(武家地、寺社地は原則として町名は付けられていません。また、江戸時代末期の江戸は1600ほどの町があったといわれています。
なお、「◯◯町◯丁目」で一つの町として機能しているので、「◯ 丁目」は番地のような町の下位区分ではなく町名の一部 ととらえるべきです。
したがって、96か町というのは「◯◯町◯丁目」で1町と数えます。静岡市の旧町名の碑はその原則を無視して単に両替町などとして碑を設置していますが、丁目ごとに設置するのが無理ならせめて「両替町一丁目~六丁目」とすべきでしょう。)
駿府は今も一丁四方(約109m×109m)の慶長の町割りでできた碁盤割地区が中心市街地となっています。
その駿府城下の碁盤割地区の位置を分かりやすくするために、現状(2008年12月現在)の建物・施設等を重ねてみました。
当然のことながら当時とは道幅も違うこともあり、現施設等の本来の位置や広さとは違います。
▽ 上方向が駿府城(現駿府城公園)、右手方向が現JR静岡駅方面(現在の静岡駅附近は安倍郡南安東村で駿府の市中ではなかった)です。
▽ 江戸期の町名は、原則として通り沿い(通りの両側が同じ町)の1丁ごとに町名が付けられていました。
(現在の※住居表示制度よりも、はるかに分かりやすい)
▽ 家の向きは原則として横丁(図の緑)には向いていないで
いわゆる「通り(図の赤と黄色)」に向いていたため横丁には町名が付けられていません。
横丁でも町に準じるような箇所では玄南横丁、中之店(なかんたな)のように名前がついていたところもあります。
▽ 碁盤割地区では、整然と1丁(約109m)ごとの街区になっていて、 「◯ 丁目」 は文字通り1丁ごと でした。
( したがって、呉服町一丁目から六丁目まで歩けば、測らなくても約650m歩いたことになる。)
現在、呉服町通りと平行の街路は、半丁ごとになっていますがこれは静岡大火(1940年)のあと、街区の中間に設けられたものです。
▽ 中心部には江戸期の町名がかなり残っているようでも、この地図からその実態は大きく変えられてしまっていることが分かると思います。
(町名が改正されたのは1940年の静岡大火後で、施行は1945年9月20日)
▽ 新谷町と旧紺屋町通りは、1930年に御幸通りが開通したとき御幸通りと接続する部分が直線から曲線状に付け替えられてしまったので
現在その一角は碁盤の目状の街区が破壊されてしまっています。(現伝馬町通りは江川町通りと直角に交わっていた。)
◆ この地域内で失われた町名は → こ ち ら
※ 住居表示制度
1962年から始められた住所・所在地を土地の地番(いわゆる番地)でなく
「街区符号+ハウス番号」とし、「〇〇町(又は〇〇✕丁目) ✕番 ✕号」と表示する制度
なお、住居表示が実施されても従前の番地は廃止されるわけではなく
土地の登記や固定資産税の課税には従来どおりの番地が使われます。
参 考:江戸時代の駿府 新考(若尾俊平著 静岡谷島屋発行 絶版)ほか