街の綺麗なパン屋さんは、
幾つかの欲しいパンをトレーに乗せてレジに持ち込むと、
パンをそれぞれ種類ごとに分けて、
一つ一つ個別に、
丁寧にビニール袋に入れてくれたりします。
最後にはそれらをまとめて店の名前が印字された
手さげ付きの大きめのプラスチックバッグに入れてくれたりもします。
エコが叫ばれるようになってから、
こんなパン屋さんは少しづつ減って来たのかもしれませんが。
少なくとも、
1995年1月18日の午後2時ぐらいに僕が入ったパン屋さんは
そんなパン屋さんでした。
その日は淡路島周辺を震源とした、
歴史に残る直下型大地震が京阪神を襲った日の翌日で。
僕は大阪の豊中という街に住んでいて、
近所の木造の家などはほぼ全て半壊、
もしくは全壊をしていました。
そんな風景を横目に見ながら、
その街を南北に走る街道沿いにあるパン屋さんに、
僕は一人、パンを買おうと並んでいました。
その時の僕は20代前半。
一人暮らしで常に外食ばかり。
普段から家の冷蔵庫にはコーラとビール以外、
めぼしい食べ物や飲み物などはまったく無く......
近所のコンビニが冷蔵庫代わりで......
なんていう生活をしていました。
その震災の時にも僕の部屋にあったものは、
確か牛乳と卵とベーコン。ソーセージ。
お米が5kgの袋に1/3程度。わずかな量。
それしか食べ物も飲み物もありませんでした。
余震と呼ばれる大きな地震は引っ切り無しに襲って来ます。
まるで何かが、
人知を超える何かが、
激しく怒っているように感じたり。
それに恐怖したりもしていて。
そんな中、震災中の食料を探してスーパー、コンビニ、
米屋に八百屋に魚屋......
僕は歩ける範囲の全ての店を回りました。
しかし、災害に襲われた街の店々からは
既に全ての商品が消えて無くなっていて。
中身が空っぽのお店ばかり。
そんな街の風景には、どこか「絶望感」のようなものが
恐怖と空虚さと共に漂っていました。
街は、遠い夢の中の廃墟のようにも見えました。
それでも、街がそんな風であればあるほど、
「何とか食料だけは......」
という僕の思いは強くなり。
小売店の様な店々は勿論のこと、発想を切り替えて、
ありとあらゆる自動販売機やファーストフードにお弁当屋さん、
全てのレストランや定食屋さんなども探し歩きました。
そんな店々の中には窓ガラスが割られ、中にある食品やお菓子や、
ドリンク類などが全て持って行かれたようなところもありました。
自動販売機にしても電源が切れていたり、壊れて倒れていたり。
全て売り切れだったり。
24時間営業の牛丼屋さんなども全て閉まっていました。
牛丼屋さんの中には少し前までは開いていたのか?
「品切れ」の張り紙が出ているような店も。
それでも
「まだあるんじゃないか?」
「もう一度店が開くのではないか?」
という一縷の希望を持った人々が何十人と牛丼屋の入口のドアから
街道沿いにズラリと立ち並んでもいて。
いつ開くともわからない牛丼屋さんに30人以上の人が並ぶという光景を
僕はその時以来見たことはありません。
そうして、歩き疲れ、足が棒のようになっていた僕の前に、
少し前に見かけた牛丼屋さんのように、とても多くの人々が並び
「何か」を買っているお店が突然現れたのです。
それが冒頭に記したパン屋さん。
「なんとか、1つでも、
小さなパンでも買うことができればいいな......」
そう思って、僕は長い待ち人の列に並びました。
それからレジまで30分ほど。
並んでいる間に、
このお店が何で営業できているのか?もわかりました。
お店の中にはパン焼き工房があって。
そこで毎朝パンを焼いていたから可能だったようなのです。
幸い食材もオーブンも無事で。それで近所の皆さんのために、と。
自分達に出来るだけのことをしてくれていたお店のようなのです。
店内に入ると注意書きの紙があちこちに貼られていて、
「お一人様5個程度でお願いします」
と書かれていました。
この張り紙を僕はとても良く覚えています。
見渡すと、それ以上のパンを買いこんでいる人もいます。
5個より少し少ない、二、三個だけ買って帰るような人もいました。
このお店同様の気持ちで買っている人なのでしょうか......
いろいろ......です。
僕はそんな人々を横目に見ながら、とにかく並んで、
僅かに残っていた小さな菓子パンを3つだけ......買いました。
僕は一人暮らしでしたので、とても5個は買えませんでした。
そして料金を払おうとレジ前に立ち、お金を出すと、
レジに立っていた高校生のような若い女の子は
「お待たせして申し訳ありませんでした......」
と、平常時と同じ様な?
平常時を知らないのでイメージでしかありませんが......
そんな対応と言葉を話していました。
それ迄、列に並んでいた時に、
人の流れがやけに遅いと感じていた僕は、
幾人かの人の背中越しに前方のレジの様子を覗き見ていたのですが、
その時は......
「◯◯◯が一点。△△△が一点、×××が一点......合計¥¥¥です!」
女の子はそう言いながら、
一つ一つのパンをいつものように一つ一つ丁寧にビニールに包み。
それをさらにプラスチックバッグに入れてお客さんに渡していました。
いつもと同じ形なのでしょう。
僕は、自分の会計が来た時に、
並んでいた時に見ていたのと同じように
わずか3個のパンをビニールに詰めようとする彼女に対してこう言いました。
「ビニールはいらない。
そのまま袋に入れてくれればダイジョーブ」
そして、
「すげー並んでるからさ、、、」
と付け加えました。
その後、パンを受け取って立ち去る時に、
振り返って、
もう一度彼女の様子を見てみました。
「◯◯◯が一点。△△△が一点、×××が一点......合計¥¥¥です!」
僕はその時、
とても複雑な思いでその光景を見ていました。
「ちょっと、パニクってるんだろうな。
無理もないよな......」
「どうして......こーなっちゃうのだろう......」
それは、居並ぶ人々に懸命に対応している
優しい女の子に対する気持ちというわけでもないのです。
別の日は、
当時付き合っていた彼女の消息を確かめようと、
決死の思いで向かった神戸への道すがら、
貴重なペットボトルの水を配っている
ヤ◯ザ屋さん職の方々を見かけました。
強面の男の人の手から配られている水を
3本も4本も取ろうとするオバちゃんがいました。
コワモテの男の人は、
「一人2本までや!わからんのかい!」
と言っていて、
そのおばちゃんはスゴスゴと引き下がった後、
その水をもらおうとする沢山の人の列にもう一度、
何食わぬ顔で並んでいました。
持っていた水は誰かに預けたようでした......
周りの人々からは冷たい視線が飛んできます。
が、おばちゃんは意に介しません。
そのあと並んだ後ろの中年男性から怒号が飛びます。
「あんた!何回ならんどんねん!!!」
その中年男性の後ろには、
泣きじゃくっている小さな男の子が並んでいました。
また違う場所では、
救援物資を多くの人々に配っている光景が見えました。
そこからは女性の大きな怒鳴り声が聞こえてきました。
「あんたらふざけんな!
私には沢山の子供がいるんだ!」
ふと見下ろした僕の足元は、
まるで爆弾が落ちた跡の様にボコボコと窪んだ穴だらけでした。
その周りの地面は所々、
何か別の世界の様にワケもわからず捻くれていて。
それが道だったのか、
人の家の庭だったのか、
路肩の歩道だったのか。
全くわからない場所になっていました。
「絶対、彼女を助けてやる」
その時、
僕にはそんな気持ちが強く湧き上がってきました。
数日後、
しばらく連絡が取れなかった
西宮に住んでいた敬愛する先輩のG野さんと会うことができました。
心底心配をしていた人の無事が確認できて、
僕はなんとも言えない喜びを覚えていました。
G野さんはプロレスの興行もとり仕切る様な剛腕なイベンターさん。
体も大きく、体力もあって荒ぶる人ですが、心根も優しい。
家は半壊だったようなのですが、
自分と家族の無事を確認した後は、
自衛隊さんや消防士さんと共に倒壊した近所の家々から
沢山の人をひたすら助けていたようでした。
G野さんはその時もやっぱり頼もしく。
山のように僕の前に立っていました。
G野さんは僕に一言こう言いました。
「あんな、UZMET。
男は体鍛えとかなあかんで。
いざという時役に立たん」
今、南米、エクアドルでも大変な事態となっている様です。
今一度、2014年に書いた「1月17日」という記事の最後の部分だけ、
ここにも転記しておきたく思います。
=================================
本当は、
その時僕が言いたかったこと、
阪神淡路大震災の時に「思ったコト」「起きた出来事」というのは
とても沢山あって、
だからとても一遍に話したり書き記すようなことは出来ないのですが、
そんな事というのはみな極々当たり前で
常識とも言えるようなことばかりにも思えています。
......そんなもの?なのでしょうか。。
命は宝物だということ。
明日死んでも後悔の無い様に生きなければということ。
大切な人の安否が分かって初めて次の心配も行動も出来るんだということ。
異常な災害時には人間それぞれの本質が表れてくるということ。
そして、改めて、
強く生きたい、強くなりたい......ということ。
そんな当たり前のことばかり。
でも、そんな当たり前のことも成すのは難しいということ。
当たり前に生き抜くということも大変なことなのだということ。
阪神淡路大震災以来、
1月17日にはその時噛み締めた色々な思いをちゃんと思い起こそうと努力してみます。
あの時を目前にし、
あの時に一緒に過ごした途轍も無く辛い思いをした人達。
今もそんな思いをし続けている、
なかなか癒えない傷を負った多くの人達のことを思ってみます。
電気やガスが街に戻るまで、
僕のワンルームで窮屈な思いをさせながら数ヶ月一緒に暮らした
3人の人達のことを思ってみます。
ほんと、ダメな僕は、毎日の生活にまみれる中でそんな思いも
ついつい薄れてしまっていたりする様な気もして。。
改めて、命に感謝して、大切に、強く生きねば。。と。
当たり前の日々に、感謝をしなければ。。と。
1月17日にはそんなことを思い直したりします。
=================================
多くの人が、強くあれますように。
幾つかの欲しいパンをトレーに乗せてレジに持ち込むと、
パンをそれぞれ種類ごとに分けて、
一つ一つ個別に、
丁寧にビニール袋に入れてくれたりします。
最後にはそれらをまとめて店の名前が印字された
手さげ付きの大きめのプラスチックバッグに入れてくれたりもします。
エコが叫ばれるようになってから、
こんなパン屋さんは少しづつ減って来たのかもしれませんが。
少なくとも、
1995年1月18日の午後2時ぐらいに僕が入ったパン屋さんは
そんなパン屋さんでした。
その日は淡路島周辺を震源とした、
歴史に残る直下型大地震が京阪神を襲った日の翌日で。
僕は大阪の豊中という街に住んでいて、
近所の木造の家などはほぼ全て半壊、
もしくは全壊をしていました。
そんな風景を横目に見ながら、
その街を南北に走る街道沿いにあるパン屋さんに、
僕は一人、パンを買おうと並んでいました。
その時の僕は20代前半。
一人暮らしで常に外食ばかり。
普段から家の冷蔵庫にはコーラとビール以外、
めぼしい食べ物や飲み物などはまったく無く......
近所のコンビニが冷蔵庫代わりで......
なんていう生活をしていました。
その震災の時にも僕の部屋にあったものは、
確か牛乳と卵とベーコン。ソーセージ。
お米が5kgの袋に1/3程度。わずかな量。
それしか食べ物も飲み物もありませんでした。
余震と呼ばれる大きな地震は引っ切り無しに襲って来ます。
まるで何かが、
人知を超える何かが、
激しく怒っているように感じたり。
それに恐怖したりもしていて。
そんな中、震災中の食料を探してスーパー、コンビニ、
米屋に八百屋に魚屋......
僕は歩ける範囲の全ての店を回りました。
しかし、災害に襲われた街の店々からは
既に全ての商品が消えて無くなっていて。
中身が空っぽのお店ばかり。
そんな街の風景には、どこか「絶望感」のようなものが
恐怖と空虚さと共に漂っていました。
街は、遠い夢の中の廃墟のようにも見えました。
それでも、街がそんな風であればあるほど、
「何とか食料だけは......」
という僕の思いは強くなり。
小売店の様な店々は勿論のこと、発想を切り替えて、
ありとあらゆる自動販売機やファーストフードにお弁当屋さん、
全てのレストランや定食屋さんなども探し歩きました。
そんな店々の中には窓ガラスが割られ、中にある食品やお菓子や、
ドリンク類などが全て持って行かれたようなところもありました。
自動販売機にしても電源が切れていたり、壊れて倒れていたり。
全て売り切れだったり。
24時間営業の牛丼屋さんなども全て閉まっていました。
牛丼屋さんの中には少し前までは開いていたのか?
「品切れ」の張り紙が出ているような店も。
それでも
「まだあるんじゃないか?」
「もう一度店が開くのではないか?」
という一縷の希望を持った人々が何十人と牛丼屋の入口のドアから
街道沿いにズラリと立ち並んでもいて。
いつ開くともわからない牛丼屋さんに30人以上の人が並ぶという光景を
僕はその時以来見たことはありません。
そうして、歩き疲れ、足が棒のようになっていた僕の前に、
少し前に見かけた牛丼屋さんのように、とても多くの人々が並び
「何か」を買っているお店が突然現れたのです。
それが冒頭に記したパン屋さん。
「なんとか、1つでも、
小さなパンでも買うことができればいいな......」
そう思って、僕は長い待ち人の列に並びました。
それからレジまで30分ほど。
並んでいる間に、
このお店が何で営業できているのか?もわかりました。
お店の中にはパン焼き工房があって。
そこで毎朝パンを焼いていたから可能だったようなのです。
幸い食材もオーブンも無事で。それで近所の皆さんのために、と。
自分達に出来るだけのことをしてくれていたお店のようなのです。
店内に入ると注意書きの紙があちこちに貼られていて、
「お一人様5個程度でお願いします」
と書かれていました。
この張り紙を僕はとても良く覚えています。
見渡すと、それ以上のパンを買いこんでいる人もいます。
5個より少し少ない、二、三個だけ買って帰るような人もいました。
このお店同様の気持ちで買っている人なのでしょうか......
いろいろ......です。
僕はそんな人々を横目に見ながら、とにかく並んで、
僅かに残っていた小さな菓子パンを3つだけ......買いました。
僕は一人暮らしでしたので、とても5個は買えませんでした。
そして料金を払おうとレジ前に立ち、お金を出すと、
レジに立っていた高校生のような若い女の子は
「お待たせして申し訳ありませんでした......」
と、平常時と同じ様な?
平常時を知らないのでイメージでしかありませんが......
そんな対応と言葉を話していました。
それ迄、列に並んでいた時に、
人の流れがやけに遅いと感じていた僕は、
幾人かの人の背中越しに前方のレジの様子を覗き見ていたのですが、
その時は......
「◯◯◯が一点。△△△が一点、×××が一点......合計¥¥¥です!」
女の子はそう言いながら、
一つ一つのパンをいつものように一つ一つ丁寧にビニールに包み。
それをさらにプラスチックバッグに入れてお客さんに渡していました。
いつもと同じ形なのでしょう。
僕は、自分の会計が来た時に、
並んでいた時に見ていたのと同じように
わずか3個のパンをビニールに詰めようとする彼女に対してこう言いました。
「ビニールはいらない。
そのまま袋に入れてくれればダイジョーブ」
そして、
「すげー並んでるからさ、、、」
と付け加えました。
その後、パンを受け取って立ち去る時に、
振り返って、
もう一度彼女の様子を見てみました。
「◯◯◯が一点。△△△が一点、×××が一点......合計¥¥¥です!」
僕はその時、
とても複雑な思いでその光景を見ていました。
「ちょっと、パニクってるんだろうな。
無理もないよな......」
「どうして......こーなっちゃうのだろう......」
それは、居並ぶ人々に懸命に対応している
優しい女の子に対する気持ちというわけでもないのです。
別の日は、
当時付き合っていた彼女の消息を確かめようと、
決死の思いで向かった神戸への道すがら、
貴重なペットボトルの水を配っている
ヤ◯ザ屋さん職の方々を見かけました。
強面の男の人の手から配られている水を
3本も4本も取ろうとするオバちゃんがいました。
コワモテの男の人は、
「一人2本までや!わからんのかい!」
と言っていて、
そのおばちゃんはスゴスゴと引き下がった後、
その水をもらおうとする沢山の人の列にもう一度、
何食わぬ顔で並んでいました。
持っていた水は誰かに預けたようでした......
周りの人々からは冷たい視線が飛んできます。
が、おばちゃんは意に介しません。
そのあと並んだ後ろの中年男性から怒号が飛びます。
「あんた!何回ならんどんねん!!!」
その中年男性の後ろには、
泣きじゃくっている小さな男の子が並んでいました。
また違う場所では、
救援物資を多くの人々に配っている光景が見えました。
そこからは女性の大きな怒鳴り声が聞こえてきました。
「あんたらふざけんな!
私には沢山の子供がいるんだ!」
ふと見下ろした僕の足元は、
まるで爆弾が落ちた跡の様にボコボコと窪んだ穴だらけでした。
その周りの地面は所々、
何か別の世界の様にワケもわからず捻くれていて。
それが道だったのか、
人の家の庭だったのか、
路肩の歩道だったのか。
全くわからない場所になっていました。
「絶対、彼女を助けてやる」
その時、
僕にはそんな気持ちが強く湧き上がってきました。
数日後、
しばらく連絡が取れなかった
西宮に住んでいた敬愛する先輩のG野さんと会うことができました。
心底心配をしていた人の無事が確認できて、
僕はなんとも言えない喜びを覚えていました。
G野さんはプロレスの興行もとり仕切る様な剛腕なイベンターさん。
体も大きく、体力もあって荒ぶる人ですが、心根も優しい。
家は半壊だったようなのですが、
自分と家族の無事を確認した後は、
自衛隊さんや消防士さんと共に倒壊した近所の家々から
沢山の人をひたすら助けていたようでした。
G野さんはその時もやっぱり頼もしく。
山のように僕の前に立っていました。
G野さんは僕に一言こう言いました。
「あんな、UZMET。
男は体鍛えとかなあかんで。
いざという時役に立たん」
今、南米、エクアドルでも大変な事態となっている様です。
今一度、2014年に書いた「1月17日」という記事の最後の部分だけ、
ここにも転記しておきたく思います。
=================================
本当は、
その時僕が言いたかったこと、
阪神淡路大震災の時に「思ったコト」「起きた出来事」というのは
とても沢山あって、
だからとても一遍に話したり書き記すようなことは出来ないのですが、
そんな事というのはみな極々当たり前で
常識とも言えるようなことばかりにも思えています。
......そんなもの?なのでしょうか。。
命は宝物だということ。
明日死んでも後悔の無い様に生きなければということ。
大切な人の安否が分かって初めて次の心配も行動も出来るんだということ。
異常な災害時には人間それぞれの本質が表れてくるということ。
そして、改めて、
強く生きたい、強くなりたい......ということ。
そんな当たり前のことばかり。
でも、そんな当たり前のことも成すのは難しいということ。
当たり前に生き抜くということも大変なことなのだということ。
阪神淡路大震災以来、
1月17日にはその時噛み締めた色々な思いをちゃんと思い起こそうと努力してみます。
あの時を目前にし、
あの時に一緒に過ごした途轍も無く辛い思いをした人達。
今もそんな思いをし続けている、
なかなか癒えない傷を負った多くの人達のことを思ってみます。
電気やガスが街に戻るまで、
僕のワンルームで窮屈な思いをさせながら数ヶ月一緒に暮らした
3人の人達のことを思ってみます。
ほんと、ダメな僕は、毎日の生活にまみれる中でそんな思いも
ついつい薄れてしまっていたりする様な気もして。。
改めて、命に感謝して、大切に、強く生きねば。。と。
当たり前の日々に、感謝をしなければ。。と。
1月17日にはそんなことを思い直したりします。
=================================
多くの人が、強くあれますように。
最近は、uzmetさんのブログ内容で心に響いた言葉をスクリーンショットで残して噛み締めています。この記事を読んで、また改めて我が身を振り返っています。
本当にありがとうございます。(^^)