駿 府 は 96 か 町

駿府はちぃっと覇気がないけぇが,御所(ごせ)っぽくていいじゃん【ごせっぽい≒平穏でせいせいしている様】

呉服町一丁目(ごふくちょう いっちょうめ)

2008年10月06日 06時06分06秒 | 駿府96か町のいま
▽呉服町通りの静岡駅から最も遠いこの地点が本来の呉服町通りの入口。
(静岡駅側は言わば裏口で、駅を中心に発展した新興都市とは違う。)



こここで言う呉服町一丁目は、現在の呉服町一丁目ではなく「旧 呉服町一丁目」です。
 〈位置はこちらを御覧ください。)

現在“呉服町”を冠する町は「呉服町一丁目」と「呉服町二丁目」の2カ町ですが、
駿府96カ町においては、「呉服町一丁目」~「呉服町六丁目」の“6カ町”でした。
(何度も書きますが、駿府における「丁目」は、町名の下位区分ではなく、町名の一部と解すべきです。)

丁目の付け方は駿府の町名の原則どおり、城から見て右手(つまり静岡駅から遠い方から)から
一丁目、二丁目・・・六丁目と、1丁(約109m)ごとに付けられていました。

したがって「旧 呉服町一丁目」は、呉服町通り沿いのうち、本通(ほんとおり)との交差地点から
上石町(かみごくちょう)通りとの交差地点までの1丁(約109m)の町(いわゆる両側町)でした。

1940年の静岡大火後の街路の拡幅・新設による町名変更で、
呉服町一丁目~呉服町三丁目の3カ町を 新「呉服町一丁目」、
呉服町四丁目~呉服町六丁目の3カ町を 新「呉服町二丁目」に再編されて、
呉服町を冠する町は現在の“2カ町”となり、
「丁目=1丁」という長さの関係は崩されてしまい、「○丁目」は単なる記号化してしまいました。

(1丁ごとの街区になっている中心市街地では、江戸期の原則どおりの町名が残されていれば、
現在各地で実施されている「新住居表示制度」よりよほど分かりやすかったのではと思われます。
単に行政効率優先で再編されてしまったのは、非常に残念なことです。)

呉服町と言うと商店街というイメージでしょうが、この「旧一丁目」にはほとんど商店はありません。
(したがって、「呉服町名店街」という商店街組織は、旧呉服町一丁目~五丁目の商店で組織されていますが
 実質的には旧呉服町二丁目~五丁目の商店の加盟となっている。
 なお、旧六丁目は「呉六名店街」という別の商店街組織となっている。)

「旧一丁目」で一番目立つのは、
何といっても静岡銀行本店(登録有形文化財指定)でその存在感を誇示しています。

この静岡銀行本店がある本通り(ほんとおり)との交差点は、
静岡空襲(1945(S20)年6月20日未明)の際の攻撃目標とされたということです。
なんでも、1940(S15)年の静岡大火の際の延焼の仕方の情報を米国は持っていて、
この地点を攻撃目標にすれば、最も効率よく当時の静岡市の市街地のすべてを焼き尽くすことができるという判断されたからだそうです。

なお、この交差点にあったかつての市内電車の停留所名は「呉服町」でした。


▽1931年建築の登録有形文化財に指定の静岡銀行本店


▽本通り側から見る:呉服町通りを挟んで静銀の向こう側に屹立するのは「呉服町スクエアビル」




旧呉服町一丁目を現在の町名で言うと・・・呉服町一丁目1、2、10番地(町名変更は1945年)


アクセント
「呉服町」の伝統的地元アクセントは、「低高高低低」です。(「チョウ」が東京の有楽町と同じシラフ))
呉服町は、静岡市の代表的繁華街ということもあり、放送などで取り上げられることも多いのですが、
最近は地元放送局のアナウンサーも静岡育ちでない人がほとんどのためか、
ゴフクチョウを「低高高高高」と「チョウ」を大福帳のようなアクセントで読むことが多いようです。
そのせいか、最近は若い世代を中心に「低高高高高」というアクセントで話す「大福帳病」が蔓延(?)しており、
伝統的地名アクセントの破壊が進行しているようです。

方位の表記について
駿府の町割りは方位に対して傾いているので、
JR線や国道1号を東西に見立てた方位がよく使われているのですが、
ここでは(特に碁盤の目地区)、より実際の方位に近い
「札の辻を起点にして城のある方向を北」とした方位の表現をします。
したがって呉服町通りは東西、七間町通りは南北の通りということになります。

その他
記事内容は誠実に書いているつもりですが、内容の正確性を保障するものではありません。

⇒ 呉服町二丁目へ

新谷町(しんがいちょう)

2008年09月18日 18時18分18秒 | 駿府96か町のいま
<この地図には「新貝丁」と表記されている>
<○=現江川町交差点、 黄線=現御幸通りのおおむねの位置で右手が静岡駅>

<再開発ビル、下層部はペガサートの愛称が付けられている。>

<耐震偽装でビルを取り壊し、2階建で再出発したバイブ2007ビルにある駿府城の図>


大阪人なら「しん・たにまち」と読んでしまうかもしれませんが、
新谷町は「しんがいちょう」と読みます。
 町名の由来は小梳(おぐし)神社の神官、新谷右近の屋敷があったからだと言われています。
(小梳神社は、旧青葉小学校あたりにあったものを、
 駿府城築城に伴い新谷町へ移転、さらに江戸期に紺屋町へ移転したとか)

新谷町は、今はない町名であるばかりか、
どのあたりか認識するのも難しくなってしまっていると思います。

というのは、新谷町は江川町通りの北端からほぼ直角に東へ伸びる
旧東海道沿いの町(江川町通りと旧紺屋町通りの間約40間)だったのですが、
御幸通りの建設に伴う区画の変更で現地の街区の形状が
変わってしまっているからです。
(御幸通りは、駿府の町割りの方角を無視するかのように、
 江川町交差点と駅を真っ直ぐ結ぶように斜めにつくられた。)

現在の街区で言うと、おおむね江川町交差点からの伝馬町通りということになります。

現地に建つ新谷町の旧町名の碑の説明板には、
これらの説明は一切なく大変不親切です。
また、路線式の江戸期の城下の町割り(ヨーロッパの都市の住所表示方に近い)
現在の街区式に拘泥して表示しているのですが、
この表示は返って理解しづらいでしょう。
(道路に面していない土地がどこの町に属するかということは、
現在の固定資産税の課税や土地の登記等には必要なことではあっても、
江戸期の町人地ではあまり意味のないことだと思われます。)

旧新谷町のあたり

方位の表記について
駿府の町割りは方位に対して傾いているので、
JR線や国道1号を東西に見立てた方位がよく使われているのですが、
ここではより実際の方位に近い「札の辻を起点にして
城のある方向を北」とした方位の表現をします。
したがって呉服町通りは東西、江川町通りは南北の通りということになります。

その他
記事内容は誠実に書いているつもりですが、
内容の正確性を保障するものではありません。

下魚町(suite)

2008年09月11日 05時15分44秒 | 駿府96か町のいま

<宝台院の本堂(葵区常磐町二丁目13番地の2)>

 
<お愛の方の墓>

  
<宝台橋はなくなってもバス停は「ほうたいばし」>

 
<門前の店:静岡風親子丼の元祖(?)中村屋は今川の時代からあるとか>

下魚町といったら「宝台院」でしょう。
かつて下魚町の通りのすぐ裏手から宝台院の境内地だったようです。
昔の地図を見ると(地図の縮尺が正確とは限らないが)1万坪はありそうです。

西からの旧東海道を安倍川を超えて駿府城方面に向かうとき、人宿町から七間町へ直角に曲がるのですが、
ここを曲らずにまっすぐ進むとそのまま宝台院参道(今は普通の道だが)となり宝台院正面に達します。
<新通一丁目→梅屋町→人宿町三丁目→藤右衛門町→常慶町→下魚町(宝台院)>
あたかも宝台院のために旧東海道の通る位置が選定されたかのようです。

格式を誇った宝台院も静岡大火(1940年)で焼失し
その後の区画整理により境内地の大方を失い(戦後は裏側を国道1号用地に削られ)
今ではほとんど本堂のみと言った感じです。
(大火で焼失前の本堂は国宝であった。)

なお、秀忠寄進の山門は
1932年に菊川市の応声教院という寺に移設されていたため
大火に合うこともなく今日でも見ることができるということです。
(寺院の財政状況で売却されてしまったのでしょうか?)


 
<宝台院あたりの図(参道には塔頭があったようだ)>
<写真は逆方向から(参道も今では普通の道)>


<寺院併設の幼稚園、少子化で来年春に閉園が決まっていて、現在は年長組だけとか>

下魚町(しもうおちょう)

2008年09月07日 18時39分05秒 | 駿府96か町のいま

<これといった特長をみつけにくい町並(安倍川方向を望む)>

<しずおか かっぱばしを謳う>

<漢方の石川屋>

<大正時代に七間町三丁目(当時)から下魚町へ移ってきたという大石精肉店>


旧【下魚町】は、玄南通り(タカラ同横から南へ伸びる道)の江尻町の南側、現・昭和通り
から南へ一丁(60間、約109m)の町(丁目は付かない)でした。
(真ん中を東西に横切る小路は静岡大火後の区画整理で設けられたもの)

下魚町と言っても現在のこの地域には、旧町名にふさわしい業種の店はないようです。
6代続くという漢方薬局(旧静岡市の市民景観大賞を受賞)が異彩を放っているようです。
たまご酒さんのブログにも

なお、上魚町(別称「上之店(かみんたな)」)は現在の金座町(日銀静岡支店があるところ)、「中之店(なかんたな)」は、現青葉通りの一番北部(下石町一丁目北側:町名には採用されず横丁扱い)です。

まったくの余談ですが、駿府の言葉では格助詞の「の」は、「ん」になることが多いようです。(共通語でも「ぼくのうち」を「ぼくんち」等の例がある。)
例:火屋の土手(ひやんどて)、札之辻(ふだんつじ)

さすがに東京の「山手線」を「やまんてせん」と言う駿府衆に出会ったことはありませんが・・・(笑)

下魚町を現在の町名で言うと・・・常磐町二丁目1・2・4・5番地の各一部(町名変更は1945年)




方位の表記について
駿府の町割りは方位に対して傾いているので、JR線や国道1号を東西に見立てた方位がよく使われているのですが、ここではより実際の方位に近い「札の辻を起点にして城のある方向を北」とした方位の表現をします。
したがって呉服町通りは東西、七間町通りは南北の通りということになります。

その他
記事内容は誠実に書いているつもりですが、内容の正確性を保障するものではありません。



江尻町(えじりちょう)

2008年09月04日 20時58分43秒 | 駿府96か町のいま

<人工の樹木が・・・>


<古い料亭も健在。1880年創業の求友亭(葵区 常磐町一丁目6番地の1>


<昭和通りとの交差点・ビジネスホテルが建設中>


旧【江尻町】は、玄南通り(タカラ堂横から南へ伸びる道)の平屋町の南側、現・昭和通りまでの一丁(60間、約109m)の町(丁目は付かない)でした。
(真ん中を東西に横切る小路は静岡大火後の区画整理で設けられたもの)

江尻町という名称から清水と関係あるのかと思っていたのですが、どうやらこのあたりの南西の旧川辺村あたりは沼地になっていて、その沼地に流れ込む川が流れていたことから命名されたようです。(江尻(現清水区)出身者が多く住みついた町とする説もあるようです。)


旧江尻町を現在の町名で言うと・・・常磐町一丁目4・5・6・7番地付近(町名変更は1945年)



方位の表記について
駿府の町割りは方位に対して傾いているので、JR線や国道1号を東西に見立てた方位がよく使われているのですが、ここではより実際の方位に近い「札の辻を起点にして城のある方向を北」とした方位の表現をします。
したがって呉服町通りは東西、七間町通りは南北の通りということになります。

その他
記事内容は誠実に書いているつもりですが、内容の正確性を保障するものではありません。

平屋町(ひらやちょう)

2008年09月04日 19時43分21秒 | 駿府96か町のいま

<呉服町通りの旧五丁目の東端にあるタカラ堂横から南へ伸びる「玄南通り」、一番手前の一丁は、町名のないいわゆる横丁だが「玄南横丁」と呼ばれていた。さらに一丁ごとに「平屋町」「江尻町」「下魚町」と寺町通りまで続く。(安倍川方向を望む)>





旧【平屋町】は、玄南通りの両替町通り交差点から南側へ一丁(60間、約109m)の町(丁目は付かない)でした。
(町の真ん中を横切る東西の小路は静岡大火後の区画整理で設けられたもの)
現在、この付近は両替町二丁目の横丁的性格になっており、ほぼ両替町と一体化した町と言っていいと思われます。両替町二丁目のように夜の方が賑やかかもしれません。

旧「平屋町」を現在の町名で言うと・・・
常磐町一丁目1番地、2番地の各一部
両替町二丁目の一部
(町名変更は1945年)



方位の表記について
駿府の町割りは方位に対して傾いているので、JR線や国道1号を東西に見立てた方位がよく使われているのですが、ここではより実際の方位に近い「札の辻を起点にして城のある方向を北」とした方位の表現をします。
したがって呉服町通りは東西、七間町通りは南北の通りということになります。

その他
記事内容は誠実に書いているつもりですが、内容の正確性を保障するものではありません。

紺屋町(こうやまち)

2008年08月30日 22時16分08秒 | 駿府96か町のいま


<古くからの店もある、平野屋の創業は1637年とか・・・>


<御幸通り方面へは見通せない>


<慶喜公屋敷跡の浮月楼>

旧【紺屋町】は碁盤の目地区最東端に当る町
(というより碁盤の目地区から東へ張り出した地区と言った方が正確かもしれません)で、
江川町通りのひとつ東側に平行する南北の道沿いの町(丁目は付かない)でした。

今は「紺屋町通り」というと呉服町通りの延長部分である東西の道(パルコの前の通り)を言うことが多いのですが、
もともとは南北の通り沿い(中島屋玄関前の通り)で2丁を超える長さがあったようです。

静岡駅の開業により駅方向への道が次第にメインとなったため、
本来の紺屋町通りは「通り」としてのまとまりは失われ、
「横丁(関西で言う筋)」的になってしまったといえます。

碁盤の目地区の「1町=1丁」の原則からはずれているのは、
東側は代官屋敷等で実質的に西側に町が偏っていたからではないかと推測されます。

この紺屋町通りの北側は直線でなくやや東へ曲っていますが、
これは都市計画で御幸通りができたとき、御幸通りとの接続の関係で曲げられてしまったようです。
(曲った道を直線にされる例は多くても、もともとまっすぐな道を曲げてしまう例は少ないような気がします。)

紺屋町の読み方は、一般には「こうやまち」と読むのが主流なのでしょうが、
高齢者を中心に「こんやちょう」という言い方をされることもあります。
(二通りの読み方が混在していたという事実は興味深いのですが、
 その昔は地名に使う漢字もいろいろな当て字が使われていたように、
 地名の読み方も今日のように厳格性が求められるものではなく、
 通じればよかったのかもしれません。
 あるいは明治になって多くの幕臣が静岡へきたため、
 江戸の町名の読み方「こんやちょう」が広まったのかもしれません。←と思ったのですが、
 古い地図に「コンヤ丁」と記したものがありましたのでちょいと違うかもしれません。)

旧紺屋町を現在の町名で言うと
紺屋町2~4、6、7、11、12番地の各一部(現在の紺屋町の静岡駅に近い部分は、江戸期には駿府市中ではなかった。)
(町名変更は1945年)


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方位の表記について
駿府の町割りは方位に対して傾いているので、JR線や国道1号を東西に見立てた方位がよく使われているのですが、
ここではより実際の方位に近い「札の辻を起点にして城のある方向を北」とした方位の表現をします。
したがって両替町通りは東西、江川町通りは南北の通りということになります。

その他
記事内容は誠実に書いているつもりですが、内容の正確性を保障するものではありません。

下桶屋町(しも おけやちょう)

2008年08月27日 09時14分04秒 | 駿府96か町のいま
この建物は、かつてビアホール(ニューキラク)として有名だったが、
今では転売されて業態が変わってしまった

このあたりにしてはめずらしく普通の民家もある

荷居屋のおじいさんも健在(?)

◆  地名に付く「下」「裏」「四」などは嫌われがちのようです。
例えば「四」については、新しく住居表示を実施しようとするとき、
たいてい「四丁目」や「4番」はいやだと地元から言われるらしいです。

実際、住居表示地区の地図をよく見ると、街区符号の「4番」や「42番」は、
意図的に欠番とされたり、
公園や公共施設しかない街区に振られていることも多いようです。

東京・銀座で賑やかなのは四丁目交差点付近ですですし、
 京都も四条通りが代表的な繁華街だったりします。
 また、江戸の「通(とおり)四丁目」にあった
 海苔問屋・井上海苔店(現在は小舟町)など
 「シチョウメ」が屋号のごとく使われたと言った事実もあるのですが・・・

駿府城下の「下」が付く町名はことごとく消滅してしまっていますが、
「下桶屋町」も 「上桶屋町」は現存するのになくなってしまっているというのは、
そんな世間の風潮と無関係とは言えないのでしょう。

特定の字にマイナーなイメージを重ねてこだわったりするのは、
個人的にはどうも納得がいきませんし好きではありません。
むしろ、過去にそういう字が付けられた経緯を考え
誇りに思うべきだとさえ思います。

それはともかく、旧「下桶屋町(丁目は付かない)」は、
鍛冶町で行きどまりになっていた南北の江川町通りの南端から
東西に広がる町でした。
(現・玄南通りから東へ江川町通りを越え、
旧紺屋町通り(中島屋ホテルの玄関がある南北の通り)まで)
碁盤の目地区の南東の端であるためか、この町は約2丁近くの長さがありました。

この下桶屋町だった通りは
現在裏通り的な感じで特別注目されることもほとんどないようです。
(個人的には、町名を失ってしまったことも大きいような気がするのですが・・・・)

◆ 下桶屋町(江戸期における)を現在の町名で言うと
常磐町一丁目1・6番地の一部
昭和町1・2・3・4番地の一部
紺屋町13・14番地の一部
(町名変更は1945年)



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◆ 方位の表記について
駿府の町割りは方位に対して傾いているので、
JR線や国道1号を東西に見立てた方位がよく使われているのですが、
ここではより実際の方位に近い「札の辻を起点にして城のある方向を北」とした方位の表現をします。
したがって呉服町通りは東西、江川町通りは南北の通りということになります。

◆ その他
記事内容は誠実に書いているつもりですが、内容の正確性を保障するものではありません。

鍛冶町(かじちょう)

2008年08月22日 04時37分27秒 | 駿府96か町のいま

(雑居ビルが立ち並ぶ)

(静清信用本店)

旧【鍛冶町】は、江川町の南端(両替町との交差点ー県警はなぜか紺屋町交差点としている)から静清信用金庫本店のあるブロック南端までの一丁(60間、約109m)の町(丁目は付かない)でした。
(真ん中を横切る静清信用本店横の小路は静岡大火後の区画整理で設けられたもの)
現在、江川町通りはこの先の川辺町(かわなべちょう)まで伸びていますが、かつてはこの鍛冶町で終点でした。
ここに料亭喜楽があったのも遠い過去になってしまいました。

なお、静岡市の大御所400年祭関連のHPでは、この鍛冶町の読みを「かじまち」としていますが、鍛冶町があったころを知っている人がまだ多く存命の時代、「かじまち」と言っている人は皆無でした。
したがって、「かじちょう」が正しいのではないかと思っています。


そのほかの市のHP上の読みと私見(?)との相違
藤右衛門町、とうえもんもち(市)→とうえもんちょう
鷹匠町、たかじょうちょう(市)→たかじょうまち
札之辻町、ふだのつじまち(市)→ふだのつじちょう


鍛冶町を現在の町名でいうと
紺屋町12番地付近、昭和町1・2番地付近
(町名変更は1945年)



方位の表記について
駿府の町割りは方位に対して傾いているので、JR線や国道1号を東西に見立てた方位がよく使われているのですが、ここではより実際の方位に近い「札の辻を起点にして城のある方向を北」とした方位の表現をします。
したがって両替町通りは東西、江川町通りは南北の通りということになります。

その他
記事内容は誠実に書いているつもりですが、内容の正確性を保障するものではありません。


江川町(えがわちょう)

2008年08月20日 11時29分15秒 | 駿府96か町のいま



旧【江川町】は、おおむね江川町交差点から両替町通りまでの
いわゆる江川町通り沿いの町(丁目は付かない)です。
(うち、呉服町スクランブル交差点までは旧東海道です。
また中島屋ビル横の※東西の小路は静岡大火後の区画整理で設けられたものです。)

駿府の碁盤の目地区では、ひとつの町が原則として1ブロック、
つまり1丁(60間、約109m)ごとに名付けられているのですが、
駿府の東はずれに当るこのあたりの江川町、紺屋町、下桶屋町などは
やや変則的になっていて2丁近い長さの町となっています。

また、現在は旧東海道(伝馬町通り)とは江川町交差点で五さ路となってつながっていますが
御幸通りが開通するまでは江川町通りとは直角につながっていました。


「江川町」は1945年消滅しているのですが、
江川町通り、江川町交差点、江川町地下道というように江川町の名が使われているため、
失われてしまった町名の中では最もよく知られている町名かもしれません。
江川町の名は、一説によると今川時代からあったとも言われています。

なお、江川町の“旧町名の碑”が江戸期にはなかった御幸通り側に設置されているのは、ちょいと疑問に思われます。
たしかに、土地としては御幸通りの一部も江川町でしょうが、
城下の町名の付け方の基本は通りに沿って付けられたのですから、
当然に江川町通り側に設置すべきものでしょう。
(多分、御幸通り側の方が設置する土地の確保がしやすかったのでしょうが、
 これではせっかくの碑も誤解を与えるもとです。)


江川町を現在の町名で言うと
御幸町4番地付近、紺屋町1・3・4番地付近
(町名変更は1945年)


明治期の地図
赤線沿いが江川町(一部横丁を含む)
緑線は、附近の新設された道路



方位の表記について
駿府の町割りは方位に対して傾いているので、JR線や国道1号を東西に見立てた方位がよく使われているのですが、
ここではより実際の方位に近い「札の辻を起点にして城のある方向を北」とした方位の表現をします。
したがって両替町通りは東西、江川町通りは南北の通りということになります。

その他
記事内容は誠実に書いているつもりですが、内容の正確性を保障するものではありません。

常慶町(じょうけいちょう)

2008年08月16日 13時29分45秒 | 駿府96か町のいま

<瀟洒なたたずまいを見せる鉄筋の教覚寺―もちろん1940年の静岡大火後の区画整理で大幅に境内地が削られていると思われる。>



大阪城下では、城から垂直に西方向に伸びる東西の通り沿いに町名がつけられていて、通りには城下町特有の“間口狭小奥行長大”な家々が建ち並んでいました。
この東西の通りと直角に交差する南北の道は、角地の家の側面となり、原則として入口はなく、単なる横丁でした。
そのため、南北の道は「通り」ではなく「筋」と呼ばれるようになったということです。(したがって、大阪人は合理的なので『東西は「通り」』、『南北は「筋」』というように分かりやすく区別しているというのは、あまり正しい理解ではないということになります。)

一方、駿府の碁盤の目地区でも、城から垂直に伸びる本通・上石町・人宿町・七間町・下石町というように、やはり南北の通り沿いに町名が付けられてはいましたが、城下を東海道がクランク型に抜けているためか、変則となっており呉服町・両替町通りなどは城と平行な東西の通り沿いに町名が付けられています。

七間町などの南北の通りと交わる東西の通り(呉服町・両替町などを除く)は、原則として家の入口がない横丁であり、町名が付けられてはいませんでしたが、変則であるがゆえに例外もあります。
碁盤の目地区最南端の東西の通りである寺町通り一つ手前の通り沿いの常慶町もその例外に当てはまるものと思われます。

旧【常慶町(じょうけいちょう)】は、下石町三丁目の南端の角から東へ一丁までの通り沿いの町(丁目は付かない)なのですが、実質的は通りの南側のみで、しかも教覚寺の境内地だけだったという変則的な町です。

教覚寺は、静岡では珍しい浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺であり、向えの真宗大谷派(お東さん)の常光寺と向かい合っています。

なお、「常慶町」の名の由来は、教覚寺の境内地が松下常慶の屋敷跡だったからだと言われています。
また、「常慶町」の名は1945年消滅して現在は常磐町二丁目の一部となっています。
(1寺で1町では行政効率が悪いということでしょうか。でも住居表示町名としての「駿府公園」や用宗漁港の「港」なども人口ゼロなのですが・・・・)

余談ながら、戦後できた常磐町一丁目~三丁目の「常磐」は、一種の瑞祥地名だと思われますが、この常慶町から1字拝借したのではなんて個人的には思ったりします。

常慶町を現在の町名でいうと
常磐町二丁目7番地付近
(町名変更は1945年)



方位の表記について
駿府の町割りは方位に対して傾いているので、JR線や国道1号を東西に見立てた方位がよく使われているのですが、ここではより実際の方位に近い「札の辻を起点にして城のある方向を北」とした方位の表現をします。
したがって両替町通りは東西、下石町通り(青葉通り)は南北の通りということになります。

その他
記事内容は誠実に書いているつもりですが、内容の正確性を保障するものではありません。



下石町三丁目(しもごくちょう さんちょうめ)

2008年08月09日 14時01分35秒 | 駿府96か町のいま
<青葉通交番―最近は遠方から静岡おでんを求めて訪れる人も多いためか、
 入口に青葉おでん街と青葉横丁への案内が貼ってある。>

<別雷(わけいかずち)神社―96カ町の町頭がここに集まり駿府の自治を担っていた。
戦前はもっと大きな境内だったものが、静岡大火後の区画整理の結果
現在の敷地となったようだ。狭い敷地に無理やり押し込められたような印象もある。>

<交番からは至近距離の通り東側にある青葉おでん街>


旧【下石町三丁目(しもごくちょう さんちょうめ)】は、現在の青葉通りの昭和通り交差点から南へ2筋目(一丁)までの南北の通り沿いの町でした。
(一丁の真ん中を横切る小路<別雷神社横>は、静岡大火<1940.1.15>後の区画整理でもうけられたもの)
当然のことながら、一、二丁目同様かなりの面積が道路になってしまっていて、通り沿いの西側が七間町、東側が常磐町二丁目に再編され(1945.9)、下石町三丁目は消滅してしまいました。

なお、南端に接する東西の通りを東に入ったところにある常光寺は、
宝台院(常磐町二丁目13番地の2)で謹慎していた慶喜の護衛のために
静岡に来ていた江戸の町火消し、新門辰五郎が投宿していたということです。


下石町三丁目を現在の町名でいうと
七間町の一部、常磐町二丁目の一部
(町名変更は1945年)


方位の表記について
駿府の町割りは方位に対して傾いているので、JR線や国道1号を東西に見立てた方位がよく使われているのですが、ここではより実際の方位に近い「札の辻を起点にして城のある方向を北」とした方位の表現をします。
したがって両替町通りは東西、下石町通り(青葉通り)は南北の通りということになります。

その他
記事内容は誠実に書いているつもりですが、内容の正確性を保障するものではありません。



下石町二丁目(しもごくちょう にちょうめ)

2008年08月06日 03時40分02秒 | 駿府96か町のいま
▽青葉通り・旧下石町二丁目にあたる部分には
ふらんすのベルナール・ジトン作の「ZEN」というオブジェ(噴水彫刻)が設置されて
朝8時から夜10時(冬季は9時)まで、一日中ゴロンゴロンとパフォーマンスをしています。



旧【下石町二丁目(しもごくちょう にちょうめ)】は
現在の青葉通りの明治安田生命ビルのある交差点から昭和通りまでの間の両側
南北1丁(1丁≒109m)の町でした。
(一丁の真ん中を横切る小路<杉山翠雲堂ビル横>は、静岡大火<1940.1.15>後の区画整理でもうけられたもの)
当然のことながら、一丁目同様かなりの面積が道路になってしまっていて
通り沿いの西側が七間町、東側が常磐町一丁目に再編され(1945.9)、下石町二丁目は消滅してしまいました。

昔、NHKの女性手帳などを担当していた、所作や言葉遣いが上品な感じの原アナウンサーはこの町の生まれとか・・・・

なお、南端に接する東西の通りの昭和通り(国道362号)は
昭和初めに3~4間の幅員が12間(約22m)に拡幅されたもので
建設された当時は静岡で最も広い道路だったようで「12間道路」という言い方もされていました。
昭和通りは、都市計画上25mに拡幅予定があるため建築の制限がされているらしく
現在この通り沿いの建物は道路に接した部分はすべて2階建以下になっており
(1.5mほど後方部分から3階以上になっている。)
高いビルなどはあらかじめ後退して建設されています。
(都市計画決定から半世紀以上も放置したまま、住民に制約を課しているのは、ちとひどすぎるような気もします。)


下石町二丁目を現在の町名でいうと「七間町の一部」「常磐町一丁目の一部」
(町名変更は1945年)



方位の表記について
駿府の町割りは方位に対して傾いているのでJR線や国道1号を東西に見立てた方位がよく使われているのですが
ここではより実際の方位に近い「札の辻を起点にして城のある方向を北」とした方位の表現をします。
したがって、両替町通りは東西、下石町通り(青葉通り)は南北の通りということになります。

その他
記事内容は誠実に書いているつもりですが、内容の正確性を保障するものではありません。

下石町一丁目(しもごくちょう いっちょうめ)

2008年08月04日 06時42分48秒 | 駿府96か町のいま
▽呉服町ふしみ屋西横から南へ伸びる「旧下石町通り(現青葉通り)」、一番手前の一丁は、町名のないいわゆる横丁だが「中之店(なかんたな)」と呼ばれていて静岡大火前までは魚屋などが集中していたらしい。その先の一丁ごとに「下石町一丁目」「下石町二丁目」「下石町三丁目」と三つの町が寺町通りまで続く(安倍川方向を望む)


▽毎日江崎ビル


▽青葉通りで8月3日まで開かれていたストリート・ジャズ
 

旧【下石町一丁目(しもごくちょう いっちょうめ)】は、現在の青葉通りの両替町通りとの交差点から南へ二筋目までの両側、南北1丁(1丁≒109m)の町でした。
(一丁の真ん中を横切る小路<江崎ビル横>は、静岡大火<1940.1.15>後の区画整理でもうけられたもの)

上石町(かみごくちょう)があって、なぜ下石町がないのか不思議に思っていた方もいたかもしれませんが、現在の青葉通り沿いの町が下石町なのです。

下石町通りは、それまでの3間程度の幅の道が静岡大火後に防火路として36mに拡幅されたため、町のかなりの面積が道路となってしまいました。
下石町一丁目の残った部分は、北側は両替町二丁目、南側は通りの西側が七間町、東側が常磐町一丁目に再編され(1945.9)、下石町一丁目は消滅してしまいました。

青葉通りという名称は必ずしも悪いとも思いませんが、「下石町」という由緒ある町名を通りの名称として活かさずに打ち捨てて、わざわざとってつけたような名を通り名とする必要があったのでしょうか。
単に「しも」というのがマイナスイメージとして嫌われたのでしょうか。

なお、下石町の名の由来は、江戸の本石町と同じで、米・穀物商などが多く居住していたことによるものです。

下石町一丁目を現在の町名でいうと
七間町の一部、常磐町一丁目の一部
(町名変更は1945年)


方位の表記について
駿府の町割りは方位に対して傾いているので、JR線や国道1号を東西に見立てた方位がよく使われているのですが、ここではより実際の方位に近い「札の辻を起点にして城のある方向を北」とした方位の表現をします。
したがって両替町通りは東西、下石町通り(青葉通り)は南北の通りということになります。

その他
記事内容は誠実に書いているつもりですが、内容の正確性を保障するものではありません。

両替町六丁目(りょうがえちょう ろくちょうめ)

2008年07月30日 09時16分12秒 | 駿府96か町のいま
▽夜はにぎわう旧両替町六丁目も朝は閑散とした町なみである。





旧【両替町六丁目(りょうがえちょう ろくちょうめ)】は、
両替町通りの西から6ブロック目(つまり静岡駅に最も近いブロック)の町で、玄南通りと江川町通りの間の東西一丁の町でした。
(現在の両替町二丁目は、おおむね旧両替町四丁目~六丁目を合わせたもの)
現在、玄南通りや静岡駅にも近い旧六丁目はほとんど飲食店街となってしまっています。
四半世紀ぐらい前までの普通の商家が並んでいた下町的な風情は全くなくなってしまっています。
そういえば、昔ここには“十の字”という料理屋があり、親戚の法事などで利用したりしたものでした。

両替町六丁目を現在の町名でいうと
両替町二丁目5、6、7番地
(町名変更は1945年)



アクセント
両替町のアクセントは、「低高高低低低」です。
最近は地元TV局のアナウンサーも静岡育ちでない人がほとんどのためか、「低高高高高高」というアクセントで読むことが多く、伝統的地名アクセントの破壊を助長しているようです。

方位の表記について
駿府の町割りは方位に対して傾いているので、JR線や国道1号を東西に見立てた方位がよく使われているのですが、ここではより実際の方位に近い「札の辻を起点にして城のある方向を北」とした方位の表現をします。
したがって両替町通りは東西、江川町通りは南北の通りということになります。

その他
記事内容は誠実に書いているつもりですが、内容の正確性を保障するものではありません。