雲は完璧な姿だと思う。。

いつの日か、愛する誰かが「アイツはこんな事考えて生きていたのか、、」と見つけてもらえたら。そんな思いで書き記してます。

日本中央

2012-10-19 00:02:27 | 面白い
日本中央......「ひのもとのまなか」と読みます。
何だか......「浪漫=ろまん!」を感じる言葉です。



「袖中抄=しょうちゅうしょう」という
鎌倉時代初期に歌学者の藤原顕昭(ふじわらのけんしょう)が編纂した
20巻からなる和歌をまとめた歴史的にもとても重要な書物があります。
その第19巻にこう記されています。



「顕昭云 いしぶみとは(けんしょういわく いしぶみとは)
みちのくの奥に “つぼのいしぶみ” 有り(みちのくのおくに“つぼのいしぶみ”あり)
日本の東の果てと云り(にほんのひがしのはてといえり)

但、田村の将軍征夷の時(ただし たむらのしょうぐんせいいのとき)
弓のはずにて 石の面に(ゆみのはずにて いしのつらに)
日本の中央のよしを書付たれば(ひのもとのまなかのよしをかきつけたれば)
石文と云うと云へり(いしぶみというといえり)

信家の侍従の申しは(のぶいえの じじゅうの もうししは)
石の面ながさ四五丈計なるに(いしのつらながさ し~ごたけなるに)
文をゑり付けたり(ふみをえりつけたり)
其所をつぼと云り(そのところをつぼというなり)

私云(わたくしいわく)
陸奥は東のはてとおもへど(みちのくはひがしのはてとおもへど)
えぞの嶋は多くて千嶋とも云ば(えぞのしまはおおくてちしまともいわば)
陸地をいはんに(りくちをいはんに)
日本の中央にても侍るにこそ(ひのもとのまなかにても はべるにこそ)」



要しますと、
征夷大将軍、坂上田村麻呂が蝦夷討伐のときに、弓の「はず」で
大きな石に「日本中央」と言う意味の言葉を書き付けまちた!
という事のようです。
その書き付けた石碑のある場所、土地の名前が東北の
「つぼ」
と言われる所で、筆者は、
北海道や遠く千島列島までも日本とするのであれば、
このみちのくの何処か......
「つぼ」と言われる場所が日本の真ん中!
と言っても間違いでは無いのではないか......
というようなことを記しているのではないかと思われます。



なんで? 
こんな話しをしているのかと言いますと、
少し前に「アテルイ」という記事をノリノリちゃんで記したのですが、
その時にそれを見てくれたマニア系友人「M山」さんから



「田村麻呂と言うと僕の場合 “日本中央の碑” なんですよねぇ。。
でも、何故? 東北の地で日本中央なんでしょうか。
僕はそれがとても不思議なんですよねぇ。。」



という、
M山さんの体型には似合わないとても浪漫てっくな質問を頂いたからです。
コレは個人的にも面白いと思っていた話しなので
直ぐに記事返しをしようと書き出したのですが、
ちょっと長くなりそうだったので時間のある時に改めて書こうか......
などと思っているうちに、今回になってしまいました。
M山さんすいません(><)
このM山さんのマニアックな質問、



「何故 田村麻呂は東北の地で “日本中央” と記したのか?」



というのは確かに、長い間......それは平安の昔から、
日本史における一つの「ミステリー」になっていて、
歴史学者さん達の間でも色々な議論がなされて来た話しでもあります。
そして未だに「確実な」答えは見出されていません。



あぁ......ろまーーんヽ( ´ ▽ ` )ノ



そして、浪漫はつづくよ、どこまでも。
あぁ......書き上げられるのだろうか、これ......
ちと不安......続く......




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