そして、浪漫はつづくよ、どこまでも。
あぁ......書き上げられるのだろうか、これ......
ちと不安......続く......
「何故、田村麻呂は東北の地で “日本中央” と記したのか?」
というのは確かに、長い間......それは平安の昔から、
日本史における一つの「ミステリー」になっていて、
歴史学者さん達の間でも様々な議論がなされて来た話しでもあります。
そして未だに確実な答えは見出されていません。
この日本中央と彫られた石碑「つぼのいしぶみ」は、
未だその存在の有無がハッキリしていません。
そんな中「袖中抄=しょうちゅうしょう」での記述以来、
この石碑の伝説は古の世から様々な人々に
「歌枕」として数多く読まれて来ました。
藤原清輔、西行、慈円、源頼朝、藤原仲実、藤原顕昭、和泉式部、
南部重信、高山彦九郎、岩倉具視、大町桂月。。
歌人は勿論、平安貴族や歴代の武将、文人、政治家などなど。
遠く、道の奥......「みちのく」のさらに奥のどこかに、
「日本中央=ひのもとのまなか」と記された大きな石碑がある......
という言い伝えは、人々の浪漫を掻き立てる「何か」を宿している......
ということなのでしょうか。
あの松尾芭蕉も、
宮城県の多賀城で江戸時代初期に発見されたソレらしき石碑を見た時、
「コレがあの伝説の “つぼのいしぶみ” だ!」
と感激してしまい、
名作「奥の細道」にシッカリ、ウッカリと記したりしなんかしちゃったようで。
多賀城は確かに田村麻呂が蝦夷征伐の拠点としていた城ではあったのですが、
この石碑を伝説の「つぼのいしぶみ」とするには沢山の疑問が残りました。
先ず「袖中抄」に記されている様な「つぼ」という名前の地では無いこと。
記されている碑文の内容にも「日本の中央」という言葉も意味もありません。
さらには石の大きさも記述と違ってかなり小さい。
そんなワケで、これは「つぼのいしぶみ」では無い......
とされる意見が現在では主流となっています。
一方、青森県の東北町という所に、
昔「ツボ=坪、都母」と呼ばれていた集落があり、
そこに「千曳神社=ちびきじんじゃ」と言う神社があります。
「昔、昔、、、村人千人が大きな大きな石を引いて来て、、
神社の下に埋めちゃった!」
なんていう伝説が残っている神社で、
それがそのまま神社の名前にもなっています。
明治時代、この伝説の埋められた石が「つぼのいしぶみ」ではないかと、
その話しを聞いた明治天皇が勅命を下し、
大勢の人でその神社の境内をくまなく、
何度も掘り起こさせたということもありました。
が、結局そこでも石碑は発見されませんでした。
その後、今度は昭和の中期に、そのツボの村で
「明治天皇も発見出来なかったこの伝説の石碑を発見したんだよーーん!」
という事件!?が起こり。
当時、このニュースが日本中にも流れ。
その真贋を専門家がよってたかって調べたりもしたようなこともあったのですが......
石碑の筆跡があまりに稚拙であることや、
石自体の年代の不明瞭さ、
さらには史実的にもこの場所には田村麻呂が到達していたという証拠も無く。
現在に至るまでその真贋は明らかになっていません。
未だ「つぼのいしふみ」の存在はミステリーのままということです。
勿論「日本中央」という言葉の真意も。。
あぁ、浪漫。。
ちなみに「発見したよーん!ニュース」の石碑は、現在
「日本中央の碑 保存館」
という展示場が地元に建てられて、そこに飾られているそうです。
そして、実は、ここからが......
この「みちのくの浪漫」の深遠に迫る!?
ロマンちっく街道に入っていくのでございます......
話しの舞台は東北の地から九州の地へ飛びます。
時代も飛んで遥か昔、日本神話の時代。。
記紀神話、現日本史における初代天皇である「神武=じんむ」は
日本を統一する為に九州のとある場所から日本列島を東へと遠征に向かいます。
それを教科書的には「神武東征=じんむとうせい」といいます。
その神武が最初に居住していた場所、国は諸説あるのですが、
ここでは「仮」に、強引に九州、阿蘇山に程近い宮崎の高千穂としちゃいます。
ここではです。仮定です。はい。
異論は2年後ぐらいにお願い出来ればと。はい m(_ _)mペコリ
特に、神武が住み執政も行っていたと言う伝説や、
神武以前の不思議な神話も数多く残っている、
いつ頃からあるかも分からない様な神社......
「弊立神宮=へいたてじんぐう」
というところから「浪漫ちっく街道」はスタートします。
知る人ぞ知る、深い山間にあるその不思議な神社「弊立神宮」から、
太陽の昇ってくる「東」の方向をジッと見てみます......
すると、そこに、
何やら一本の不思議な「線」がイメージ出来る事に気がつきます。
はい......
それが......「Ley Line = レイ・ライン」です。。
つづくのだ!じゃじゃーーん!(><)/
神話の宝庫、弊立神宮。
高天原はココ!
なんて碑も立てられています w( ̄o ̄)w オオー!だいたーん!
高千穂峰も実は!?ココなんだぜーい......
なんて碑も立ててあります。
ココに伝わる神話の真偽はともかく、本当にヤバい所。
特に本殿裏の山と降りた所にある......
もう不思議としか言いようがありませんが......
歴代の宮司さんも皆その道の有名人。
カン!?のある不思議ちゃんが行く際は、何卒!気を引き締めて。。
あぁ......書き上げられるのだろうか、これ......
ちと不安......続く......
「何故、田村麻呂は東北の地で “日本中央” と記したのか?」
というのは確かに、長い間......それは平安の昔から、
日本史における一つの「ミステリー」になっていて、
歴史学者さん達の間でも様々な議論がなされて来た話しでもあります。
そして未だに確実な答えは見出されていません。
この日本中央と彫られた石碑「つぼのいしぶみ」は、
未だその存在の有無がハッキリしていません。
そんな中「袖中抄=しょうちゅうしょう」での記述以来、
この石碑の伝説は古の世から様々な人々に
「歌枕」として数多く読まれて来ました。
藤原清輔、西行、慈円、源頼朝、藤原仲実、藤原顕昭、和泉式部、
南部重信、高山彦九郎、岩倉具視、大町桂月。。
歌人は勿論、平安貴族や歴代の武将、文人、政治家などなど。
遠く、道の奥......「みちのく」のさらに奥のどこかに、
「日本中央=ひのもとのまなか」と記された大きな石碑がある......
という言い伝えは、人々の浪漫を掻き立てる「何か」を宿している......
ということなのでしょうか。
あの松尾芭蕉も、
宮城県の多賀城で江戸時代初期に発見されたソレらしき石碑を見た時、
「コレがあの伝説の “つぼのいしぶみ” だ!」
と感激してしまい、
名作「奥の細道」にシッカリ、ウッカリと記したりしなんかしちゃったようで。
多賀城は確かに田村麻呂が蝦夷征伐の拠点としていた城ではあったのですが、
この石碑を伝説の「つぼのいしぶみ」とするには沢山の疑問が残りました。
先ず「袖中抄」に記されている様な「つぼ」という名前の地では無いこと。
記されている碑文の内容にも「日本の中央」という言葉も意味もありません。
さらには石の大きさも記述と違ってかなり小さい。
そんなワケで、これは「つぼのいしぶみ」では無い......
とされる意見が現在では主流となっています。
一方、青森県の東北町という所に、
昔「ツボ=坪、都母」と呼ばれていた集落があり、
そこに「千曳神社=ちびきじんじゃ」と言う神社があります。
「昔、昔、、、村人千人が大きな大きな石を引いて来て、、
神社の下に埋めちゃった!」
なんていう伝説が残っている神社で、
それがそのまま神社の名前にもなっています。
明治時代、この伝説の埋められた石が「つぼのいしぶみ」ではないかと、
その話しを聞いた明治天皇が勅命を下し、
大勢の人でその神社の境内をくまなく、
何度も掘り起こさせたということもありました。
が、結局そこでも石碑は発見されませんでした。
その後、今度は昭和の中期に、そのツボの村で
「明治天皇も発見出来なかったこの伝説の石碑を発見したんだよーーん!」
という事件!?が起こり。
当時、このニュースが日本中にも流れ。
その真贋を専門家がよってたかって調べたりもしたようなこともあったのですが......
石碑の筆跡があまりに稚拙であることや、
石自体の年代の不明瞭さ、
さらには史実的にもこの場所には田村麻呂が到達していたという証拠も無く。
現在に至るまでその真贋は明らかになっていません。
未だ「つぼのいしふみ」の存在はミステリーのままということです。
勿論「日本中央」という言葉の真意も。。
あぁ、浪漫。。
ちなみに「発見したよーん!ニュース」の石碑は、現在
「日本中央の碑 保存館」
という展示場が地元に建てられて、そこに飾られているそうです。
そして、実は、ここからが......
この「みちのくの浪漫」の深遠に迫る!?
ロマンちっく街道に入っていくのでございます......
話しの舞台は東北の地から九州の地へ飛びます。
時代も飛んで遥か昔、日本神話の時代。。
記紀神話、現日本史における初代天皇である「神武=じんむ」は
日本を統一する為に九州のとある場所から日本列島を東へと遠征に向かいます。
それを教科書的には「神武東征=じんむとうせい」といいます。
その神武が最初に居住していた場所、国は諸説あるのですが、
ここでは「仮」に、強引に九州、阿蘇山に程近い宮崎の高千穂としちゃいます。
ここではです。仮定です。はい。
異論は2年後ぐらいにお願い出来ればと。はい m(_ _)mペコリ
特に、神武が住み執政も行っていたと言う伝説や、
神武以前の不思議な神話も数多く残っている、
いつ頃からあるかも分からない様な神社......
「弊立神宮=へいたてじんぐう」
というところから「浪漫ちっく街道」はスタートします。
知る人ぞ知る、深い山間にあるその不思議な神社「弊立神宮」から、
太陽の昇ってくる「東」の方向をジッと見てみます......
すると、そこに、
何やら一本の不思議な「線」がイメージ出来る事に気がつきます。
はい......
それが......「Ley Line = レイ・ライン」です。。
つづくのだ!じゃじゃーーん!(><)/
神話の宝庫、弊立神宮。
高天原はココ!
なんて碑も立てられています w( ̄o ̄)w オオー!だいたーん!
高千穂峰も実は!?ココなんだぜーい......
なんて碑も立ててあります。
ココに伝わる神話の真偽はともかく、本当にヤバい所。
特に本殿裏の山と降りた所にある......
もう不思議としか言いようがありませんが......
歴代の宮司さんも皆その道の有名人。
カン!?のある不思議ちゃんが行く際は、何卒!気を引き締めて。。
弊立神宮。やはりヤバいんですね。以前にIさんが、虹色の数の種族が宇宙から降り立ったのでは?とおっしゃっていた時に、こちらの五色人が浮かびました。でも数も違うし、御祭神をみるとニビルっぽいし…時代が違うのかな…とか。この虹色の宇宙種族のお話、とてもとても気になってます。
熊本はトンカラリンもありますし、馬刺しも食べてみたいし、ボアコンフトリクター⁉️のこともありますし、気になりどころです。が、何にせよ遠すぎます(笑)。
大切な過去記事を読んでいただいているようで、
ありがとうございます。
いつか記事になる日を楽しみにしてまーす。
謎はたくさん。
いつもありがとうございます。
ありがとうございます。