このところテレビを見たことがきっかけで、これまで本棚に埋もれていた宮沢賢治に関する本を4冊ほど読むことになった。その中の一冊に谷川徹三の講演集「宮沢賢治の世界」があった。二人が生まれたのは一年違いで、谷川は童話の代表作を挙げよと言われたら「グスコーブドリの伝記」を、詩ならば「雨ニモマケズ」と答える。そして「雨ニモマケズ」を「この詩でない詩、そして同時に詩の中の詩」と讃えている。
さらに「私は鴎外の墓の前にも、漱石の墓の前にも、ほんとうにへりくだった心をもって跪きたいとは考えません。しかし賢治の墓の前では跪きたい」と述べている。また聞いたこととして、賢治が自分でも死の近いことを自覚し父親に枕元に来てもらった時に、うず高い原稿を指して「これは自分の今までの迷いの跡であるから、どうにでも適当に処分していただきたい」と言った。同じ日の晩弟を呼んだ時には、原稿の中の特に詩と童話とを「これはお前にやるからどこかの本屋で出したいというところがあったら出したらいい、しかしこちらから持って行くにはおよばない。向うから何かいってくるまでそのまま預かってくれ」という意味のことを言ったと紹介している。
全くの余談だが、盛岡高等農林学校時代に嘉内と一緒に写っている賢治の写真をテレビで見た瞬間に感じたことがある。それは賢治が今年からMLBに挑戦するマリナーズの菊池雄星投手とそっくりだということだ。これは私だけの感想ではないような気がしているがどうだろう。しかも雄星は盛岡出身であり、昨年二刀流で話題をさらった大谷翔平と同じ花巻東高校を卒業している。
「雨ニモマケズ」に関しての吉本隆明の解読を要約してみた。「アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ」について判断力、理解力、記憶力といったものをたくさんのなかから選択していることが難解なのだ。たぶんこれは「法華経」のじぶんは無であり偏在しながらすべての事象と人間の心の動きを〈察知〉する能力というものを詩語にしてみたかったということなのではないか。「ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ」というのは現実の賢治とはまるで反対のことである。これはあくまでも弱小なものさげすまれているものの〈善意〉や〈無償〉でなければ意味がないということなのではないか。