玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*歎異抄

2024年09月02日 | 捨て猫の独り言

 高橋源一郎著「一億三千万人のための歎異抄」を読んだ。新聞広告のキャッチコピーは「みずみずしいぼくたちのことばになった歎異抄」だった。噛み砕かれた文章が連なり、著者のサービス精神にくすぐったさを感じながらテンポよく読み終えた。ソクラテスのプラトンのように、親鸞の言葉を弟子の唯円が書き残した日本で一番有名な宗教の本だ。印象に残ったことの一部を記しておきたい。

 仏教界内部のつぎのような(正しそうな)批判が朝廷を動かし、浄土宗に対して過酷な宗教弾圧が行われた。「本当の意味の念仏は、人間の心の中に、念ずる心菩提心があって、それが言葉となって名号を称える。ところが法然とかその弟子たちは名号を称えさえすれば誰でもわけへだてなく浄土へゆけるみたいに言いふらしている。それは仏教として堕落以外のなにものでもない」と。

 それに対して著者の(?)反論はつぎの通りだ。「普通の人のこころの中に、菩提心とか慈悲はあるのだろうか。そんなものよりもっと単純でもっと根本的なもの、ただ〈つらい〉があるだけだ。まずはネンブツをとなえるのだ。まずことばがあるのだ。意味などわからなくてもかまわない。ただもう熱中してありがたいそのことばを口にするだけでいいのだ。ことばと〈こころ〉の関係では、いつでもどんなときでも常識とはちがってことばが先行する。こころが決めるのはきっかけだけなのだ」と。

 親鸞たちは同じ仏教界から攻撃され罪人となった。非僧非俗になった時親鸞は気づいたのだと思う。おれは僧侶だから信じていたのではない。それが信じるべきものだから、それだけの理由で信じていたのだ。ぼくは親鸞の宗教性は非僧非俗からやってきたと思っている。宗教というものを一度否定しない限り「信仰」の奥底には行き着くことができない。親鸞はそのことを明らかにしたのである。《追記》別の本で知ったが、西部邁氏は他力本願とは「自分を捨ててかかること」だと述べている。

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