玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*ETV特集宮沢賢治

2019年03月04日 | 捨て猫の独り言

 ETV特集「宮沢賢治 銀河への旅~慟哭の愛と祈り~」を見た。盛岡高等農林学校での友人である保阪嘉内との交流を描いた番組である。エンドロールには参考文献「宮沢賢治の真実・修羅を生きた詩人」、音楽は「パリは燃えているか」の加古隆、映像協力は国立天文台とあった。どの本の賢治の年譜にも保阪嘉内の名は登場しない。しかしウィキペディアには賢治の親友として知られ、代表作の「銀河鉄道の夜」のカンパネルラのモデルとされると記されていた。(徒歩10分の梅)

 賢治20歳の時に、賢治より1年遅れて山梨の嘉内(同年生まれ)が入学してくる。嘉内は寮の室長である賢治に対して「トルストイの生き方を知って盛岡に来ました。百姓こそ人間のあるべき姿です。自らを犠牲にして農民のために尽くすのが理想」と述べる。嘉内は数日で一気に書き上げた「人間のもだえ」という劇を賢治らと演じる。山頂で日の出を迎えようと松明を掲げて二人だけで岩手山に登る。また文芸同人誌「アザリア」が創刊されると二人はその中心メンバーとなる。

 その5号に投稿したニヒリズムが関わる一節で嘉内は退学処分となる。賢治は学校当局に再考を求めたが覆らない。山梨県立文学館には賢治から嘉内への73通の手紙が保存されている。そのうち56通は嘉内の退学後のもので、二人で登った岩手山の夜のことが多く書かれている。それ以前に賢治も見たであろう嘉内のスケッチブックには1910年のハレー彗星が描かれており、そこには「銀漢(河)を行く彗星は夜行列車のようにて、はるか虚空に消えにけり」と書き込まれていた。

 賢治は19歳のときに、釈迦の「宇宙は広さも時間も無限」という言葉に感激し、妙法蓮華経を座右において読誦することになる。退学の決まった嘉内に賢治は「漢和対象妙法蓮華経」を贈っている。二人は3年4カ月後に東京で再会するが、その日の嘉内の日記には「宮沢賢治 再会来」と書かれた文字を上から斜線で消している。賢治もゴッホ同様死後にその才能が認められた人物だ、生前自費出版した詩集の題は「春の修羅」である。春は自然、修羅(鬼神・悪鬼)は自我だろう。その詩でくりかえされる「俺は一人の修羅なのだ」が印象に残る。

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