夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

価値は消費者のニーズで決まる⎯⎯マルクス「労働価値説」のまちがい

2021年07月13日 | 法の哲学
 
価値は消費者のニーズで決まる⎯⎯マルクス「労働価値説」のまちがい
 
以前の記事の再録です。
高橋洋一氏も「価値は消費者のニーズで決まる」ことを指摘されて、マルクスの「労働価値説」の愚説であることを説明されています。
価値の実体について、ヘーゲルの「法の哲学」における説明をマルクスはきちんと正しく受け継ぐことのできなかったことがわかります。


事物の価値と欲求 ⎯⎯⎯ 価値の実体について - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/MPGE0B


事物の価値と欲求 ⎯⎯⎯ 価値の実体について

先に拙訳だけツイッターで投稿して済ませたものですが、この§63において行われている、事物の使用価値と、その特殊な質から抽象された普遍性である価値の実体との関係についてのヘーゲルの考察は、アダム・スミスらによって 明らかにされてきた「労働価値説」や、さらにはマルクスの資本論における「投下労働価値説」や「生産価格論」の不十分さやその矛盾など、価値の本質をあらためて考えるのに参考になると思います。さらに原文もあわせて記録しておきました。
また「das Bedürfnis」 を「欲求」と訳すべきか「欲望」と訳すべきか、あるいは、それとももっと適当な訳語があるのか迷っています。よい意見があれば教えていただければうれしい。

§ 63
Die Sache im Gebrauch ist eine einzelne nach Qualität und Quantität bestimmte und in Beziehung auf ein spezifisches Bedürfnis. Aber ihre spezifische Brauchbarkeit ist zugleich als quantitativ bestimmt vergleichbar mit anderen Sachen von derselben Brauchbarkeit, so wie das spezifische Bedürfnis, dem sie dient, zugleich Bedürfnis überhaupt und darin nach seiner Besonderheit ebenso mit anderen Bedürfnissen vergleichbar ist und danach auch die Sache mit solchen, die für andere Bedürfnisse brauchbar sind. Diese ihre Allgemeinheit, deren einfache Bestimmtheit aus der Partikularität der Sache hervorgeht, so daß von dieser spezifischen Qualität zugleich abstrahiert wird, ist der Wert der Sache, worin ihre wahrhafte Substantialität bestimmt und Gegenstand des Bewußtseins ist. Als voller Eigentümer der Sache bin ich es ebenso von ihrem Werte als von dem Gebrauche derselben.
Der Lehnsträger hat den Unterschied in seinem Eigentum, daß er nur der Eigentümer des Gebrauchs, nicht des Werts der Sache sein soll.

§63[事物の価値、価値の実体]


使用される事物は、質的にも量的にも規定せられた一個の個体であり、そして特殊な欲求にかかわるものである。しかし、それらの特殊な有用性は同時に、同じ有用性のある他のものと量的に比較の可能なものであり、それによって充足される特殊な欲求は、欲求一般であり、
そして欲求一般という点において、その特殊性にしたがって同じく他の欲求と比較が可能であり、そして、そこからまた事物はそのようなものとして、他の欲求に対して使用される事物とも比較できる。この事物の普遍性は事物の特殊性から生じてくる単純な規定性であって、したがって、その特殊な質から抽象されるのであり、この事物の普遍性とは、事物の価値のことであり、その事物の価値の中に、その真の実体性が規定されており、そして意識の対象となる。事物の完全な所有者として私はその使用についてと同じく、その価値についても完全な所有者である。


中世の家の子郎党らは、その所有においては、彼らは単に、使用権の所有者にすぎないのであって、事物の価値の所有者ではないという違いがある。



※20190114追記
ここでは「die Sache」を「事物」と訳したが、「事柄」とも、単に「もの(物)」とも訳すこともできる。人間の所有の対象はかならずしも「物」のみに限らないから、とりあえずここでは「事物」と訳しておいた。「die Sache」と 「die Dinge」の違いがここではよくわからない。
この「die Sache」はのちにマルクスが「商品(die Ware)」として、資本論のなかで詳細に分析し、そのなかに含まれる要素として、使用価値と交換価値 Gebrauchswert und Wert(Wertsubstanz, Wertgrose) を見出し、さらに、その価値の実体として人間の労働力を対象としたことで知られる。
しかし、価値の実体とは、ここでヘーゲルが明らかにしているように、欲求一般という普遍性であり、「特殊な欲求」を抽象化することによって、その真の実体として「価値」を人間の意識の対象としたものである。したがって事物の真の実体、価値の実体は「人間の欲求」であって、「人間の労働力」ではない。

 
 
【左翼の末路】『長谷川が見た 逃走・裏切り・内ゲバ』
 
 
 
 

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