玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*禅問答

2010年07月19日 | 捨て猫の独り言

 西日本の大雨被害をよそに東京地方は平穏である。ここしばらくは「ヤマユリが咲いて梅雨が明ける」という文句が気になっていた。今年はユリが庭に5本も姿を見せている。いずれも2メートルを越して自力で垂直に立てないほどに伸びてしまっている。ほど良くたたずむユリに仕立てるよい方法はないものか。みっともないことおびただしい。気象庁は17日に列島の広い範囲の梅雨明けを宣言した。前日までは閉じていた庭のユリが梅雨明け宣言当日見みると暑い日差しの中で一部が花開いていた。ずばり的中に感激である。いつの間にやら百日紅も咲き始めた。

 最近「禅」に対して興味深い一つの見解に出会った。多くの宗教はユーモアや笑いと対立関係にあるが、それとはまったく逆なのが仏教であろう。仏教のなかでもとりわけ笑いとかかわりが深いのが禅宗だというのだ。先日2才児を自転車に乗せて子守途中に平櫛田中(でんちゅう)彫刻美術館に飛び込んだ。冷気にあたり、気分転換するには入場料300円は安い。何度も目にしていたパンフレットだが今回は田中(でんちゅう)が影響を受けた一人に禅僧の西山禾山がいたという記述に注意が向いた。

 他に入場者の姿はない。木彫りの「気楽坊」を前にして「アハハしているね」とジジは解説した。「アハハ?」「そうアハアハ」。笑いがテーマという作品では他には「法堂二笑」という微笑する僧の2体のブロンズが目についた。そういえば漫画を描くことが得意な私の同級生は広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像を好んでいたことを思い出す。おそらく仏師は仏の慈悲の最高表現としてあの微笑みを選んだのだろう。

 禅問答で「神とは何でしょうか?」=「おまえはだれだ?」、「経典によれば万物は一に帰すといいますが、その一はどこに帰すのでしょうか?」=「わしは青洲にいたとき、衣を一枚作らせたがその重さは七斤だった」、「一切諸仏の師匠は誰でしょうか?」=「タタン・タンタン、チチン・チンチン」などが有名のようだ。理性は万能という妄想図式から解放されたときひとはどうして笑わないでいられようということか。こざかしい分別を捨てよというのが「禅の哲学」らしい。

コメント
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