。このポンチキさ加減。
日本は右下に描かれていますが、南北も逆になっています。
チョーーいい加減です。
これでも1402年に李氏朝鮮(りしちょうせん)国で作られた
正式な地図です。
魏志倭人伝の書かれた時代は、
この地図が作られた時より更に千年以上も前となります。
そんな時代に書かれた「未知の外国の旅行紀」で、
加えて「人から聞いた噂?話し?」でもあって。
そんな状況下にある記述の距離や方角を正面から相手にしていては
暗中模索の五里霧中。
邪馬台国の所在地など永遠に分からないとも思うわけなのです。
アチキわ。ええ。
そして、
次のポイントとしては⑦と㉜に「奴国」が「2回」出てくるところ。
これはもしかしたら、邪馬台国を一周して戻って来た!?
という表現である様にも考えられます。もしそうなら、
問題は一周した地が九州なのか?本州なのか?
はたまた......という点でしょうか。
その次は「邪馬台」の「台」の字が原本では「壹」と書かれていたり、
他の史書では「臺」と書かれていたりする問題。
壹は「イ」とも、壱(いち)の旧漢字ともされるようですが、
これも考え出すと迷宮入りになる様な事なので、
「基本通り壹や臺は台の古い形ということでいいじゃん!
リコーのコピー機無かったし!」
というこれまた安易な立場を選択。
興味のある人は今すぐ検索へGo!
そして最大、且つ最重要のポイントは⑩の「投馬国」のところです。
「南、水行二十日、投馬国」
と書かれているコノ記述が、
今もって邪馬台国は九州なのか?奈良なのか?
という議論の要因となっています。
詳しくはネット上でも様々な記述が見つかるとも思いますが、
この九州説や奈良説の場合、
ほぼ全てが投馬国に渡る前の⑧不弥国(ふみこく)が
北九州一帯に比定されています。
そんな主流となっている説に対し、
この自由気ままなポンチキブログにおいては、
⑧の不弥国(ふみこく)を熊本県の宇城市とし、
⑨の投馬国を伊豆の「堂ヶ島」としています。
その理由は、既に上に記した通り、
奴国以降の方角や距離などは完全に無視してい考えていることと、
倭人伝の著者にもし、
上の疆理図(きょうりず)の様なイメージがあるならば、
北は南となり、西は東になり......
南下して船で20日間旅して辿り着くという⑨の「投馬国」は、
「ザックリいえば、遠いとこなんだろー。。(*´ω`*)」
という程度で記述を受け止めると、
距離感としては関東辺りでフィットもして来ます。
さてさて、こちらわ、
学会から最も遠いとされる「ポンチキ界」にある、
夢想極まりない「雲完ブログ」です。
「シガラミもコダワリも、なーんにも無いのっ☆」
というソノ唯一の優位さでもって、
前出の本の作者でも、
他の誰であっても、
決して導き出すことのなかった、あまりに突飛でも無い
「邪馬台国の中心地」へと話を進めていこうと思います。
———————⑩邪馬台国(やまたいこく)
=岩手県、◯◯村を中心とした、
八幡平(はちまんたい)一帯も含む広大な地域—————
次回は、そんな「〇〇村」へと向かう、
霊感に優れた6名の皆さんと僕さんとのポンチキ旅の話へと
展開していきます。
コレまた、いつもの様に!?
「夢物語」として笑って受け止めて頂ければ幸いでして。
ええ。ええ。(^^)
春のおとぎ話は、徒然なるままに続きます。
ポンチキ旅の出発点は「お餅」で有名な岩手県、
一ノ関(いちのせき)駅。
この旅を一緒にしてくれた霊力溢れる6人の方々の愛称を入れておきますと、
一ノ関駅でのお出迎えと旅の同行サポートをしてくれた、
地元、東北在住の「Eri♀」さんと、「ま〜ゆ♂」さん。
わざわざ北海道から駆けつけてくれた「ミワン♀」さん。
そして、最早お馴染みの!?「iku♀」ちゃんと「miko♀」ちゃんと、
神の言葉を正確にトレースするポンチキ頭領の「プリリンねーさん」
不思議な事に、この皆さんは全員、
邪馬台国と何らかの深い魂的関わりを持っていた様でして。
もし、この方達のうち一人でも欠けていたら......
今回記している物語は、
今日のこの記事あたりで途切れていたと思います。
そんな宿命と役割を持った皆さんと一緒に貴重な旅が出来たことには、
今さらですが、僕は心より嬉しく、感謝もしています。
どーも僕は、
何かを考えていたり集中していたりする様な時は限りなく無表情になって、
無愛想さも極まる印象を人々に与えてしまう未熟者だったりもしますので、
実のところ、こんなふうに思っていたことも伝わっていなかったろうな......
とも思っているのです。
なので、この時のメンバーの皆さんには
改めて此処に感謝を記し置いておこうかと思います。
ありがとうございます(^^)
このブログのサブタイトルの言葉に嘘はありません。
いつの日か
「アイツはこんなこと考えていたんだ、、」
と、この記事を見つけてもらえればとても有難く、
心和らぎもするのです。
そして、そんなふうに人に見つけて貰える嬉しさは、
邪馬台国を命を賭して護り、
暮らしていた人々にとっても同じことではないか......
とも、思うのです。
☆シリーズ記事☆
「邪馬台国徒然」
「2」
と、あなたが私に初めて言ったのは、一昨年の12月の世田谷八幡宮の帰りのカフェでした。
熱く語るあなたに、そんなことをずっと何年も考え続けていたのか?と驚きました。
今回の検証は、神様達の望みだったのか、朝早くから目が覚めて、ひとつひとつを丁寧に教えてくれました。
地名には、古代の秘密が満載でしたね。
いつも、感動をありがとうございます。
あなたの、何十年の精進、努力、勉強している姿あればこそ、答え合わせが出来るのでしょう
(^^ゞ
この記事は簡単には教えてはくれないですよ
(^^ゞ
神様との答えあわせは感激と興奮の連続でした(^^)
ココまで良く分かったと思います。自分でも驚いてます。
この地名が世に出るのは、空海さんと、実は、、、キトラ古墳に眠るあの人!?以来でしょうか。
お互い埋められていないのが奇跡だとも思います。本当に時代が新しくなった事を実感しました。
流石のポンチキ力に脱帽です。隠せない人には隠せませんなぁ...
この記事は持統天皇を恐れさせたキトラに眠るアノ人!?と、空海さん以来のことだと思います。
霊脈は争えませんな!?(^^)
ひとつにすると新しい飲み物が産まれる
「あいだ」が「あわい」に変わる時
新しいモノが産まれるのだと思います
簡単な辞書では同義語とされる
このふたつの言葉は
本当は全く逆の意味を持っています
答えは上の僕のコメントの中に書いてあります。ええ。さりげなく。実は。
卑弥呼と似た様なものなのですが、もっと時代が下って、卑弥呼という職名もなくなった頃に、類まれな女性預言者として生まれています。
その突出した能力故に悲運の人生を送ってしまった様なのですが......
鯨統一郎著、「邪馬台国はどこですか?」なのでしょうか?
その本の写真も話もシリーズ記事「2」に書いてあります。
デラシネさんのコメントはこのシリーズ記事の「3」にありますので、
その1つ前の記事となります。
先ずはそちらを一読していただければと。
勿論、このコメントは鯨さんの本を読んでもらっている上でのものだとは思いますが、
そうであれば、その本の内容とは「全く違う話」であることも
「全8話」のシリーズ記事を全て読んでもらえればわかっていただけるのではないかと。
更に鯨さんのお話しと違うのは、ここに記している話は小説でもなんでもなく。
全て自分自身の実体験事であり、
一緒に動いていてくれた人達も沢山いることも記されていると思います。
全て、素人の個人的なお話し以上のものでもありませんが、
そのことも明瞭に書かれていると思いますし、
「ネットなどをググって頂いても何処にも書かれていない話」
であり、
「倭人伝に記されている国々の比定地も全て記されている」
と思います。
それともう1つ。
八幡神社に関しての鯨さんの諸説は、あくまで、
最初に本というメディアになったのが鯨さんであり、
それ以前からも、これまでも、
多くの方々......勿論、一般人やカン!?のある方々が多いでしょうが......
から語られて来ていたことでもあります。
鯨さんにもインスピレーションの源泉がある、ということでしょうか。
当たり前の話ですが、ご参考まで。