>> <<引き続き、尾高からのノート。
— review (@myenzyklo) 2018年1月9日 - 17:37
かかる結論に共鳴し、むしろすすんでこれを主張し、傲然として弱者を睥睨しつつ覇道を闊歩しようとする者は、それでよいかも知れない。しかし、その覇業が中道にして破れ、四面楚歌を聞くときにいたって、おかつかれは自己の信念をぬき通すことが
きるであろうか。国家滅亡の悲運に直面するにいたったとき、世界史の担い手は実は自己ではないことが明らかになったとき、なおかつ自己を滅ぼしつつある仇敵が世界理性によって選ばれた国であることを喜びとし、その剣の前に首をさし伸べつつ、その仇敵のために賛歌を唱することを厭わない者が
— review (@myenzyklo) 2018年1月9日 - 17:38
あるであろうか。兵を動かして敵を制圧するのは、勝者にとっても策の下なるものである。まして、敗者の立場は悲惨の極みである。殊に、戦争の規模と惨禍とが幾何級数的に拡大しつつある今日に生まれしめたならば、ヘエゲルといえどもその戦争観を修正することを余儀なからしめたに相違ない。
— review (@myenzyklo) 2018年1月9日 - 17:38
ヘエゲルは、戦争の最中にも国家と国家とをつなぐ紐帯があるといい、したがって、国家の内部組織や国民の家族生活・私生活は戦闘行為の目標とはならないと説いた。かような言葉は、この実力主義の哲学の中から不用意に洩れこぼれた人間的感傷の点滴であると同時に、当時の戦争がかような感傷を
— review (@myenzyklo) 2018年1月9日 - 17:39
許すほどの規模のものであったことを物語っている。これを更に積極化して戦争のロマンスを語り、戦争に際して発揮される道義精神を賛美するものは、東西を通じてその例に乏しくない。けれども、それは箙に梅をさして駒を陣頭にすすめた頃の戦争、フランスの騎士が、「イギリス人諸君よ、まず射給え」
— review (@myenzyklo) 2018年1月9日 - 17:41
(Messieurs les Anglais, tiroz les premiers)と叫んだ頃の戦争の話である。今日の戦争は、その規模とともにその性格をも全く変えてしまった。ラアドヴルッフのいう通り、近代戦はもはや戦争のエトスと名誉とを失ってしまったのである。
— review (@myenzyklo) 2018年1月9日 - 17:42
戦争は、それ自身の論理を追いつつ発展することによって、無条件に避けられなければならない害悪と化しつつある。理由の如何を問わず戦争は何としても防止しなければならないという必要が痛感され、既往や現状に対する批判は別として、まず平和の維持に全力を挙げなければならないということが、
— review (@myenzyklo) 2018年1月9日 - 17:43
国際政治の絶対の要求となって来たのである。この巨大な現実の動向は、ヘエゲル流の現実主義の戦争観を過去に葬り去って、現実の中から新たな理念と秩序とを生み出そうとしている。その理念と現実の結びつきが、
— review (@myenzyklo) 2018年1月9日 - 17:44
まさに新たな国際法建設の企図となって現れて来たのである。
— review (@myenzyklo) 2018年1月9日 - 17:46
以上、第七章 第三節 の終り
(s.267)
尾高のヘーゲル批判への評注 - 夕暮れのフクロウ blog.goo.ne.jp/aowls/e/f01eb6…
— review (@myenzyklo) 2018年1月9日 - 21:06
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