昨年暮れの沖縄旅行のメンバーの一人から「まだでしたら、どうぞご一読を」のメールが届いた。『月刊「新潮45」9月号、86頁~92頁に「安倍クン、気をつけて」という青柳氏の文章が掲載されています。以前の毎日新聞のインタビューをご自分の論説として敷衍・展開したものです。とくに卒業生に必見です』とある。さっそく図書館に出かけた。図書館では新着本のコピーは禁じられていることを知る。興味深いことに直前の78頁~85頁に「妻から見た素顔の安倍晋三」という安倍昭恵総理夫人へのインタビュー記事がある。編集部のちょっとした配慮かもしれない。
「安倍君、刮目して読んでみて欲しい」1970年から3年間成蹊高校で「倫理社会」の担当だった恩師が諭す「天に口なし人をもって言わしむの伝」という長い副題がついている。まえがきの部分で「私は一市民として、本誌紙面を借りて安倍君に直言することにした。民主主義社会はこれと敵対するような政治権力には市民一人ひとりの批判と行動を求めているからである」と青柳氏は書いている。
本文は「安倍少年との出会い」「安倍晋三君の反論」「安倍晋三批判序説」「叔父の警告」という章だてになっている。私なりに要約して紹介してみる。青柳氏は川崎市の市立中学校で教職経験を積み成蹊に着任する。その最初の年に倫理社会を履修した高校一年生の安倍君と出会う。ある日の授業でギリシャ哲学とは関係ないように見える「安保問題」をふと口にした。安倍君は安保条約には経済協力協定もあると反論してきた。のちに安倍首相が「美しい国」の中で彼の反論にあった私の顔色の変化から反権力を唱える人間の「うさんくささ」を実感したと書いている。
どのような印象を抱くかは自由である。だが、歴史的事実に基づいて「安保問題」を生徒と共に考える教師を反権力者として単純に決めつける思考様式こそ「独断」と「偏見」に引きずられているのではないか。「安倍一族」に代表される特権的地位に立つ人々は「普遍概念である人権」には無意識的な拒否反応を起こす。特権は特殊な人々しか享受できないから、両者は対立関係にある。そのことを彼等は肌身に染み込まされて育った。首相もその例外ではない。特権意識とその裏返しとしての差別意識は安倍首相の思想と人柄の形成の核となっている。
安倍晋三の超タカ派路線を危惧する人が、彼の身内からも出た。晋太郎の異父弟、晋三の叔父にあたる西村正雄(日本興業銀行最後の頭取)である。安倍晋三の首相(第一次)就任は二十年早いと判断し阻止しようと各方面に働きかけたのである。晋三の能力と資質から判断すれば至極当然な警告であった。甥に宛てた手紙に書いたという。「偏狭なナショナリストと離れろ。・・・「リメンバー・パールハーバー」の精神が生きている米国でも靖国神社は軍国主義の社(やしろ)と捉えられている。国家を誤らせる偏狭なナショナリストとは一線を画すべきじゃないか」けだし至言であろう。今は亡き叔父上の言葉に耳を傾けるべきではないだろうか。
政治とは、福祉とサービスを国民に行き渡せることだと君は再認識すべきです。