一月下旬に咲くという「緋寒桜」の見物は今回の旅の目的の一つでもある。「ヒカン」と「カンヒ」と二通りの呼び名があるので混乱する。別に「彼岸桜」というのがありそれとの混同を避けるためにひっくり返して「寒緋桜」の呼び方になったという経緯があるようだ。今回の滞在の中で雨の予報は三日目の5日(金)だけだった。この日が私にとって桜見物のチャンスである。午前中に一回しかない7時39分のバスで名護城跡を目指した。
沖縄の大動脈と呼ばれて、西海岸沿いを走る国道58号と東海岸の辺野古ゲート前を通る国道329号は名護市で合流する。そのあたりの地名を世富慶(よふけ)という。この交差点は名護湾に面して名護市の中心部への入口とも言える場所だ。世富慶のバス停前のコンビニで久しぶりのコーヒーで一息つき、それから雨の中を歩きだした。目印のオリオンビールの工場を捜していると、思いがけなく名護博物館横で名護親方(中国名・程順則)の銅像に出会った。
琉球朝日放送が放送終了後に、放送だけで終わるのはもったいないとして出版した「琉球いろは歌」で私は名護親方のことを知った。近世の沖縄を代表する政治家であり、文学者・教育者でもある。それから桜まつりの会場の名護城跡に急いだ。名護城は標高100mの丘陵にあり石垣のない城だ。長い石段の両側には桜の木と灯籠が並んでいる。降りしきる雨の中を石段を登るのは私の他に一人の男性がいるだけだった。先週の30日と31日で桜まつりは終わったというのに、桜は満開にはほど遠くこれからという状態だった。
つぎに名護港に向う途中の公園で徳田球一のレリーフに出会い、球一の球が琉球の球であることを知った。雨の中を歩き回っているうちに靴の中は、ずぶぬれになり風も強くなってきた。雨の港を見学してから、人が多く出入りしている港の食堂で早めの昼食をとる。さて夕方のバスの時刻まで、どう過ごすべきかしばらく思案する。どこかで「名護囲碁クラブ」という看板を見たのを思い出してその方向へ引き返した。碁会所は東江(あがりえ)中学校の向い側にあった。運のいいことに、ちょうど関係者が鍵を開けるところだった。しばらく待っていると席亭も姿を見せて「与那覇と言います」と自己紹介した。五段の与那覇さんと、つぎに別の五段の方と2局打たせてもらった。囲碁をやっていてよかったとつくづく思う。私は三子置いて初めは10目勝ち、つぎは1目負けだった。宿に帰ると一番先に靴に新聞紙を詰める。広間には雨の中をゲート前で座り込んだ人たちばかりだ。私は肩身のせまい思いでコンビニで買った夕食をすませた。