暮、近くの図書館に出かけ借りたい本の検索をした。肝腎の本は貸し出し中や取り寄せの必要があり予約を入れた。何にしようと例によって書架の前を行きつ戻りつした。手に取った本の一つが津田梅子。幼少時留学し、津田塾大学を創設した程度の知識しかなかった。徒歩15分の津田塾市民講座に通った際、5人の女子留学生中最年少の梅子(6才)が、つま先立って船上から見送りの人に手を振っている後姿の壁面大の油絵が私の印象にも残っていた。
1871年、時の政府高官(大久保・木戸・伊藤博文)や留学生の100余名からなる岩倉具視使節団に、随行員という形で同行しアメリカへ留学した。5名の女子中2名は病気その他あって11年後帰国したのは3名だった。梅子は6才で出立し、多感な時期をアメリカのランマン家で実子同様に養育され、18才で希望に満ちて勇気リンリン帰国した。
この本は、30年に亘る梅子とランマン夫人との数百通の往復私信(’84大学本館3階の物置で発見された)を中心に構成されている。内容的には近代思想の中で育った梅子と、貴重な官費で教育を受けてきた彼女等を活かそうしなかった日本の現状への落胆と、雇われた学校の方針と自分等が理想とする理念の乖離から、自ら私学を起こし女子教育をしようと決意し、実行した過程が記されている。朝日新聞社経由で同校卒の大庭みち子氏にシリーズ化を依頼し’90年には製本された。私信というだけあって、思いの丈が息遣いと共に聞こえて来て興味深かった。他2名のその後や、奔走する梅子への多数の支援者等、次回もう少し触れてみたい。