こちらの上魚町からの続きです。
▽ 左:敷地が本通一丁目と金座町(きんざまち)にまたがる日本銀行静岡支店は
建物の正面が本通を向いているにもかかわらず所在地に金座町を名乗る。
(本通は「ほんどおり」ではなく「ほんとおり」。 アクセントは「高低低低低」)
▽ 右:同じく、中町(なかちょう)と金座町にまたがる清水銀行静岡支店(元、中部銀行本店があった場所)も同様に金座町所在を名乗る。
銀行にとって相性のよい町名ということも言えると思われる。
(金座町は 住居表示未実施で「番地表示地区」)
▽ 安西・茶町の製茶問屋への通り道であるこの通りは
かつてお茶の見本缶を持った「さいとりさん(お茶のあっせん業者)」が
静岡駅から自転車で争うようにここを通ったという。
そのため自転車の修繕需要も高く自転車屋さんが多い通りだったという。
この先、土手通りの向こう側は茶町、当然にお茶屋も何軒かある。
(これらのお茶屋はさりげない店構えでも江戸期からの創業もめずらしくない。)
お茶屋の隣りは金座稲荷でその前に金座跡の記念碑がある。
▽ 左:マンションなどが増えつつある金座町の通り、電柱の看板にもあるようにお茶の関連産業の事業所も多い。
▽ 右:金座町の横丁(土手通り)にはこんな店(量り売りの味噌屋)もある。
大正時代に静岡で初めての歩道付きの道路となり
小間物屋であった“千代鍛冶”が勧工場 (かんこうば:こんにちのデパートに当る)と
なるとなるなど 常に話題を提供していた上魚町が
昭和の時代になると その繁華性をしだいに失ったのは
1889(M22)年の鉄道の開業により
静岡市の町の重心が徐々に静岡駅方面に移っていったことが大きいのでしょう。
また、中心地点であるがゆえに
この地域(上魚町・旧呉服町一丁目、旧呉服町二丁目)に
銀行(安倍銀行・三十五銀行・静岡銀行など)や会社が進出し
商店街が虫食い状態のようになってしまったことも
人通りを少なくしてしまった大きな要因として
否定できないようです。
その“上魚町”が「金座町(きんざまち)」と改称したのは
1928(S3)年11月10日のことです。
これは言うまでもなく
駿河小判をつくった金座がここにあったことにちなむものです。
家康の側近であった
後藤庄三郎光次(京都の御用調金師の後藤宗家の女婿)という人が
大御所となった家康とともに駿府へ来て
ここに3000坪近い屋敷を得
江戸と駿府の二元体制である大御所政治が終わるまで
ここで金座を統括したということです。
場所は現在の日銀静岡支店の敷地を含む
通りの南側(静岡駅方面を背にして左手)のようです。
その金座も大御所政治の終えんにより
江戸(現・本石町一丁目の日銀本店のあるところ)へ移されました。
なお、銀座は旧両替町二丁目にありました。
銀座跡の碑についてはこちらの「両替町二丁目」をご覧ください。
昭和の時代になると その繁華性をしだいに失ったのは
1889(M22)年の鉄道の開業により
静岡市の町の重心が徐々に静岡駅方面に移っていったことが大きいのでしょう。
また、中心地点であるがゆえに
この地域(上魚町・旧呉服町一丁目、旧呉服町二丁目)に
銀行(安倍銀行・三十五銀行・静岡銀行など)や会社が進出し
商店街が虫食い状態のようになってしまったことも
人通りを少なくしてしまった大きな要因として
否定できないようです。
その“上魚町”が「金座町(きんざまち)」と改称したのは
1928(S3)年11月10日のことです。
これは言うまでもなく
駿河小判をつくった金座がここにあったことにちなむものです。
家康の側近であった
後藤庄三郎光次(京都の御用調金師の後藤宗家の女婿)という人が
大御所となった家康とともに駿府へ来て
ここに3000坪近い屋敷を得
江戸と駿府の二元体制である大御所政治が終わるまで
ここで金座を統括したということです。
場所は現在の日銀静岡支店の敷地を含む
通りの南側(静岡駅方面を背にして左手)のようです。
その金座も大御所政治の終えんにより
江戸(現・本石町一丁目の日銀本店のあるところ)へ移されました。
なお、銀座は旧両替町二丁目にありました。
銀座跡の碑についてはこちらの「両替町二丁目」をご覧ください。
▽ 街路樹に埋もれるように佇む金座跡の碑(1955年設置)
昔見た記憶では、もっと立派な碑だったような記憶があるのだが・・・(笑)
(他都市ならもっと誇らしげにきちんとした掲示板など設けるところだろう。)
なお、このちょいと先(安西寄り)に静岡市内線の「金座町電停」があった。
子どものころ「金座町」の町名もこの電車で覚えたのだった。
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最近まで千代鍛冶という物流業者があったと思ったのですが、電話帳にもなく検索しても出てこないので廃業か合併等でなくなってしまったのかもしれません。
現在、“ちよかじ”として残っているのは、この梅屋町の文房具屋さんだけのようです。
この店との関係は知らないのですが、少なくとも暖簾分け等で全く関係がないということはないかも知れません。648
知る限り、この文房具屋さんは、長期にわたり、営業を続けているようです。
江戸期には、名前のとおり魚屋をはじめ、青物などを扱う店などが立ち並んで、中央マーケットを形成していたようです。
たしかに今の状態では、意識しないで通ると見過ごしてしまいますね。
新橋会館はスクランブル交差点のところにありましたね。
たしかに当時としては都会的雰囲気の店でした。
(前のブログをみてびっくり!でしたもの)
田舎から上静し、両替町(呉服町?)の新橋会館(煉瓦の壁)でハヤシライスを食べ、
こんなにうまいものがあるんだと都会に憧れる様になりました。
金座跡の碑は左90度廻して貰えないんでしょうかね(右90度)でも?